第54話 夜会
実に五十余年もの在位を誇る国王陛下の御世にあって、忠実なる我々臣下が年末に催される彼の夜会に招かれることは、何をおいても優先するべき栄誉だった。
その日、太陽が冬空の向こう側にこぼれ落ちてしまうと、世界は一年でもっとも煌びやかな夜を迎えることになった。
陛下の栄光と国家の繁栄を祝う盛大な祝賀の夜は、この日を皮切りに数日間、連日連夜王都を賑わせることになる。
僕が例年通りアディンセル伯爵である兄さんのお供をして、壮麗にして厳粛なる王城一階の白と金色の絡み合う輝きの大広間に足を踏み入れると、眩しい光の洪水と、兄さんのお名前や兄さんが所有する爵位名を声高に詠唱する声、それから甘く攻撃的なワルツがさっそく僕らを出迎えた。
その人の心を高揚させてなお余りある力の調べは、国内随一を誇る国立楽団による、建国歌劇の一場面だった。建国王セリウスと、彼の即位を祝福するために神が遣わした天国の住人である美しい乙女とが、運命の恋に落ちるその瞬間の激しさを描かれたものだ。
神の娘を妻に娶ったセリウスの子孫は当然ながら神の血を引き、以後人並みはずれた知性とありとあらゆる才能、それに神の美貌を手に入れたと言われていて、それが現在広間の奥の壇上におわす老王陛下ということになる。
もっとも齢七十を越えられた陛下のお顔の半分は、今では白い髭に覆われていて定かではないのだが、伝聞と、若き日の肖像画を拝見する限りにおいては、素晴らしい美丈夫であったことは語るべくもないことだった。陛下は知勇に優れ、その長い人生のうち、三度の戦役を戦われた勇猛果敢なる我が国の英雄でもあった。特に長年の因縁である北方王国との戦争では、相手方の王太子を御自らその手で討ち取られるという形で輝かしい勝利を収められ、氷に閉ざされる北国にとってはあまりにも重要な小麦の産地である南部領を収奪しおおせた功績は後世に語り継がれることになるだろう。
「アレックス、今宵はフレデリック殿下がおわすようだ」
陛下の隣に座している、若き日の陛下の面影を実際に映した美少年を示して、兄さんが僕の耳元に囁いた。
僕らがいる夜会会場の入り口付近から陛下や王子がおいでの場所までは、賑々しく飾り立てられ招待客のひしめく長い距離があるのだが、彼が金色巻き毛の世にも美しい少年であることは遠目からでもはっきりと見て取ることができた。
少年王子は青色の立派な衣装で姿勢を正し、少々傲慢な様相で、編み上げられた薔薇と金細工の壇上より会場を睥睨していた。
「十六を迎えられたので、そろそろこうした場にお出ましになったのだろう。噂に違わぬ美少年だとは思わないかね」
生まれついての社交家である兄さんは、華やかなる夜を前に少し興奮気味であり、彼の言葉はいつにもまして躍るような響きを持っていた。兄さんの小声での問いかけに、僕は素直に頷いて感想を述べた。
「はい、あの、美貌とはかねがね……、ああ、薔薇君とは本当に美しい方ですね。僕は本物の天使かと思いました」
「ふっ。確かにな。確かに彼はよく天使と称される。確かにあの方は聖なる父の御使いに見える――、もっとも殿下におかれては、そんなふうに言われることをまず好んでいないだろうが。
あの美しい方が姫であったなら、私はおまえを花婿に売り込んでいたところなのだがね」
兄さんは皮肉でも言うような顔をして言った。
「だがあれで、御気性の激しさはなかなかのものでいらっしゃるのだ。アレックス、おまえなどよりも余程な。
実際に宮廷でも、若き王子に御世が代われば、再び戦争の時代に突入するだろうと囁かれている。私もそう思うよ。人並みはずれて顰蹙を買うほどに気位が高いわけではないのだが、何しろ劣等感の強い方なのだ」
「劣等感? 彼は……あんなに御立派なのに?」
「あの妾腹の王子の動向には、今後注目すべきだろうな」
「だから力を示したがっていると?」
この優雅な場に相応しからぬ物騒な言葉に、僕は眉を顰めた。
しかし兄さんはご機嫌に微笑むと、それ以上は何も言わずに僕の肩を叩いた。それと言うのも、いつの間にやら兄さんの姿をみつけた女性たちが何人も彼の周りに集まって来ていて、彼女たちは誰しも熱に浮かされた顔をして兄さんを出迎えていたからだ。
兄さんが堂々とした足取りで女性たちの中に進んで行くと、女性たちはあっという間に彼を囲い込み、もう誰も兄さんの側に近寄れるような隙間さえなくなってしまったその人気については、見事の一言だった。
外見のよさに関しては非の打ち所がないのかもしれないが、ここには兄さん以上に権力や財力を持つ家の当主だって何人もいるだろうし、そろそろ年頃になりつつある美貌の王子だっておわしている。それなのに、彼女たちっていうのはいったい何だってあの不誠実な遊び人がお気に入りなのか、僕にはよく分からないのだが、あれだけ熱狂されているのだから、たぶん女性にとってみれば兄さんの何かがとてつもなくいいんだろう。
「ギルバート様、お待ちしておりましたのよ!
わたくしがどんなにこの夜を待ち焦がれていたか、ギルバート様はお分かりになりまして? 背の高い貴方に相応しいレディであるために、今夜は少し背伸びを」
「ちょっと、貴方、邪魔だから退いてくださらない?
伯爵様、それよりどうぞ私を見てくださいな。とっておきの紅をつけて参りましたの。ゴールドローズアベニューのあの化粧品店で、貴方がいちばん好きだとおっしゃったお色ですのよ」
「あら可哀想、それじゃ貴方は伯爵様に遊ばれただけに違いないわ。だって、本当に愛しい女性とデートをするのに、伯爵様がお連れくださるコースはそんな場所じゃないんですもの。劇場は欠かせないのよ。彼のご趣味なの」
「何よ貴方、しったかぶって嫌な女ね。劇場こそどうでもいい女を連れて行くのに最適の場所よ。無駄話をしないで済むって、彼が私に教えてくれましたもの」
「ギルバート様、私、とても不穏な噂を聞きましたの。ウィスラーナ侯爵の妹姫とのご交際の噂、本当なのですか?」
「それならわたしもお兄様から聞きました。候女だなんて……、あまりに現実的すぎるわ。貴方のお心が動いてしまいやしないかと眠れぬ夜を過ごしました。
ねえギルバート様、その方と結婚なんて、なさらないわね。そんなお話は只のデマだとおっしゃって」
いつの間にか、僕は兄さんではなく、彼に群がる女性たちの後ろ姿を見て立ち尽くしていた。僕はアディンセル伯爵のみを出迎えるべく待ち構えていた女性たちの歓待からものの見事に爪弾かれた我が身に、しばし呆然とした。
また兄さんの後方両脇に添え物のようにつき従っていたジェシカとルイーズに至っては、群がる姫君方によって恋の障害とみなされたのだろう、力ずくで押し退けられるという手酷い洗礼を受けていた。
「まあっ、なんて下品なの? ここは市場か、それとも場末か何かだったのかしら!」
誰かのそんな言葉と同時に、兄さんを巡ってたちまち押し合いが始まった。
誰もが夜会用の大変豪華なドレスを着ていたし、それに歩くにも一苦労ありそうな細いヒールを履いているのもいたりして、少し押されただけでも次々バランスを崩しかけ、女性たちの各々を非難するための大袈裟な悲鳴が上がってちょっとした騒ぎとなった。
「ちょっとその大きなお尻をお退けになって」
「貴方、誰に口をきいているのよ。わたくしはギース公の従姉妹の……」
「ここで問題なのは父君様やご兄弟の身分ではなくて、個人としての美しさよ。誰がこの方に釣り合うだけ美しいかということだわっ!」
「あっ、伯爵様、腕を組んでいる女性は何処のどなたですの!?」
「誰かあの抜け駆け女を八つ裂きにして! ゴードン、あの女の髪を燃やしてしまうのよ!」
押し退けあう女性たちのうちの誰かが、自分の魔術師に命令するために手を叩き出すと、魔術師を連れることが許されている身分の女性たちは皆が皆手を叩き始めていた。
兄さんにエスコートされる権利を奪い合うべく巻き起こった騒乱なのに、兄さんは涼しい顔をして誰かに肩入れするようなこともなく澄ましていた。
自分がどれほど兄さんを愛しているかを訴える女性の群れと、陛下の御前で魔法なんか使用できるはずもない哀れな魔術師の群れが入り乱れる混乱を、僕とカイトは指を銜えて眺めていた。
毎年だいたい似たようなことが起こるとはいえ、まだ宵の口からこれとは、今年は一段と兄さんを巡る争奪戦は過激になりそうだと思った。
「ううむっ、あれが女の戦いってやつなんですね。権力がある女ってのは、やることがダイナミックだ。こんな場所で魔法を使えなんて、とても男にゃ言えないことですよ。いやはや、恋に目が眩んだ女ってのはすごいもんだ。
俺も一生に一度くらいは、あのくらいもててみたいけども……」
「兄さんがハーレムを持つと、たぶんああなるんだね……、だから一人ずつなのか」