第56話 恋の主役
「でもやっぱりフレデリック王子の話題が多かったかもしれない。王子の美貌について、それに国王陛下が近頃では王子のことをとてもお認めになっていらっしゃること。
陛下はフェリア王女にはそれは甘い父親だったらしいが、フレデリック王子にはとても厳しくされているそうなんだけど、それは母親の身分による差別ではなくて、男子たる王子を見込んでいるからこそなんだそうだ。僕が耳にした限りでは。つまり親しくもない相手と話をするときの便利な話題ってことだけど」
少しして、やっと気持ちのバランスを取り戻し、肩の力を抜いて僕がまともな感想を言うと、カイトは頷いた。
「そりゃあ、今夜は世継ぎの王子様の酒宴初登場らしいですからねえ……、誰もが興味津々だし、話をしやすいんですよ。
しかも近い将来確実に、とんでもない美青年になりそうな感じだから」
「とんでもない美青年か……」
僕は呟き、それからカイトを見てわざとらしく笑顔を作った。
「悪いけど全然興味がないな。王子様なんて」
するとカイトも笑った。
「そりゃまあ、そういう次元ではね」
「でもどうやらそう好意的な意見ばかりじゃないようだ。実際、彼には姉姫を害したという噂がつき纏ってる。母親がフェリア王女づきの侍女だったんだ。だから、王妃や王女の縁者や、王女を慕っていた諸侯は今でも彼を憎んでいるし、そうでない者の間にも憶測や陰謀論が後を絶たない」
「どうしてフレデリック王子が悪者にされるんでしょうか?」
腑に落ちない顔でカイトは言った。
「フェリア王女が亡くなられたとき、彼はまだとても幼かったでしょう。陰謀とは何等無関係のはず。
それにそもそも、フェリア王女に王位継承権はなかったのに?」
「だから余計に腹が立つ人間もいるんだろう。正当なる王妃の生んだ姫君には、女であるために王位を継ぐ権利すらなかったのに、妾腹の彼にはあるんだから……」
「おいたわしや。完全に逆恨みじゃないですか」
そう言って、遠くの薔薇君に視線をやるカイトが、未だ一部の諸侯の反感を買って微妙な立場にある少年王子の境遇に、自分を重ねていることは分かっていた。
「君、妙に王子に肩入れしているんだね」
「そうですか?」
「ウェブスター男爵家のお家騒動に似ているからかな」
僕が言うと、カイトは惨めそうな顔をして僕を見た。
「俺は別に……、男爵家が欲しいなんて思っているわけじゃないですよ。まるで俺が家を乗っ取るみたいに言う連中もいますが、こちとら大人の事情で、振りまわされている被害者なんです。
確かに、そのせいで俺は昔からフレデリック王子に自分の状況を重ねて、彼にある種の親近感を持っていることは認めますけどね」
その言葉に、僕は頷いた。
「うん、知ってる。ごめん、悪気はなかったんだ。
確かに王子はその……でも熱狂的に人気があるよね。つまり一般大衆には大人気だそうだ」
カイトは苦笑いしながら同意した。
「御生母様が王女の侍女と言っても、貴族の出には違いないそうだから、厳密には血筋的にも、恐らく思想的にも、どう考えても王子様は平民側の人間じゃないんですけどね。しかし大衆にしてみれば、強権主義者たちによって虐げられている者という印象が強いんでしょう」
「ところでねえ、ウェブスター家の令嬢は、今日は来ているんだっけ? そうなら是非紹介して欲しいな。いや、僕としては遠くから見てみるだけでいいんだけどね。
年がら年中女に飢えてる君が、結婚するのを嫌がるのがどんななのか興味があるんだ」
「完全に面白がってますね。タティが従順だと思って」
僕の問いかけに、カイトはしぶしぶ頷いた。
「いいですよ。でも気をつけてください、お嬢様は本当にとんでもなく……」
そのとき、すぐ近くの女性たちの集団から只ならない歓声が上がった。それまでは壇上のフレデリック王子の姿を見て、あれこれ恋の噂をしあっていた若い娘たちの群れだ。何事かと思って僕が振り向くと、彼女たちはたった今まで興味の的だったフレデリック王子からは完全に顔を背け、いまや広間を賑わせている別の貴公子に色めき立っていた。
それを見たカイトは、すぐに自虐的な調子で不平を言った。
「アレックス様、まったくこんなに近くに若くてピチピチした男がいるっていうのに、女どもときたら、まったく分かってない。分かってないですよ」
僕はそれに対し、何とも言えずに苦笑いで応対した。
確かに我が国では主役は言うまでもなく常に王家の方々、今なら国王陛下であり、王子殿下であることに違いはなかった。
しかし壇上の、高貴なる方々に預かり知らない恋の世界においては、今年も主役は兄さんだったわけなのだ。
女性たちの歓声の理由というのは、どうも兄さんが広間の中央で催されているダンスの輪の中に何処かの姫君を連れて加わったために、会場にいる女性という女性の熱い視線が注がれてしまったということのようだった。
こうした場所で主役となる人間と言えば、国中の美姫たちの中でも美貌の抜きん出た姫君方であり、彼女たちに釣り合うだけの貴公子たちとなるのだが、親族の欲目というものを承知で言わせて貰えば、はっきり言ってしまえば、人々から美しいと絶賛されている近年の若い貴公子たちでさえ、兄さんの堂々とした華麗さに比べると風采の上がらない若造に過ぎなかった。上背があり、力強く、しかも容姿端麗な兄さんは、間違いなく当代一の美男子だっただろう。
あまつさえ、兄さんは何をやらせても完璧にこなせる憎たらしい種類の人間で、趣味事に過ぎないダンスでさえも手抜かりのない一級品だった。会場中の視線を浴びながら、絶え間なく女性をリードする立ち振る舞いは、同性の僕から見ても感嘆して余りある優雅さであり迫力だった。
「幾ら何でも目立ち過ぎでしょうに。公式デビューの王子より目立ってますよ」
うっとりするほうぼうのご婦人方とは対照的に、カイトが妬ましそうに言っていたが、周辺の男性たちもだいたい似たり寄ったりの顔をして兄さんを見ていた。見まわしてみると、主に性別によって観衆の表情は様々だったが、言えることは誰もがダンスの輪の中のアディンセル伯爵に注目をしてしまっているということだった。
皆が兄さんを知っているという顔をしていて、彼に釘づけになっていて、僕は兄さんが思っていたよりもずっと宮廷における知名度の高い有名人であることを改めて思い知った。
この異様な注目の度合いに気づいたんだろう。しまいには、楽団の指揮者までがときどきダンスの輪のほうを振り返り、兄さんの動きにあわせて舞曲を動かしつつあるほどで、最初は誇らしい気持ちでいっぱいだった僕も、こんな大それた様子を夜会の主催者である陛下や殿下がどうお考えになるのかが次第に心配になり、動悸がし、それに少し悪い汗を掻いた。
それなのに、こんなに注目をされて、僕だったらきっと上がってしまって足が縺れてしまうところだろうに、兄さんはますます得意げな顔をして大胆に踊りを続けているという有様なのだ。兄さんの度胸のよさについては、僕としても重々承知しているつもりだったが、こういう場面を見せられるたびに、僕のほうが生きた心地がしなかった。
ダンスを終えると、賞賛と喝采に包まれながら兄さんが僕のほうにやって来た。手を取って同伴している女性はジェシカでもルイーズでもない、見知らぬ女性だった。金色の髪を高く結い上げてから背中に流した、おとなしそうで、それにとても可愛らしい女の人だった。清楚で、兄さんの好みそのままというタイプだ。
アディンセル伯爵に見初められたばかりにうっかり会場中の注目を浴びるはめになり、可哀想に彼女は一人で息が上がって、しかも顔が真っ赤になっていた。
兄さんはそんな彼女を労わるように、到底信じられないくらい優しく微笑みかけ、手慣れたように顎に触れ、こっそり耳元にキスをした。それで兄さんを取り巻くべく集まっていた周辺の他の女性たちからは怒りの悲鳴が上がり、キスを貰った女性は嬉しそうに恥らって、それから少し誇らしそうな顔をした。
「あんなにして、大丈夫なのですか?」
僕は兄さんが陛下や殿下の御前で目立ちすぎたことを心配してそう問いかけると、兄さんは肩を聳やかした。
「何がだアレックス」
「ですから、陛下の御前であんなに……目立ってしまって。さすがに場所と分を弁えるべきだったのでは」
「いいんだよ、これは単なる余興だ」
兄さんは僕にも、微笑んだままの顔を向けた。
「しかし。今夜は何かと兄さんを妬む声も聞こえましたし、陛下の御前なのですからやはり多少は」
僕が言いかけると、兄さんはふと表情を引き締めて僕を見据えた。
「アレックス。おまえも私の弟であるなら、そう小さいことを言うな。
第一、只の余興でいちいち目くじらを立てるような者に、国家君主は務まらんよ。我らが陛下はこの私が唯一の忠誠を捧げる偉大なる御方。そのように狭量な小物ではない」