第55話 適性がない
白の垂れ幕の下げられた輝きの大広間の正面中央、国王陛下と王子殿下が座していらっしゃる玉座の高みには、人間の王に恋と純潔を捧げた天上の聖女の像が装飾の一部として掲げられてあった。
光の翼を持ち、星の名前を持つかの聖乙女は、黄金と白金が交互に入り混じった光の輪を背中にその両腕を広げていて、穏やかな表情をし、今はこの場に集うすべてのものを抱擁しているかのようだった。
老年の国王陛下は夜会への招待に対する感激を伝えるべく慕い寄って来る者たちと代わる代わる会話を楽しみ、王子殿下と言えば静かに腰かけていることにもう飽きているのか、時折あくびをしては側仕えらしい青年にたしなめられて、余計に気分を悪くしたように頬杖をついていた。彼が話をするときの攻撃的な様子は兄さんに通じるものがあり、その振る舞いには確かに内気さの片鱗も見えず、たぶんこうした場ではどうにもならないような何か無理難題を言って、側近の青年を困らせているのが見て取れた。
僕はこの夜、カイトとロビンを引き連れて賑わう広間を漂っていたが、ロビンは僕より年下で、僕は自分より年下の人間とあまり係わりを持ったことがなかったので、ましてや女で年下の彼女とはどう接したらいいかがよく分からず、これまであまり私的な会話をしたことがなかった。だからこのときも話し相手は専らカイトだった。
それから会場内にできあがっている幾つかの集団に加えて貰っては、半ば義務的に取り留めのない会話をするということを繰り返していた。誰とも話をしていなくても、僕もカイトもそれぞれが立派な夜会服を着ていたし、使用人であるように見られることはないとは思うが、まともな貴族なら最低限、しがらみのある人間を見つけたならば挨拶を交わしておく必要があったからだ。
僕は母上の腹の中にでも置き忘れて来てしまった社交性を搾り出しながら、毎年繰り返される同じような社交辞令、ジョーク、政治談議、それから噂話に興じるふりをして時間を過ごした。今年も例年通り誰もが兄さんの様子を聞きたがるので、求められるままにアディンセル伯爵の細々した話を披露すると、彼らはそれを褒めちぎったり、さもなければ皮肉と言って構わないような感想や愛想笑いを浮かべた。いつもなら、上位伯爵の弟である僕に対して好意的な年配の紳士ほどそうだったので、それが何を意味しているのか、僕を翻弄して楽しみたいのか、考え込んでしまう反応だった。
また別の何人かの紳士たちと話しているとき、何か密やかな思惑の存在を感じることがあった。そこで僕はその正体を探りたかったが、彼らはそれに気がつくと僕のことだけを使い古されたジョークであしらった。親しい人間だけにしか教えられない暗黙の領域には、僕のような部外者が踏み込むことはお断りだという意思表示だということは分かっていた。
彼らは引き続き友好的な顔をしていたが、目の前には決して突き崩せることのない壁が存在していることを疑う余地はなく、別に議論に負けているわけでもないのに、こんなことが何度か続くと、僕はとても惨めな気持ちになり精神的にぎりぎりだった。側にいるカイトはこういうときあまり役に立たなかった。彼は僕よりもずっと話し上手ではあったが、相手が名家の当主級の人間ともなると、男爵程度ではそもそも会話に加えて貰えないからだ。それに話すとぼろが出るからと言って自粛していたようだった。
それから、貴公子が取るべきそうした模範的な行動にやがて一段落をつけて、僕らはパーティー会場の隅のほうに移動したというわけだった。
僕は僅かの間にとても疲労し、どんな些細なことにも傷ついていて、国王陛下が宴席を退場されたならばその瞬間にここを飛び出て伯爵邸に帰ろうと自分を励ましていた。そして今後予定されている他のパーティーへの出席は全部キャンセルして、できることなら今すぐタティのいる自分の部屋の寝室へ逃げ込みたかった。
「大丈夫ですか? 上流の人々ってのも、人間が出来ているとは限らないですからねえ。あまり気にしないことです。ああいうのは、何処にでもあるもんです。たぶん、単にアレックス様が若いからってことだと思いますよ」
カイトが壁にもたれかかって落ち込む僕に声をかけたが、僕はとても立ち直れなかった。
「あそこには僕より若いのがいたよ。いや、いいんだ、僕が人づきあいってやつに、絶望的に適性がなく、いつまでも馴染めないせいなんだ。
ジョークもいまいちついていけない。ブラックジョークが多すぎる。女とか、農民とかを酷い目にあわせて笑う種類のが……、それによく知らない人の悪口に参加しなくちゃいけないのもきつい。政治や経済の話も語り過ぎると、たちまちマイナーな哲学者の思想を通した意見を求められる。経済学者じゃないんだよ。哲学者の思想で何を語れって言うんだ。あんなの嫌がらせもいいところだ。自分だって答えられないくせにだ。
それに今夜はどうしてか兄さんのことを話題にされて参ったよ。女性はいつでも兄さんの話を聞きたがるけど、今日は古株の紳士たちが……どういうつもりか、ただ、とにかく関心を持たれているようだ。何なんだろうね」
「閣下は実力者だから、やっかみが多いんじゃないでしょうか」
僕は頷いた。そして顔を上げて苦笑した。
「兄さんは、少年の頃からこういう世界に生きているんだ。こういう、他人の揚げ足を沼地に引きずり込むような意地悪な場所にいて、しかも目立っている。しかもああして平然と女性に囲まれてね。女が絡んだら、周りからの妬みは容易に何十倍にもなるだろう。どれだけきついか分かったものじゃないのに。よく切り抜けていらしたと思うよ。少なくとも、僕には耐えられる場所じゃないよ。
ウィシャート公爵っていう強い味方がいるにしても、父親ってわけじゃないからね。こんなことを、庇ってくれるわけじゃないだろうし」
僕が混乱していることに気づいたらしいカイトは、通りがかった給仕係に近づき、水を貰って来て渡してくれた。
僕はそれを受け取り、喉を潤して、一息ついた。
「ま、落ち着きましょう。
一応アディンセル家の人間として挨拶を交わすべき人物にはだいたいそうしたんですから、後は帰るまでぶらぶらしていればいいだけですよ」
「うん、そうだね」