第7話 打算と偽り
「アレックス様、アレックス様、どうか、お気持ちを確かに」
ジェシカが先刻から僕に纏わりついていたが、僕は気にしなかった。
「どうか、ああ、どうか。
閣下は、あの女性がまさかアレックス様の大切な方だとはご存知なかったのです」
「嘘を吐け!」
僕は、どうにかして僕の行く手を阻もうとするジェシカの呼びかけにも一度も足をとめることなく、そのまま床を踏み抜かんばかりの勢いで居城の廊下を急いだ。
今から思い出してもそのときの僕というのはこの世界のどんな者の怒りも及ばないほどの烈火のごとき怒りに満ちていて、傍から見たならばきっと荒くれ者の山賊の類か、手がつけられない悪鬼のような有様だったことだろう。
「アレックス様、閣下は、決して悪気はなかったものとおっしゃっております」
「煩い、黙れっ!
そんなことが信じられるか、どうしておまえが兄さんのお考えなんかを知っているって言うんだ。
ジェシカ、おまえは兄さんのためなら、どんな汚いことだって平気でやる人間なんだからな。
キャロルのときだって、あのときおまえは僕を謀って、足止めして、平気な顔で兄さんが彼女を襲うための時間稼ぎをしたくらいだ。
そんな嘘を吐くことくらい、おまえには朝飯前なんだろう!」
「誤解です!」
ジェシカは叫んだが、僕はそれを無視した。
そのまま兄さんの私室前に到着すると、重厚なアディンセル家の楓の紋章入りの扉を押し開け、室内に踏み込むなり迷わず寝室に突入した。
交際を重ねて数週間が経過していたが、かねてよりエステルの行動を不審に思っていたふしはあったんだ。
誠実な女性だと信じていたのに、裕福なアディンセル伯爵家の当主であり、いかにも信頼する対象として相応しい三十代の兄さんとこの城で対面する度、エステルの兄さんに対する媚を含んだ視線には実は気がついていた。
でもそれはエステルに限ったことではなく、兄さんを見る多くの女たちが、貴賤を問わずそうであるという現実もあった。顔見知りの貴婦人も、年老いた召使いも、ときには純朴そうな下働きの少女ですらそうだった。
だから僕はエステルがそうであることにも、面白くはなかったけど目をつぶってきたつもりだった。兄さんが魅力的であることは彼女たちの責任じゃない。そんな理由でエステルを責めるなんて、そんなのあまりに嫉妬が過ぎると思っていたからだ。
だけどそこへほんの半刻前、二人が関係しているという決定的な密告があった。
それで僕はいても立ってもいられずに、兄さんとエステルとの逢引の証拠を押さえるために、こうしてわざわざ見たくもない現場に乗り込んだわけなのだ。
寝室の中央にある天蓋つきの寝台の上には、寄り添う男女の薄影があった。
僕は気後れしそうな自分を励まし、いつか本で読んだことのある粗野で礼儀知らずな男の野蛮さを思い出すと、力いっぱい絹の垂れ幕を引っ張ってその正体を確認した。
案の定、そこには兄さんと、僕が運命の恋人だと信じていたエステルの姿があった。
エステルの全身の衣服ははだけていて、彼女の細い腰には兄さんの手が遠慮なく置かれていた。それなのに彼女はそれを少しも嫌がることなく、それどころか兄さんを頼りにして彼を見上げるその姿勢が、絹糸のような金色の髪と白い頤が、記憶の中のシェアと重なって見えて僕の視界は悔しさににじんだ。
「……何か用か? アレックス?」
少しも動じることなくこちらを見下した嘲笑を浮かべる兄さんを目の当たりにすると、僕の心は煮えくり返ったが、こんなとき、いったいどんな態度を取るべきなのかが分からなくなって立ち尽くした。
分かっていたのは、兄さんがエステルと関係しているという件の密告ですら、恐らく兄さんが指図して、わざと僕に伝えさせたことなんだろうという計略の予感だけだった。
エステルは、兄さんの胸に縋りついて、まるで自分が絶対的な被害者であるかのような顔で僕を見ている。
彼女は僕を、非難しているのだ……。
兄さんの恋人におさまった途端、まるで僕とエステルが出会ったこと自体が、僕の彼女に対する罪であるみたいに!
僕の後から遅れてやって来たジェシカが、この場面を見て一人青ざめていた。
兄さんみたいな人間の側近として長く仕えていれば、よほどの心臓の強さや狡猾さを備えていて当たり前で、近頃では、ジェシカの態度の何もかもが演技なんじゃないかと思えることも多い。
しかしこういうとき、確かにジェシカの本心が覗いているというような気もした。
「アレックス」
兄さんは、さも僕に同情しているような顔で僕を見た。
「可哀想にな。いまだ純情なおまえは、女にもおまえと同じだけの誠意を信じたかったんだろうに……」
兄さんはそう言うと、自分の胸に従順に頬を寄せているエステルの金髪を撫でて、こう続けた。
「しかし残念ながら女とは、すべからくこういう生き物なのだよ。
思慮がなく……愚劣で……生まれながらの残忍な詐欺師であり……そして己だけがもっとも可愛いのだ。
だから自らの幸福のためであらば、他人を裏切るということが……これは無論、男の私にとってしてみれば推論でしかないが……苦痛でもなければ、罪悪でもない、という結論になる。
しかしアレックス、彼らを敵だと考えることは間違っている。
我々は、女とは心底から哀れな生き物だと憐憫を感じるべきなのだ。
より条件のよい男に愛されるためならば……連中は、我が子をも捨てるが……、しかしそれこそが女という生き物の本質であり、性なのだろう。
そして見ての通り……、このエステルもそうした女のうちの一人だ。
アレックス、おまえにとっては残念なことだろうが、エステルは最初からおまえよりも私を愛していて、おまえに近づいたのは慕わしい私と何とかして接触を図りたいがための手段に過ぎなかったとのことだ。
欠片も好意など抱いていないおまえに愛敬を振り撒いてまで、私に愛を伝えようなどとはなかなか健気な行いではないか?
だからおまえもこの女のことは、今このときをもってすっかり忘れてしまうんだ」
「……」
「……、そう悲しそうな顔をするな……、私はおまえが憎くてこんなことを言っているわけではない。私にはおまえを傷つけようなどというつもりはないのだ。
アレックス、おまえがもし、本気で結婚をしてみたいと望むのであれば、いずれ相応しい時期に相応しい娘を用意してやらないでもない……、私が用意するからには世々にあふれる売女どもよりは幾らかましな女であることを保障もしよう。
だがそのときまでに、おまえはこの汚らわしい連中が、そのような性質を持つ救い難い存在であることを予め理解しておく必要がある。
もう二度と、おまえが悲しい思いをしないために、私は言っているのだ……」
これは後からジェシカから聞いた話だが、そのとき兄さんは、エステルが心から僕を愛しているのかどうかということを、試したのだということだった。
もしもエステルの僕に対する愛が本物ならば、決して自分の誘惑に乗ったりはしないだろうからと。
勿論とってつけたようなそんな言葉を僕はすぐには信じなかったし、エステルが兄さんの誘惑にまんまと乗ったからといって、僕がまだ一度も触れたことのないエステルの肉体を、これ幸いと愉しんだことに対しては憎しみを覚えないではいられなかった。
だけど兄さんの言葉には、言い表せない重みがあった。
それにエステルがもし、本当に僕を愛していてくれたのなら、やっぱりどうしたって、他の男と寝たりはしないものだろう。
「アレックス様……、わたし……」
「さようなら、エステル」
僕は兄さんの腕の中にいるエステルに別れを告げた。
怒りの気持ちが消えてしまったわけではなかったけど、エステルを目の前にしてしまうと、それをいったいどう表していいのかが僕には分からなかった。
彼女の表情が物語っている通り、やっぱり僕なんかでは、彼女の恋人役として相応しくなかったということなのかもしれない。
だけどそれならそうと、きちんと僕に話してくれればよかったのに、せめて僕の何がいけなかったのか、教えてくれたらよかったのに……この残酷な裏切りに対する口汚い謗りの代わりに、そんな考えがふと脳裏に思い浮かびもしたが、でもそれを言ったところで、エステルが僕のところに戻ってくれるとも思えなかった。
彼女がまるで悲劇のヒロインめいた顔をしていることが、僕には最後まで理解できなかったけど……、女っていうのはみんながみんなこうであるわけじゃないということを、思い直すためにはもう少し時間がかかりそうだった。