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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第8章 運命の少女
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第71話 運命の少女(2)

何しろ男は最初は僕に突っ込んで来たのだが、すんでのところで僕の護衛役を兼ねてもいるカイトが僕を庇ったからだ。しかしどうしようもない協議をしていたために自分の身まではかわしきれず、カイトの衣服は運悪く絵の具にまみれた。

それで、恐らく宮廷画家らしい男は真っ青になってカイトの夜会服から絵の具を拭き取ろうとしたのだが、悪いことに彼がカイトの服を拭った布とは、既にたっぷりと色鮮やかな絵の具を纏いすぎて汚れている布だった。

その結果として汚れはより拡散し、カイトはこの画家が恐ろしいほど気配がないから反応が遅れたということを僕に言い訳していたのだが、次にはいま着ている衣装を廃棄しなければならないことをぼやかなくてはならなくなった。


「あんた何てことするんだよ、こいつは俺にとっちゃ一張羅なのに……」

「あああっ、すみませんっ、お坊ちゃま!」


カイトのことを、何処の誰だかは知らないだろうが、少なくとも陛下の夜会客であることを悟った画家は、血の気のない顔でカイトの足下に這い蹲り、そう命じられたわけでもないのに今度は自らの顔面を廊下の絨毯に擦りつけ許しを乞うた。


「ごめんなさい、ごめんなさい!」


矢継ぎ早にそんな行動を取られては、カイトも怒るに怒れないらしく、彼は戸惑ったように頭を掻いていた。


「この通りですからどうか生命だけは、生命だけはっ!」

「いや、生命なんか取らないから……、そうやって大袈裟にしなさんなって。なあ、ちょっとやめてくれ」


十字路の右手、夜会会場前の廊下にいる暇を持て余していた貴族たちが、やがてこの様子を見てざわめき始めていた。その視線に耐えられなくなったカイトが騒がしく平謝りする画家に顔を上げさせると、色白の、意外にも整った顔が露わになった。

僕はあまりしげしげと眺めたわけではなかったが、年頃を言うなら二十代前半、ともすれば僕と変わらないような印象だった。芸術家とはそういうものなのかもしれないが、鳥の巣のようなボサボサの髪といい、絵の具にまみれた身なりといい、他人事ながら、あまり自分の外見に関心や注意を払っていない様子なのが惜しいほどだ。


「王城じゃ、こんな小汚い画家でさえいっぱしの美青年ってか」


それを見て、カイトは僻みっぽく呟いていた。


「ゴーシュさんっ」


そこへ不意に、鈴の音の鳴るような愛らしい声が聞こえて来た。

聞き覚えは勿論ないが、何かに導かれるかのような引力を感じてそちらを向くと、長い金色の髪を揺らしながら小走りにこちらへ向かって来る少女の姿があった。

彼女は夜会会場にいる裕福な姫君方のような素敵なドレスを着ているわけでもなく、大して飾り気のない白いローブを纏っているだけの娘だった。陛下の夜会という晴れやかな日にドレスを着ていないということは、彼女の身分は高く見積もって地方男爵以下ということになるだろう。

少女はその細い身体には少々大きすぎる、太陽を模した飾りつきの錫杖を手にしていた。そのためなのか、その頼りなくも神秘的な風情に、僕は釘づけになった。

その透き通るような透明感と魅力に魅せられ、僕は頭の先からつま先までの全身全霊を雷に打たれたかのような気分だった。


「ゴーシュさん、急がないと殿下がいらっしゃいます……」


僕の視線や関心のすべてを一瞬にして絡め取った少女は、僕らの存在を内気な様子で気にしながらも画家のところまで走り寄って、彼の耳元に小声で何か話をした。

すると少女に耳打ちされた画家は、更に慌てた様子で散らばった画材を拾い集めようと床の上をもがきまわった。

僕が我を忘れて陶然としている間にも、足下ではカイトが仕方なくそれに手を貸していた。

やがて彼ら三人が散らばった絵筆やら絵の具やらをすっかり鞄に掻き集めた頃、怒号と言って構わないような大変な声量の呼び声が聞こえて、画家だけでなく廊下に居合わせた貴族や使用人、そして僕たちをも竦み上がらせることになった。


「ゴーシュッ! みつけたぞ!」


目を向けると、そこには数名の従者を引き連れた細身の美少年が、非常に憤慨した様子で足を踏み鳴らしていた。

サンセリウス王国王位継承権第一位をお持ちになる、世継ぎのフレデリック王子殿下の突然の御登場だった。

王子は僕のすぐ目の前にいる画家の青年めがけて進んでいらしたので、僕はまだ夢を見ているような気分をどうにか理性で押し込めて、慌てて最上級の敬意を払うために廊下に跪く姿勢を取った。

深夜であるせいなのか、それなのに薔薇の燭台の光が昼間のように明るいからか、それとも夢の少女に出会ってしまったせいなのか、僕は頭がぼうっとして、そのときの僕にはあまりにも現実感がなかった。しかしそれでも、王子殿下の御登場がたとえ夢であったとしても、臣下が採らなければならない行動は身体に染みついていた。カイトや画家も僕に従う形で、同じようにして王子殿下に敬礼をした。

そして僕は、突如強い真夏の日差しにさらされているような奇妙な感覚で、殿下とその一群が近づいて来るのをただ見ていた。

先刻彼を姫君だと形容した自分の浅はかさを失笑したくなるほど、間近で目の当たりにするフレデリック様というのは強力で力強い王子だったのだ。

まだ十六歳という若年ながらその存在感は名だたる武将の比ではなく、神々しく、剛毅でありながら典雅、凛として清冽、気品という気品……、彼は本当に、神々の住まう天の領域の住人であるかのごとく強く美しい人だった。

だからすべての人々はいまや彼に注目し、彼の輝くような生命力に魅了され、関心のすべてを彼に奪われていた。誰もが彼を熱望し、未来の君主を崇拝していた。

だけどその中で恐らく只一人、僕だけが、その美貌の王子以外のものにより心を奪われていたことを自覚していた。

その危うげな魂に。

確かに王子はこの場にいる誰よりも美しい。

だけど彼は、彼女ほど魅力的ではなかった。

少女の夢のような気配、そしてその美しい金色の長い髪や不安定で儚げなその風情が、僕の心を一瞬にしてさらい、その甘い姿を二度と再び忘れ得ないほどに僕の心に焼きつけてしまっていた。

他でもない、彼女がそうさせたのだ。あまりにも甘美な彼女の存在が。


「フレデリック様」


そう言って、王子を頼るように走り寄る少女の癖のない金髪が、一瞬金色の翼のように揺れてからおとなしく華奢な背中に戻って行く何気ないその後姿でさえも、僕の心を揺さぶるのに余りあった。

運命的な導きを感じ、その直感のままに目を凝らしてでも確認した瞳の色は、この素晴らしい奇跡を重ねて肯定するかのようにシェアと同じはしばみ色だった。

彼女はまるで、僕の心の中に今でも棲んでいるあの美しく尊い女性を、ほんの少し若くしただけの姿をしていた――。


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