第60話 筆頭公爵(1)
振り返るとそこにはいかにも立派な身なりの男がいた。カイトはそれに素早く気がつくや急いで平伏すような姿勢を取ったが、僕としても慌てて畏まった。
兄さんがすぐそこにいるのにまさか国家の重要人物が僕のほうに声をかけてくるとは思わなかったのだが、彼こそは我がサンセリウス王国の重鎮中の重鎮、ウィシャート公爵だったのである。
「なかなか、楽しそうな話をしているのだね、アレックス」
ウィシャート公爵はそう言い、忌憚のない笑顔で僕に微笑みかけた。適度に日焼けした肌、やや濃い色をした金髪を後ろに束ね、金色の口髭を蓄えた立派な紳士に対し、僕は恐縮しながら会釈をした。
「そう強張らなくてもいい。普通に接してくれ。おまえも名門出の立派な男子なのだから、従者のようにすることはない。もっと堂々としていなさい。私を若い人の話に混ぜてくれ」
「トバイア様、おいでになっていらしたのですね。すぐに挨拶に伺わず申し訳ありません」
「いや、たった今しがた来たんだよ。少々野暮用があってね。
陛下の夜会などとは言っても、何、陛下としたって今では惰性で行っているだけのパーティーなのだ。招待されることに生命をかけ、名誉だの何だのと有り難がる連中の手前、やめることができないだけでな。フェリア王女を亡くされてからと言うもの、陛下もすっかり気落ちされてしまった。それに、戦争中はこうもいかなかった。開催されたところで、王国の繁栄を祝うどころか戦線戦死者の報告会になってしまった年もあった。
この夜会がもっともその名目に相応しい盛大な華やぎを持っていたのは、あの美しい方がいらした二十年足らずのことだ。フェリア王女、そう、あの美しい姫君が年頃でいらした数年の間だけ――、すべての夢がこの場所につまっていたよ」
公爵のお出ましに気がついたんだろう。器用にも、すぐ近くで十数名の女性に囲まれ彼女たちと同時に会話をしていた兄さんの態度もほどなく一変し、それまでは女の人たちに一人残らず愛敬を振り撒いていたのにまるで人が変わったように真剣な顔をしてこちらにやって来た。
側まで来ると、兄さんは大柄な身体を折って公爵に従順な一礼をし、兄さんの後をついて来ていた女性たちも雰囲気を察したのか兄さんの周りから遠ざかった。
何しろウィシャート公爵は国王陛下の甥に当たり、王位継承権第二位を保持されているこの国で最も高貴な一族に属する方だからだ。
継承権第一位には、現在は当然弱冠十六歳のフレデリック王子殿下がおられるが、彼が誕生するまでは老王は長らく男児に恵まれず、王位については随分長い間夭折された王弟の息子であるこのトバイア公が継承順位一位となっていた。
そのために、この公爵様には王子殿下のことを好ましく思っていない等の噂が今もってつき纏っているのだが、兄さんがこの方を信望している以上、もし何か事態があるとすれば僕としても王子よりはトバイア様を支持しなくてはいけない立場にあった。
もっともフレデリック王子のある以上、殿下よりも三十も年長の公爵様が王位の移譲される可能性はもはや低いと言って間違いないことだったし、これまでの十六年間に一度も不穏なことが起こっていないのだから、公爵様としてもあの美しく可憐な従弟の王子のことを、お認めになっていらっしゃるということなのだろう。
「やあギルバート、このような晴れやかな場でそう畏まることはない。今ちょうどアレックスに会ったのだ」
そう言って兄さんに微笑みかけるウィシャート公爵は、陛下や王子と血の近い王族であるだけあって、兄さんと並んでいてもまったく引けのない美貌だった。年月を重ねた壮年であるせいか、それとも生まれ持った顔立ちのせいか、酷薄そうな印象があることは否めないが、彼はその厳格そうないでたちからはなかなか想像がつき難い、気さくな様子で兄さんにそうおっしゃった。
「閣下。我が不肖の弟は未だ中央に不慣れです。アレックスが、閣下に何か失礼を致しませんでしたか」
兄さんが言うと、公爵は親しげに笑った。
「いやいや、そんなことはない。よく育ったものだと感心していたところなのだ。
これは何年か前だったか、彼がまだ声変わりをしていなかったときのことだ。私は彼を思わず姫かと勘違いをしかけたことがあったろう。白くて細い、美しい姫かとね。それがどうだ、今では立派な青年になっているのだからね。
うん? 私は毎年こんなことを言っている気がするな。しかし、それはあのときの衝撃が強すぎたことと笑ってくれたまえ。いや本当のことだ。
だがこうして見たところ、今では彼もなかなか利口そうな若者の面構えをしておる。何とも頼もしい青年ではないか。ギルバートのような迫力はないが。人当たりがよさそうなのはいいことだよ。女子供の好意を集めやすいからな」
見るからに老獪そうな四十男である彼は、会場の他の誰よりもひと際威儀のある紳士であったが、近くで見ていると温厚ささえ窺えるような表情の動かし方をした。
王族であり、兄さんの後見役でもあるこちらの公爵様と対面をすることは、僕にとってはいつも非常に緊張を強いられることで、僕は兄さんの傍らに立ちながらどうにか失礼のないようにするのに全神経を集中させていた。
本当は人見知りを発症したかったが、そんな身勝手を言っていられない状況というものがもし存在するとしたら、それはこのときのような場合を言うのだ。失礼があれば僕ばかりでなく兄さんの首が飛ぶ恐れがあり、僕は呼吸することさえ負担に感じるような緊張状態をしばらく続けることになった。
一方兄さんは僕の隣で、僕のことを公爵に売り込むような内容の話を運んでいた。名のある貴族である以上、僕もいつかは宮廷に登らなくてはならないことは分かっていた。僕は未だにあまり宮廷におけるルールを知らないのだが、たぶん、誰か強力に助けてくれる人がいるのといないのとでは、全然都合が違うんだろうと思っていた。
「アレックス、おまえの兄君は、おまえに近々副伯を授けたいと考えているそうだよ」
ウィシャート公爵は、外見の印象よりもずっと優しい話し方をされるが、それは彼が子供を持つ父親でもあるからなんだろう。
公爵様の後方には、先ほどから長身痩躯の兄さんと同じ年頃の魔術師と、十六、七歳ほどの黒髪の少年が控えているのだが、少年のほうは彼のご子息で確か名前をオーウェル様と言った。
僕はオーウェル様にはこうしてお会いするのは、少年の彼がこうした場に顔を出すようになったここ最近のことで、ほとんどないと言ってもいいくらいのものだった。
だから僕は彼と話したことはなく、彼がどんな方なのかをまるで知らないのだが、公子様というのはいつもだいたい不機嫌そうで、世界を拒否しているかのようなやさぐれた雰囲気が伝わってきていた。父親であるトバイア公から愛想と端麗さを取り去り、その代わりに冷酷さ酷薄さを増したような容貌をしているために、目つきが悪く、冷淡でつき合い難そうな印象だった。僕とはまた別の次元で、とことん人づきあいが悪そうな、そういう性格が垣間見えていた。