第50話 蜜月(1)
世の中の女性たちが結婚に甘い夢を見ている頃、僕は現実というものの世知辛さを嫌というほど味わうはめになっていた。兄さんや僕が下級貴族と呼んで一緒くたにしている人々の間にも、厳格に順列というものは存在しているのだ。
タティの父親は兄さんに仕えている文官なのだが、彼は爵位を持っておらず、言わば取るに足らない存在だった。タティの父親より序列が上の人間たちは、何か理由をつけては、自分は極めて客観的で紳士的な人間であることを装いながらタティがアディンセル家に相応しくないということを事あるごとに話題にした。
もしタティが僕に気に入られて妻という立場を手に入れるようなことにでもなれば、当然タティの父親や兄弟はアディンセル家と姻戚関係を持つことになるわけだから、我が所領におけるそれなりの地位を兄さんから与えられることになるだろう。そして誰もが僕が女遊びなんかしない性格だということを知っていたことと、タティが僕の乳姉妹であるという他にない親密さから、タティがそのまま妻に格上げされるであろうことを見越してしまっていたというわけだ。
しまいには兄さんの側近たちでさえこの問題について渋い顔をし始め、普段から温厚な人柄であるらしいタティの父親は、それによって神経が参ってしまっているという話を耳にしたが、これが少しも大袈裟な話でないということくらいは、貴族社会というものを知る僕にはだいたい分かることだ。
それでも大した問題じゃないと兄さんは僕をあしらったが、タティが僕の妻になることに皆が表立って反対していることは、当主である兄さんがタティを明確に支持してくれず、そもそも人から軽んじられる妾なんて立場に据えたからこそ起こっていることだった。
この問題を完全に解決とまではいかないかもしれないが、兄さんに僕らの結婚を認めさせ、こうした厄介な人々を少なくとも黙らせるためには、とにかくタティに男子を生んで貰わなければならなかった。
でも無邪気にしているタティを見ていると、こんな問題に彼女を人生ごと巻き込んでしまっていいものかどうか、僕は不安に駆られることがあった。子供なんか生んでしまったら、彼女はもう二度と自分の思い通りに生きることができなくなってしまうのだ。
僕はさすがに王子様とはいかないが、国家における富裕層の中でも上層にいる金持ち男とは言えるかもしれない、だけどそれでも結婚したら待ち受けているのは、夢のお伽話のようなハッピーエンドとはいかないものだ。
タティは僕と結婚したら、どう考えてもそれまでよりずっと大変な人生が待っていることだろう。所謂玉の輿に乗った女性たちが、夫側の親族や社交界で仲間はずれにされたり、いびり倒されることはあまりにもよくある話だったし、それ以前にタティよりも家柄のいい配下や使用人たちが、タティを女主人として受け入れるかどうかさえ疑問だった。それなのに、虫を見ただけで泣くようなタティが、そういう底意地の悪い世界で生きていけるのだろうかと、僕の悩みは深くなっていた。
その夜僕らはいつものように寝室のベッドに横たわり、タティはさっきから何かを話していたのだが、僕はその朝からいよいよ夜会のために王都へ出かけるということもあいまって、それには上の空だった。タティの身体の感触のよさを味わうということ、今は彼女の頬を触ったり髪を撫でたりしていた。
ふと、タティは拗ねたような声を出した。
たぶん僕に何かをたずねたのに、僕がそれを聞いていなかったせいだと気づいたので、慌ててたずね返した。
見るとタティは不満そうな顔をして頬をふくらませていた。
「もう……、アレックス様は昔からよく考え事をされるけれど、こんなときにしなくてもいいのに……」
「ああ、うん、ごめん。ちょっとね。今なんて言ったの?」
「……」
タティが両手の指先を絡ませて恥ずかしそうにするので、僕は彼女の顔を覗き込んでそれを促した。
するとタティは僕からは目をそらし、やっと囁くようにこんなことを言った。
「……わたしは、小さい頃からずっと好きだったんですって、言ったんですよ。物心ついた頃から、ずっとだったんですからって……」
「本当? 誰のことを?」
からかうためにちょっと意地悪を言うと、タティは頬を染めて恥ずかしがった。
それで僕は途端に愛しくなって彼女を抱きしめた。柔らかいタティの感触が腕と身体に気持ちよかった。こんなに可愛い女の子が僕のものだなんて、これはとても素晴らしいことだった。しかも僕はタティのことを、好きなようにすることもできるのだ。
「あっ、アレックス様……」
「ねえタティ、君、本当に僕と結婚していいと思ってるの? それで幸せになれると思ってる?
あんまり考えなしに決めちゃったけど、と言うより僕が押し切っちゃったような気がするんだけど、タティはそれでいいと思ってるの?」
僕はそのままタティの上にのしかかり、おでこを撫で、顔を近づけて彼女をみつめた。
「いろいろ冷静になったら、僕らの結婚には大変な問題がたくさんあるよ。すごく大変なことがたくさん。何が大変かについては、あんまり詳しく話すと君に逃げられそうだから言わないけど」
するとタティは笑った。
「アレックス様、教えてくださらないの? どうぞおっしゃって……何が大変なのか教えてください」
「えっ、それは駄目だよ。言ったら僕と結婚するのが嫌になるから」
「ならないわ」
「いや、なるよ。だって……大変なんだ」
「アレックス様……、わたしね、可愛いお嫁さんになるのが夢だったの」
「可愛いお嫁さん?」
タティは頷いた。
「貴方の可愛いお嫁さんになって、ずうっとずうっとアレックス様のお傍にいられたらいいなって、子供の頃から思っていたの。
だから、大変なことなんて全然平気です。
貴方が一緒にいてくれたら、どんなに大変なことがあったって全然へいき」
「ほんと?」
僕がたずねると、タティは微笑んで頷いた。
「ほんとにほんと?」
「ええ」




