第73話 運命の少女(4)
「ああ、なるほど。絵の具をぶちまけたのか、失礼。それは悪いことをした。
このゴーシュは、これで我が宮廷一の画家でね。絵描きとしての腕前は陛下をも唸らせる絶品なのだが、それ以外のことがどうにも中途半端なのだ」
画家の腕をその手から一時的に解放した後、フレデリック様は少々上擦ったような調子でそうおっしゃった。
殿下のお目にとまってしまったあまりの恐れ多さにひたすらまごまごする僕らに対し、意外にも殿下の態度は友好的だった。
彼は颯爽と歩き、僕たちのいる場所のすぐ近くの壁に寄りかかって腕組みをしてから、絨毯の上に跪いている僕とカイトをじろりと見た。
そのとき周辺にいた他の夜会客たちは、殿下が引き連れていた数名の取り巻きたちによって綺麗に追い払われていて、遠くからまだこちらを未練たらしく見ている者はいるものの、会話が聞き取れるような距離にはもう他の人間は誰もいなかった。
そのフレデリック王子の数名の従者の中には、よく見てみると先刻のオーウェル公子が混じっていたのだが、彼はどういうわけか僕のことを、割と不快そうな目で見ているのが僕をいっそう心細くさせていた。
一方王子はまるで新種の昆虫でも見つけたような、非常に興味深そうな顔をしてこちらを見ていた。目の覚めるような美少年が、ときどきはっとするような美しい顔をして、何かを思案しているようでもあった。
ともすればマリーシアの魅力に吸い込まれ、現実を忘れそうになる自分を押し殺して、僕は自分の中に叛意がないことや、王子に対して敵意がないことを、心の中を洗って何度も確かめていた。
僕らがアディンセル家に属している、つまりウィシャート公爵派の人間であることを殿下がもし御存知であるとしても、トバイア様の息子であるオーウェル公子と親しそうな御様子からして、さしたる咎めを受けることはないとは思う。でも、それでも心情的には俄然面白くないだろうと思うからだ。だからもしかすると嫌味くらいは言われるかもしれないと、僕は呼吸を整えながら覚悟していた。
「まったく、何かと思えば、こんな奴らにわびる必要などないのでは?」
ふと、側に控えるオーウェル公子が言った。
「この男は確か私の父の手下の……手下です。左にいるのは更に手下。殿下が話をする価値もない、ゴミみたいな連中だ」
するとオーウェル公子の説明に、フレデリック王子は彼を見た。
「つまりオーウェル、彼らは要は、おまえの知り合いということなのか?」
「いえ。知り合いではありませんね。取るに足らない連中という意味ですよ」
少なくとも表面上は僕らに友好的である王子とは対照的に、公子は僕を見る切れ長の目を更に残忍そうに細めて言った。
「ですから、こんな奴らに何を言い訳する必要があるんです。たかが絵の具をかけたぐらいのこと。殿下も、酔狂が過ぎます。貴方はときどき、周りに気を遣い過ぎるのだ。
もっとも俺は、そういう貴方だからこそ生涯お仕えしたいと思ったわけだが。何事も残酷になりきれない殿下の腹心には、俺のような男が不可欠でしょうからね。
まったく母親の出自が何だと言うのか、ここで重要なのは父系がどれだけ高貴であるかということのみ。極論を言えば、母親が奴隷だろうがそんなことは大した問題ではない。女など、どれだけ血統がよかろうと、連中はそもそも人間ではないのだから。我らは一時その腹を借りるだけ。所詮は子供を産ませることのみが存在理由の知性も体力も我らに劣る家畜なのだ。
そして建国王セリウスの直系男子である殿下こそは、我らが君主と頂くべき唯一の存在なのです。殿下、貴方は選ばれし者なのだ。ですからもっと自信をお持ちになることです。
例えばこんな奴……、貴方の権限で、いっそこの場で消してしまったほうがいいと思うんですがね。
殿下を未だ妾腹などと軽んじる連中にとっても、これはいいみせしめになるでしょう。我が父も、それで目を覚ますかもしれない。ためらうことなどありません。こいつはたかだか地方領主の次男……それに、ちょうど目障りな奴だと思っていたところだ。生贄にはもってこいですよ」
公子が言う目障りというのが、完全に僕のことだけを言っているのは分かっていた。オーウェル公子の思想はかなり極端で乱暴だったが、この国の根底を支配しているものでもあった。
確かにオーウェル公子と僕との間にはほとんど交流はなかったが、彼は少なくとも、僕がアディンセル家の人間であることを知っているはずなのに、これは何とも薄情な提案だった。
しかし幸いにも、薔薇君は公子ほど極端な人間ではないようだった。
フレデリック王子はふと表情を険しくして、オーウェル公子に向き合った。
「オーウェル、それは本気で言っているのか?」
「本気ですよ。ここで冗談を申し上げる理由がないでしょう」
「馬鹿を言え、彼らはおまえの父親の部下なんだろう」
「だったらどうなんです?」
オーウェル公子が、高貴な方に向けるにはあまりにも礼節を欠いた、挑発的な視線を王子に向けると、王子はそれに対して驚くことも怯むこともなく、御自分も真っ向から彼と視線を合わせた。
「オーウェル、私は無闇に部下の生命を軽んじる者が、部下に慕われる道理はないと言っている。
おまえが内心でどのような主義主張を持っていたとしてもそれは結構。私を慕ってくれることも有り難い、だがもし本気で私の意向を酌める人間になりたいと考えているのであれば知ってくれ。少なくとも私が目指しているものは、断じてそういうものではないんだ。
私とは、言わば人々を領導する正義の剣だ。私は我がサンセリウスのすべての国民の安寧のためにのみ生きることを神に命じられた者だ。
私は信心深いことを自称するほどに信仰に熱心であるわけではないが、日々このことを自分に言い聞かせながら毎日を生きている。
だから私は間違っても弱き者たちに刃を手向けるような真似はしない。女子供や、それに建国王の男系男子でない者たちもそうだ。
オーウェル、私はそのような選民思想を決して歓迎しない。
おまえの言うようなことを、私は私の信念において、絶対に選び取ることはない。これは私の出自こそが、私に学ばせてくれたことだ」
公子に向けられるフレデリック王子の口調は、飽くまで冷静で、間違ってもオーウェル公子を非難するようなものではなかった。
確かに王子は勝気な御性格には違いないのだろうが、僕が想像していた無鉄砲な直情さは持たない人物のようだった。気位の高さはその仕草や表情からよく分かったが、兄さんが言っていたような過剰なほどの劣等感も窺えなかった。少なくとも、同じ年頃の公子よりもずっと落ち着いていて理知的な感じだった。
公子は言われた内容に対するものとしては悲劇的に傷ついた顔をして黙ってしまったが、フレデリック様にはそれを微笑して受け入れるだけの度量があったのだ。
「だからおまえも学んでくれればいい。
何が正しいことなのか、私もまだ学んでいる途中なんだよ」




