第62話 お嬢様の意図(1)
それからしばらくして、僕はカイトの結婚相手ということになっているウェブスター男爵家の姫を紹介されることになった。
さっき後で紹介するとは言っていたものの、一望するにも一苦労ある王城の広間のうちの、大勢の賑わいの中から、彼女のことを何もカイトが引っ張って来たということではない。カイトは僕に結婚相手と会わせるなんて話をしていたことすら忘れているように、何時間もの間そのことをまるでとぼけ続けていたのだが、やがて彼女のほうから僕らに近寄って来て、それから突っかかって来たのだ。
「アレックス様! ああ、貴方、アレックス様ですわね!」
何処かで何となく見たことのある若い騎士にエスコートされる形で、彼女は僕たちのところへやって来た。
最初親しげに微笑んでいた彼女は、背中に流れる黒髪のサイドを後ろに編み込んだ、高貴な女性がよく採用している昔ながらの髪型をしていた。
明らかによく知らない女性が、目の前で古くからの知り合いのようにしているのだが、僕がそれに見合うだけの社交性を持ち合わせているはずもない。かといってカイトの手前素っ気無くするわけにもいかないし、僕はせいぜい赤っ恥をかかないために気をつけながら、いつもの通り少し緊張をしていた。
「わたくし、ウェブスター家のヴァレリアと申します」
勝気な笑顔に相応しい物怖じのない発音でそう言い、お嬢様は僕を見上げた。
「僕はアディンセル家の……」
僕が自己紹介を言う前に、彼女は勝手に言葉を続けた。
「ああ、わたくしね、常々貴方にお会いしたいって思っていましたのよ。
だから貴方にお会いしようとあちこちのパーティーに出席してみるんですけど、貴方はいつもいらっしゃらないんですもの。アレックス様はあまり社交場にお出ましにならないそうですけど、収穫祭の伯爵様のパーティーですら会えなかったときにはがっかりでしたわ。
貴方を最後にお見かけしたのはこの夏のパーティーだったんですけど、声をかけるつもりがわたくしあのときカイトを叱りつけるのに忙しくて。何しろ、この下男は滅多に家に寄りつきもしないんですもの。しかもわたくしの誕生日をまた無視した直後だったので、もう頭に来てしまって! カードの一枚も寄越さないなんて、信じられますか?
ああそれに、わたくしにとって今度が初めての陛下の夜会だって言うのに、わたくしをエスコートしようなんて気を利かせもしない。アレックス様に引きあわせてくれるでもない」
お嬢様が早口でそう捲くし立てたことで僕が理解できたことは、彼女にとって僕の自己紹介なんかどうでもいいということだけだった。
それから、お嬢様は僕の横にいるカイトをつんけんした態度で一瞥し、再び僕に視線を戻した。
「ねえアレックス様、わたくしが貴方の花嫁候補だったっていうお話、ご存知でいらっしゃるわよね?」
「花嫁候補? ああ、そう……」
ヴァレリアお嬢様が何を言いたいのか分からなかった僕は、取り敢えず話を合わせておくことにした。
「花嫁候補よ」
お嬢様は繰り返した。
「ああ……」
「何、聞いてなかったの?」
「うん、いや、どうかな、そういう話は……僕はどちらかと言うとあまり得意じゃなくて」
「得意じゃなさそうなのは、見た目からしてよく分かりますわ。
でもサンセリウスが幾ら社会が成熟しているって言っても、わたくしもう二十歳なのよ。お嫁に行っている人は、もう行っているわ」
「うん、そうだろうね」
「分かっているなら、早くしてくださらない?」
「えっ? 何?」
「結婚よ。わたくし、待ちくたびれているのよ。プロポーズはまだ?」
「いや、でも君はカイトの……」
いったい何が起こっているのか、一瞬考えてしまう状況に、僕は言葉を飲み込んだ。
何処かのパーティーですれ違う程度のことはあったかもしれないが、こうして会話をすることにかけてほぼ初対面なのに、ろくに自己紹介も済んでいないのにそんな話をしてくる女性を僕は知らなかったので、どう対応をするべきか戸惑っていた。
「これはその……つまり君はお嫁に行きたいっていう、そういう話なのかい?」
僕の横には彼女の婚約者であるカイトがおり、お嬢様の横には彼女を今夜エスコートしている男がいた。それなのにどうして、誰がどう見ても第三者であるはずの僕にプロポーズを要求しているのか、僕は困り果て、それから微妙に会話の軌道を歪めてみた。
「女の人は、花嫁さんには、憧れるものだよね」
「別に。憧れやしませんわ。自分よりも優れた男が相手だと言うならともかく、かえって立場が悪くなるような結婚をするなんて賢い女のすることじゃないもの」
ヴァレリアお嬢様が、カイトに嫌味を言っていることは何となく分かったが、僕の軌道修正に乗ってくれたので、僕はほっと息を吐いた。
しかしヴァレリアお嬢様もそれほど愚か者ではないようで、すぐにそれに気がつき、たちまち僕を睨んだ。まるで僕が彼女を陥れたと言わんばかりだったので、僕はとても迷惑な気分だった。彼女が常識はずれなのが悪いからだ。
それからお嬢様は自分が興味を持っていることに対する話をしていた。彼女が何に興味があるかなんて、僕には興味がないのだが、今は旅行が好きであるようなことを言っているようだった。旅行が好きなのに外に出して貰えない不満と言ったほうが適切だったかもしれない。
そしてその話を棒立ちになって仕方なく聞いている間、僕はヴァレリアお嬢様の容姿をそれとなく眺めていたが、こちらは多少は僕の興味をくすぐっていて、確かに以前カイトが言っていたように、彼女はそれなりの美人だった。
この場に華やぐ他の姫君方と比較して、器量自体が飛び抜けていいというわけではないのだが、活発そうな性格のためなのか、彼女には何かしら他人を惹きつけるものがあるようだった。
ただ細いだけではない締まった身体つきからして、恐らく武芸を嗜んでいるお転婆姫なのだろうということが分かった。髪の色や、それに彼女のちょっときつい感じのする目つきなんかは、遠縁と言ってもカイトに似ていると思った。だけど彼女の場合は物の言い方までもが、命令調で本当にきついのが、僕はとにかく苦手だと思っていた。
それにお嬢様の側に控えている若い男、これがまた不快極まりないもので、昔僕を苛めた貴族の子弟の一人だったのだ。
しかも無礼なことに、彼は僕に対して一言決まりきった挨拶をした以外には僕に敬意を払うでもなく、カイトばかりか僕のことまで敵対心のある目で睨んでいた。立場は勿論僕のほうが上であるはずなのに、その態度は不親切で不適切、くだらない者を蔑むかのような嘲りと悪意に満ち、僕はとても心細くていたたまれない気持ちを押し殺すのが大変なほどだった。
それでカイトに助けを求めるべく横を見ると、彼は彼で普段の陽気さが何処へなりを潜めたのかと思うくらいおとなしくなっていた。
もっともカイトはこういう場ではあまり率先しておしゃべりをしないようにしているようだったが、そのときの表情は何処か翳り、カイトには僕が今まさに助けを求めていることなど眼中になく、しかし弱った表情ながらも彼のお嬢様を見る目は冷ややかで、少なくとも将来の自分の妻女に注ぐべき親愛さなど何処にも見当たらない。
将来の夫にこんな態度を取られているのでは、お嬢様としてもさぞ悲しいんじゃないかと思いきや、お嬢様はお嬢様でカイトを汚い物でも見ているとみて余りある軽蔑的な表情をしていた。
双方がこの殺伐とした雰囲気なのでは、到底自発的に結婚になんか結びつくはずもないということを、周りの人間に一瞬で理解させるだけのものがあったのだ。