第64話 お嬢様の意図(3)
ヴァレリアお嬢様の言い草は、仮にも将来夫となる男に対して向けられるべき言動ではなかった。彼女のカイトに対する罵声は一言ごとに一層激しく、僕は思わず耳を覆いたくなったが、しかしこんな無礼なことを言いたい放題させておくわけにもいかない。女性というものはいつでも慎み深くあるべきものだが、夫に対しては特にそうあるべきなのだ。
だからここは僕としてもアディンセル家の人間として、とうとう彼女を叱責することにした。
「何言ってるんだ。カイトは君が仕えるべき相手だろう。だいたい女性が……、とにかく、幾ら何でも言葉が過ぎるんじゃないのか」
ところが間髪置かずにヴァレリアお嬢様は一歩踏み出し、僕にまで凄んだ。
「何ですってっ!?」
「えっ、な、何ですって、って……?」
僕は、僕のほうが明らかに身分が上なんだし、ウェブスター男爵は年がら年中兄さんにへいこらしている人物だし、少し強気に言えば、彼女がきっと恐縮するだろうと思っていたのだ。
それなのに、ヴァレリアが一向に謝らないどころか、態度を軟化さえさせないで、それどころか僕のことまで軽蔑の対象のように睨むので、僕はそれから先の対応をまったく考えておらず、困ってしまった。
だいたい僕は彼女に何も悪いことをしていないのに、どうしてこんなに怒られなくちゃならないんだろう。
だからヴァレリアに睨みつけられただけで僕は慌てふためき、そしてそれをいいことに、ヴァレリアお嬢様はますます強気な態度でこう続けた。
「アレックス様、お言葉ですけれど、このカイトはまだウェブスター家の当主でも何でもありませんのよ。只の養子。年齢上、仕方なく義兄とは申せ下賤の生まれのね。ですから、立場を言わせて貰えば、わたくしのほうが上なんです、そこはお分かりですか?」
「えっ、あっ、うん……」
「ウェブスター家の実子であるわたくしが、下の者をどう扱おうと、それは家の中の問題だわ。それを、どうして貴方にとやかく言われなくてはならないのか、わたくしには全然分からないことだわ。
アレックス様というのは、前々から伯爵様に甘やかされてお育ちになったお坊ちゃまと聞き及んでおりましたけれど、まさか貴方、感情論で物をおっしゃっているのではありませんこと?」
甘やかされたお坊ちゃまなんて酷い侮辱に、僕はさすがにむっとして彼女に文句を言った。
いったい僕の何処が甘やかされたお坊ちゃまなのか意味が分からないこととか、女好きで尊大な兄さんと暮らすということがいかにどれだけ大変かということを、ここで訴えるほど僕は世間知らずではないので言わなかったが。
「かっ、感情論って、どう考えてもそれは君じゃないか……。いいかい、段階的に話をすると、理性的に考えれば、カイトは君の夫になるんだから――」
「そんなこと、まだ決まったわけじゃないでしょう!」
ところが僕の言い分を、ヴァレリアお嬢様はぴしゃりとやった。
「まるで決まったことであるかのようにおっしゃるなんて、貴方どうかしているわ。
わたくしはこんな男のことは大嫌いなのよ。話し方も下品だし、いつも適当なことばかり言って人の話しなんか真面目に聞きやしないし、後からはじめたくせに剣術が上手くて……だからいつだってわたくしを馬鹿にしているの、敬うべきこのわたくしをよ!
それにカイトは泥水なのよ。お父様だってそうおっしゃっているわ。香りのよいワインの樽に一滴でも泥水が混じってしまったら、それは樽ごと二度と口をつけられない泥水になってしまうって。だからこんな男は、わたくしには、到底相応しい男じゃないわ。
お父様だっていつもおっしゃっているわ、おまえにはアレックス様が相応しいって。本当は伯爵様のほうが格好いいし断然優秀だけど、伯爵様は性格が悪質すぎて、我々じゃ手に負えないから弟のほうにしておけって……、弟のほうはおとなしいからきっと我々の言いなりにできるからいいって。
だから……、それなのに貴方がそんな酷いことをおっしゃるなんて思わなかった。アレックス様がそんな、酷いことをおっしゃるなんてっ!」
「酷いこと、僕、言ったかな……。どっちかって言うと君のほうが……」
「言ったわ! こんな、汚らわしい下男と結婚しろなんて……、そんなことをしたら、わたくしの身体が汚れてしまうじゃないっ。それを貴方、どう責任を取ってくれるおつもりで言っていらっしゃるの!」
「責任って……僕が取るの?」
「それに身体だけじゃないわ、ウェブスター本家の大事な血筋が汚染されてしまうことになる。そんなの、まるで獣姦させられるも同じでしょうっ!」
結局僕らはヴァレリアお嬢様の前から逃走することになった。幸いと夜会会場は広く、大勢の貴族がいて、あのお転婆お嬢様がドレスをたくし上げてまで僕らを追いかけて来るということは起こらなかった。
「カイト、何なんだあの……つまり君の婚約者は」
僕は少し胸がドキドキするのを感じながらカイトに言った。印象のすこぶる悪かったことを否定するつもりはないのだが、あんなに自分の考えていることを躊躇いもなく口にする女の人を、僕は知らなかったからだ。
「婚約してませんっての。あの方の頭の中じゃ、俺は下男以外の何者でもないんです。そんなことをすれば、血が汚れるって本気で思っているんですから」
「若い娘なのに、フレデリック王子を不承認の諸侯と同じ思考回路ってあたり、頭のいい娘なのかもしれないけど厄介だね」
僕が言うと、カイトは不満そうな顔で僕を見た。
「……、なんか貴方、微妙に彼女を評価してません?」
「いや、そうじゃないよ。評価なんかしてない。仮にも夫となるべき相手を下男呼ばわりする女なんて最悪だ。おまけにタティのことを情婦だの芋だの、救い難いよ。
ただ、女性にしては話が面白いかもしれないと思っただけさ。無茶苦茶加減が。だって普通獣姦なんて言葉、女性が言わないだろう」
「そいじゃ、あれでも何だかアレックス様と結婚したいそうだから、応じて差し上げたら。そうすりゃ俺も解放されます」
「嫌だよ。本当は兄さんのほうが好きだけど、兄さんじゃ遊ばれるから仕方なく僕にしておくなんて言い草だったのに」
しかし後からジェシカに聞いた話では、ヴァレリアお嬢様が僕の結婚相手の候補に挙がっていたことは一度もなかったのだ。
確かに僕と同じ年頃の娘を持つウェブスター男爵が、勝手にそれを願望していただろうことは確かだろうが、しかしそれを兄さんが取り合うことはまったくなかったらしい。
となると何故彼女があんなところでそんな作り話を言い出したのか、僕に突っかかって、カイトを罵倒していたのか、そもそも彼女が何をしたかったのか僕にはもうよく分からなかったが、たぶん彼女は我侭で見栄っ張りなんだろうと思った。




