第65話 魅力(1)
僕の懐中時計はいつの間にか深夜の時刻を指し示していた。
国王陛下に続き、未成年の薔薇君が会場を後にされてからも、例年通り陛下の夜会は賑やかに続行されていて、広間からおしゃべりの輪が途絶えることはなく、楽団による演奏が途切れることもなかった。
姿勢を正しているための最大の理由である王家の方々が退場されていて、ほとんどの招待客は上等の酒を飲むことを欠かさないとなれば、時間が遅くなるにつれて次第にその振る舞いが上品で気取ったものからだんだんとくだけた感じに移りつつあることは仕方のないことだ。そうした雰囲気を嫌って、女性をともない冬空のテラスに出てはすぐに凍えるようにして戻って来る者や、いっそ今夜には見切りをつけて、そろそろ会場を後にする貴族の姿もあった。
一方、兄さんは彼を慕う女性たちと満遍なくおしゃべりを楽しんだ後、どうも王都のアディンセル伯爵邸に滞在される際に逢引きを繰り返している女性がいるらしく、いつの間にか会場から姿を消していた。
相変わらずの手際のいい雲隠れに、取り巻きの女性たちが翻弄されて彼を探しまわり、団子になって、それから途方に暮れている様子が何十人と見受けられたが、何よりも兄さんが女を同伴して立ち去ったことを証明していたのは、ジェシカとルイーズの少々哀れな取り残され具合だっただろう。
夜会の立食場のテーブルの一角に陣取っていたジェシカは、酒に酔って赤ら顔な上にあからさまに不機嫌になっていたし、ルイーズはいつものことだと少し投げやりに笑っていた。
僕が彼女らに近寄り、兄さんを一人で行動させてもいいのかということを、まだそれほど酔いのまわっていない様子のルイーズに問いかけると、護衛騎士は連れて行ったことを話した上で、デートにこんな美女がいては邪魔になるでしょうと相変わらずの物言いをした。
「それにあの方を護るために幾つかの魔法をかけましたので、一晩くらい離れていても平気ですの。でないと、用を足すのにもついて行かなくてはならないことになってしまいますでしょう? それはあんまりだわ。
もっとも、私としてはあの方のそういうの……見ても構わないけど」
そしてルイーズは彼女も少し酒が入っているのか殊更に色っぽく笑った。
しかし、たとえどんなに可愛い微笑みであってもルイーズの下品な話を覆い隠せるものではなく、僕は自分が感じたよりもずっと大袈裟に顔を顰めてみせた。でもすぐに彼女の美しさに引き込まれてしまった。
ルイーズは、やっぱり本当に綺麗な顔をしていたからだ。
僕はルイーズといるとき、どうも調子が狂うということには気がついていたのだが、それなのに彼女は僕になんかまるで無関心であるか、それとも子供扱いをするばかりなので、僕はそのときもそのことがものすごく気に入らないと感じていた。
ルイーズっていうのは、普段からジェシカみたいに僕に優しくしたり、ちょくちょく機嫌を見に来てくれたりするっていうことがないのだが、僕はたぶん、それが面白くなかったのだ。
当主である兄さんの弟である僕の顔色を気にしないところが……、とにかく何よりも面白くないことは、僕はルイーズに、何も影響力を持たないのだ。
ルイーズは僕のことを、まるで馬鹿にしていいくらい取るに足らない人間だと思っている様子があって、僕はそれがとても悔しかった。
「その点、アレックス様は便利なのよ」
僕のこうした気分を知ってか知らずか、ルイーズは話し続けた。
「貴方には、魔力がおありになるから。それも結構強い魔力がね。だから、基本的にはアレックス様は魔術師要らずなの。対呪術という意味ではね。タティの魔力が消えてもすぐに代替役を用意しなかったのはそのためよ。
それには貴方が内気で、なかなか他人と打ち解けないものだから、タティの代わりの人間が私生活に入り込んだら幼い貴方が混乱しそうだからってお話になったからでもあるけれど。魔力が強いと、呪術を受けつけ難いの」
そしてルイーズは、でも僕にも一応と言って、守護の魔法を僕にかけるために印を切っていた。陛下が退場されているので、公の場であってもこのての魔法を使うことは暗黙の了解となっていた。
と言うのも、サンセリウスの王侯貴族の間では、人々は呪いというものに非常に敏感なのだ。ここでは本格的な呪術はもちろん、人間の念というものも十分に呪いと呼ばれるものの範疇だった。
多くの人々が無意識的に感じている通り、誰かの怒りや悲しみ、恨みつらみは、ときに誰かの人生に強力に悪い影響を与えるものだ。ひとつひとつは小さな念に過ぎなくても、それが集まれば恐ろしい作用を持つ。
だからこの国の貴人たちが魔術師を連れて歩く理由には、魔法による実際的な襲撃を避ける以外にも、誰かの怨念から常に身を護るということがあった。
もっとも僕は誰かの憎しみを買う以前に、あまり人間関係というものを持っていないのだが、兄さんのような人間はそれでなくても多くの人々から身に覚えのない嫉妬なんかを向けられることも多いだろうから、こうした護りは欠かせないものだった。
ルイーズが僕の側に近寄っていると、彼女が身につけている香水のいい香りがして、僕は彼女に魔法をかけて貰う間、更に複雑な気持ちでルイーズを見下ろしていた。
呪文を唱えるルイーズの赤い唇や胸の谷間に目がいっている自分に気がついて、僕は少々焦りながら顔を横に背けた。
すると油断も隙もないことに、僕のすぐ横にいるカイトと目があった。カイトは僕とみつめあいながら、たったいま僕がルイーズに見惚れていたことを理解すると言わんばかりに唇をわざとらしく微笑みの形にしたが、僕はかぶりを振って断じてそんなことはないことを訴えた。
何故なら僕にはタティがいるからだ。それに僕がルイーズの胸とかに目がいっていたことに気づくということは、カイトだって日常的に、同じようにそういうところを見ているということを意味していた。それなのに僕のことだけ冷やかすのは、これは非常に間違ったことだったし、フェアじゃなかった。
それにだいたい僕は単に唇や胸を見ただけだし、だから僕にはまったく後ろめたいことはなく、そんなのと紳士の僕を、一緒にして貰っては困るからだ。