第74話 運命の少女(5)
それからフレデリック王子は、恐れ多くも僕のやや後方に控えているカイトに歩み寄られた。僕も人のことは言えなかったが、カイトが足下に跪いて、柄にもなくがちがちに緊張している様子が、傍目にも可笑しいほどだった。
「おまえ、名前は?」
殿下がそう仰せになると、カイトは呼吸をするのと息を飲むのとを一度にやろうとしたようだった。そのために、まるでお決まりの喜劇のように言葉につまったのに顔を赤くしながら、ようやくしどろもどろに自分の名前を名乗った。
殿下はそれを嘲笑うでもなく頷いた。
「カイトか……、まあ何にせよ、ゴーシュが失礼をしたね。
こいつは困った悪戯者でね、ときどき考えも及ばないような悪さをする。おまえは今夜は、たまたまそれに巻き込まれたというわけだ。恐らく彼がおまえに突撃したのはわざとだろう。だからおまえに落ち度はない。粗相を許してやってくれ。
代わりにおまえにはこれをやろう。たぶん、売るといい金になるはずだ」
そして殿下は胸につけていたブローチをはずすと、カイトに手渡した。
それは一見するだけでも細工の見事な黄金のブローチだった。カイトはそれを取り落とさないために両手を捧げて恭しく受けとめると、即座に普段の彼からは考えられないほど慎重な感謝の意を口にした。家宝にするとか何とか、そういうことを言っているようだったが、緊張が酷すぎて無惨な発声になってしまっていた。
「いや、構わないよ。遠慮なく売っていい」
しかしフレデリック様は気分を害するでもなく涼しい顔でそう仰せになり、それからほとんどついでのように僕にも目を向けられた。
「立ち位置からして、おまえはカイトの主人らしいな。さて、ここはおまえにも一応名前を聞いておくか」
「は、はっ、アレックスと申します、アレックス・アムブローズ・パリス・アディンセル」
「ほう、あのアディンセル家か。アディンセル家は私もよく知っているよ。そのアムブローズ、と言うことはあのでしゃばり伯爵の弟か。それではオーウェルと顔見知りのわけだな」
殿下はそう言って、ちらりとオーウェル公子を振り返った。それで公子は憮然として顔をふいと横に背けた。
王子は肩を聳やかし、再び僕に視線を落とした。
「まあ……、このようにおまえの兄は、オーウェル公子に大変に慕われているというわけだ。私としても、悔しいがあの伯爵はいい男だと思うよ。幼少のみぎりには、純粋に彼のような色男になりたいと願っていた。
もっとも最近は妬ましさが先に立つ。私は見ての通りあまり体格に恵まれているとは言えないからな、ないものねだりというやつだ。
いつかも、でしゃばりすぎだからそろそろ身を固めておとなしくしろと言ってやったのだが、恐ろしい愛想のよさでかわされた。食えない奴だよ。いや誤解するな、私はあいつを評価しているよ。父上も、その点は同じお考えのようだ――」
ふと、フレデリック王子はそれまでの何処か翳りのあった表情をいきなり笑顔に戻した。
「いずれにせよアディンセル家の人間となると、おまえとは今後様々の機会に接することもあるだろう。そのときはまた、ゆっくり話をしたいものだな」
それからフレデリック王子は、律儀なことにカイトにも同じことを言おうとなさったのかもしれない、再び彼のほうを向いたのだが、そこで何やら動きが止まってしまった。殿下が瞬きをされているので、何だと思って見てみると、カイトは殿下から品物を頂戴するという栄誉に余程感激をしたのか、そのまま感極まって泣き出してしまっていたのだ。
それを見た僕は驚き、これをどう言い繕おうかとそれこそ焦りに焦ったが、王子は更に唖然として、それからどう反応を取るべきか少々迷われた後、恐れ多いことに御自身も床に手をついてしゃがみ込むと、カイトの顔を下から覗き込んだ。
「何だおまえ、こんなことで泣く奴があるか。本当に泣いているのか……、これは驚いた。
まるで王族を見ただけで泣く旧時代の人間みたいだな。それともどうした、何かつらいことでも抱えているのか?
そうなら遠慮せず、私に何でも言ってみろ。私は私の目の前で涙に暮れる者を決して見過ごしはしない。私がおまえを助けてやるぞ」
「い、いえっ、ただ、あまりに有難く……、夢のようで……」
「夢? 夢とはこれはまた……、ははは、大袈裟な奴だな。こんなことは、泣くようなことじゃないだろう?」
そして王子は泣きながら傅くカイトの頭を、揉みくちゃに撫でて笑ったのだった。
殿下のこうした親身で好意的な態度が、カイトが後から主人である僕に叱責されないための配慮だろうということが、僕には何となく伝わってきていて、僕はとてもたまらない気持ちになった。
国家君主となる者は、その時代のすべての国民にとって父なる存在となる。その訓練が既になされていることを証明するように、彼は若いのに、まるで周囲の誰よりも年長であるような振る舞いを崩さなかったのだ。
それは子供の時分から伯爵なんて重荷を背負わされていた兄さんにも通じるものがあって、僕はこの若い王子が当然ながら無理をしていることには気づいていた。だけどその心の持ち方や包容力こそが、女性を、マリーシアを惹きつけるのかと、これまでの人生をずっと、兄さんの庇護を頼りに生きてきた僕は敗北感にも似た思いを抱きながら、やっぱり最後までマリーシアから気持ちを離すことができなかった。
僕が長い間心の中に想い続けていた夢の女性は、僕よりも若いが僕よりも優れた男のものであることを、思い知らされて茫然としていた。
僕は彼女のことを何も知らず、これから先も尊い方の傍にいる彼女とひとこと言葉を交わすことさえ許されないだろう。
それなのにマリーシア、美しいマリーシア、僕は美しい貴方が現実に存在していたこの素晴らしい奇跡を、きっと生涯忘れることはないことを、今宵貴方の存在に、真実の貴方の存在に、誓うことができるのだ―――。




