第72話 運命の少女(3)
この世界のすべての場所に芍薬の花が咲いていることを、僕以外の人間が誰ひとり気づいていなかったとしても、いまや少女の姿は僕の心の中にある夢の庭園の住人とぴたりと重なって、僕の目の前に現れたのだった。
彼女はこの世界の誰よりも清楚で愛情に満ち、優しく僕に接してくれていたあの素晴らしい女性の生まれ変わりのように、いま再び僕の人生に舞い戻っていた。
廊下の金の装飾が夢の光彩を演出し、すべての風景が僕たちの再会を祝福しているかのように光り輝き、それから淡い光の粒子となってやがて色褪せていった。
そして僕はまるで夢を見ているかのように、その少女のことだけを見つめていた。
世界にはほどなく僕と彼女しかいなくなり、目の前に展開されているすべての動きが、まるで現実世界とは完全に隔たれた世界の出来事であるかのように、ゆっくりと流れていた。
胸を張って、軍隊でも率いているかのように堂々と、敢然としている王子に誰もが首ったけになっているのに、僕は王子に傅きながら、しかし心はその少女の存在に釘づけになり、今やサンセリウスの世継ぎの王子など眼中になかった。
僕は長い間探し求めていた大切な女性を遂に見つけ出したその感動に、打ち震えていた。
「ゴーシュ!」
あの細い身体の何処から、そんな大声を出せるのかというほどの迫力のある声で、王子は床に這い蹲るようにしている画家を叱った。
「マリーシアの肖像を描けと言っている。我が麗しの姉上によく似たこの娘の絵を。
貴様、何故そうやって私の言うことを聞かぬのだ。いちいち私に逆らいおって」
王子は画家のすぐ前までやって来ると、傍らの白いローブの少女を示し、それから再び怯えた顔をする画家を見下ろした。
そのおかげで彼女の名前がマリーシアということを図らずも知ることができ、僕はその素敵な名前を胸の中に深く深く刻み込んだ。
「分からん奴め。いったい、何が不満なのだ。報酬か」
僕の心に漂う甘く切ない気分などお構いなしに、尊大な態度で王子が問うと、画家は胸に鞄を抱えたままこう答えた。
「お許しくださいフレデリック様。でも、これから寝ずにマリーシアさんの絵を描けだなんて無茶過ぎますよ。フレデリック様っていうのは、本当に無茶なんだから。もう三枚も描いたのに、まだ描けだなんて。僕、死んでしまいます」
「それでもだ。おまえもそれが本職なら、ここは根性を見せろ」
「フレデリック様は根性って言葉、お好きですよね。僕それ、暑苦しくって嫌いなんですけどね。ねえ、絵の具が足りないかもしれないんです」
「安心しろ、すぐに業者を呼びつけてやる」
「ええぇ、あっ、急に右手が痛いかも……、だから少し、休まなくちゃ」
「ゴーシュおまえ、王子である私が命令しているのだ。男なら、どんなことでも気合いで何とかしろ。そうすれば、大抵のことは何とかなるものだ」
フレデリック王子は線が細く涼しげな見かけとは裏腹に情熱的なことを仰せになり、痺れを切らしたように画家に詰め寄ると彼の腕を引っ掴んだ。
それで画家は一瞬弱々しい態度で僕らのほうを一瞥し、それからまだ諦めがついていない子供の仕草でしょんぼりして王子を見た。
「分かりましたよう、分かりましたからそんなに引っ張らないでくださいフレデリック様。そんなだから、いつまでもおもてにならないんですよ。せっかく綺麗なお顔をしているんですから、もっと愛想よくなさったらいいのに。
ねえ、貴方が微笑むだけでいいんですよ。そうすれば世界が薔薇色に輝くってことを、どうして分からないんでしょう? きっと素敵なことが起こるのに」
若い画家が言っていることは、いかにも芸術家らしい言い草ではあったが、明らかに出すぎた一言だった。でも王子は特にそれで怒り出すこともなく、ただ真正面から堂々とそれを無視した。
「ねえフレデリック様ってば。そうやって真面目にして、恋もしないつもり?」
「ああ、煩いな。ふん、恋ね、恋ならしているではないか。私の可愛いマリーシアに。私はマリーシアが可愛くてたまらない。私は彼女にぞっこんだぞ」
観念した気恥ずかしさで王子が言うと、彼の傍らにいたマリーシアがたちまち頬を染め、嬉しそうに恥らった。
その様子を見て画家は拗ねたように頬をふくらませていたが、僕はそれよりも、何と言うか、自分の気持ちがこの上ないくらい絶望的に萎んでいくのがよく分かった。
マリーシア、彼女とは、あろうことか王子の愛しい人だったのだ……。
「馬鹿言ってないで、いいから来い」
王子はそんな僕の気分なんかお構いなしに再び乱暴に画家の腕を引き、それで画家はよろよろとそれに引きずられかけたが、ふと彼はまた僕たちのほうを振り返って、往生際の悪いことに王子に持っていかれているその足を絨毯の上に踏ん張った。この画家の言動や行動は年下の王子よりも随分子供じみていて、どちらが子供なのか分からなくなる無邪気なものだった。
「何だ!」
それで王子は今度こそイライラとした様子で手の先の画家を振り返った。
すると画家は、少々わざとらしいくらい哀れっぽい口調で言った。
「ああ、どうかお待ちになってくださいフレデリック様。大事なことを忘れるところでした。
実はたった今、僕、画材をばら撒いてしまって……、そちらの方の衣装を台無しにしてしまって……、おわびをしなくてはいけないんです」
「何、おわび?」
するとフレデリック王子が、やや芝居がかったような態度で、興味を惹かれたというように僕とカイトを見た。