第5話 初めての恋人
あるとき僕は、恋をした。
彼女に出会ったのはアディンセル伯爵である兄さんが主催した盛夏のパーティー。
居城一階の厳かな広間には、通常通り兄さんの取り巻きの貴族の姿が多かったが、その日は兄さんが所有する主だった都市の商工会議の面々や、通商関係者の姿も目立った。
手軽に食べられる料理や酒が次々と振る舞われ、あちこちでは上品な歓談の輪ができあがっていた。兄さんの周りには様々な理由から彼の歓心を買おうとする人々が集まっていて、人の流れが入れ代わり立ち代わり途切れることがなかった。給仕係たちはそれらを含む広間を流動するすべての客人を追跡し、彼らの皿やグラスが空にならないために忙しく動きまわっていて、楽士たちは近頃の兄さんのお気に入りである、南国情緒漂う異国の楽曲を延々と奏でていた。
周囲の勧めもあって少々酒を飲みすぎてしまった僕は、オールダス卿との会話が終わったのを区切りに側近のカイトとも別れ、夜風に当たって頭を冷やそうと一人広間の横のテラスに足を運んだ。
仄白い色調の古いテラスには、パーティーに疲れた客人が一息つくこともできるゆったりとしたテーブルセットやベンチがあって、庭に続く階段を下りれば城内の薔薇園に続く小道がある。
もしテラスに先客がいるようなら、薔薇園にあるベンチのところまで散策しようと考えながら、僕はテラスに続くアーチを潜り抜けた。
そこに、彼女はたたずんでいたんだ。
彼女はテラスともよく調和した白と薄紫色のパーティードレスに身を包み、癖のない金色の髪を背中に流した可愛らしい女性だった。
その女性が、名のあるどこそこのご令嬢と言うよりは、恐らく兄さんのご機嫌を取りたい、彼の心象をよくしたいグループの誰かに連れて来られた哀れな犠牲者なんだろうことは分かっていた。
伯爵のパーティーに呼ばれることを栄誉と思っている貴族たちの中には、自分たちと時間を共有する人間として相応しくない身分と思われる人間に対して辛辣な態度を取ることがある。彼女は他でもない主催者がもっとも歓迎する客人である若い女性であるために、それほどあからさまな目にはあっていないようだったが、それでも彼女が貴族間の暗黙のルールを理解しきれずに、時折密やかな失笑を買っている様子は見受けられたからだ。
つまり僕は、このパーティー会場でひと目彼女を見たときから、彼女のどことなくシェアを思わせる風貌に惹かれるものを感じていて、ときどき彼女が無事であるかどうかを横目で確かめながら過ごしていた。
兄さんに選ばれる女性たちはいつでも金髪とは限らないが、しかし大抵は金髪だったので、僕は彼女が兄さんの一夜の相手に選ばれはしないかということを、内心では少しはらはらしていたというわけだ。
だけどその夜、兄さんはその女性よりももう少し落ち着いた感じの、別の金髪女性を選んでいて、今夜の彼はその真面目そうな女性に合わせた誠実で物分りのいい男を演じるのに夢中になっていた。
だから、僕の目の前にいる彼女が何事もなく無事に家路につけることが、その時間頃にはそろそろ確定していた。
と言って、僕に見知らぬ女性に声をかけるなんていう勇気があるはずはなかった。
テラスの石塀に肘を預けている彼女の背中は、僕の登場に気づかないようでいて、僕に声をかけられるのを待っているようにも思えた。
僕としても、この可愛らしい女性とせめて気軽な会話くらいはしてみたかったけど、挨拶をして、それでもし話が続きそうになったとしても、僕は兄さんのようには気の利いたことはできないだろうし、言えないだろう。きっとみっともないところを見せて、すべてを台無しにしてしまうことは分かっていた。
たぶん、声をかけなかったほうがましだったと思うような、一生心に傷が残るような些細なミスを―――。
「こんばんは、アレックス様」
だけどテラスにいた先客は、僕の姿を見つけると、あまりためらうこともなくそう声をかけてきた。
僕は、いきなり自分の名前を呼ばれたことに驚いて、それから、手の中の飲み物を取り落としそうになって少し慌てた。
その夜の客人は少なく見積もって軽く三百人を超えていたし、僕は生来の人見知りのせいもあって、本当に顔見知りの数人にしか挨拶をしていなかった。
少なくとも、僕は彼女を誰かに紹介された憶えはなかったからだ。
「どっ、どうして僕の名前を?」
けれども僕がそうたずねると、彼女は仔猫のような仕草で小さく笑った。
「あら、誰だってみんな知っていますわ。アレックス様のこと。
だって貴方は領主様の弟君ですもの」
「あ、そ、そうか。そうだよね。
えっと……君は?
たぶん、お互いまだ紹介して貰っていなかったと思うけど」
「わたし、エステルです。エステル・ベケットと申します。アディンセル伯爵様のご友人のハミルトン様と兄が友人で。
こういう私的なパーティーにお招き頂いたのは初めてなので、どうしていいか分からなくて……」
「ああ、そう、そうか。ようこそ、いらっしゃい。……」
「……」
「……」
僕は、目の前の女性が何かを僕に期待しているということ自体は分かっていたけど、いったい何を期待されているのかについてはまるで考えが及ばなかった。
もし見当違いなことを言って女性を失望させるのは嫌だったし、僕自身も失望をされたくなかったので、結果として僕は黙り込んでしまったのだが、実はこれがいちばんまずいということにすぐに気がついたけどもう遅かった。
何しろ僕には女性経験というものがないんだと、勿論そんな突き抜けた言い訳をジョークに絡めて笑い飛ばす技術なんて持ち合わせていない。
「……、……あ、あのっ、ギルバート様って、本当に素敵な方ですのね」
しまいには、女性に場をフォローさせてしまうという最悪の事態に陥ってしまったが、救いだったのは彼女がそれで気を悪くしたりしないでくれたということだった。
彼女は僕の機嫌を損ねさせまいとしているかのように一生懸命おしゃべりをしてくれて、僕は初対面の女の人に気を遣わせてしまったことに少なからずショックを受けていたけれども、それで苦しいながらも少し息を吐くことができた。
「ええ、もう、本当に素敵な方だわ。兄たちが、優秀な上に美青年伯爵だって話しているのを子供の頃から聞いていて……だから今日はその、あの方がどのくらいお美しいのかちょっと期待して来たんですけど、期待以上に素敵な方でした。すごく格好よくて。
どんなに機嫌よく笑っていらしても、あの近寄り難いような、クールな感じがいいんでしょうね。
ローブフレッドの年頃の娘たちは、みんなあの方の花嫁になりたくてたまらなくて、そのために、ここ十年くらいは婚期が随分延びているほどなんですって」
「へ、へえ、そ、そうなんだ、知らなかったよ。
ああ、でも、身近にもそういう人が一人いるから、やっぱりそうなのかな」
「身近な方……?
あ……、もしかして、アレックス様の大切な方、ですか……?」
「えっ? あ、いや、違うよ。まさか。
ジェシカは僕のこと、未だに子供と思っているみたいだし」
「ジェシカ、さん……?」
そう言いながら、不意に彼女は僕に近づいてきた。
どういうわけか、戸惑いと不安の瞳で僕をみつめながら。
僕はたった今まで笑って話をしていた彼女が、どうしてそんな表情で僕に近寄って来るのかが分からなかったけど、そもそも女の人が何を考えているかなんていうことは、想像してみようとしたところで僕には分かるはずのないことだった。
夜風は彼女の長い金色の髪を緩やかに弄び、僕は少し酒が入っていてこともあって、彼女の可愛らしい姿をただ黙って見つめていた。
彼女は僕のすぐ側までやってくると、驚きと緊張、いったい自分の身に何が起こっているのか把握できないこと、それに手の中の飲み物のために身動きできずにいる僕の肩に手を添えて、僕に突然キスをした。
「えっ、えっ?」
指先で唇を押さえ、瞬きをし、うろたえる僕に、エステルは言った。
「アレックス様、驚かせてごめんなさい、でも驚かないで。
わたしね、ひと目見たときから、アレックス様のこと素敵な方だなって、思っていたんです。ギルバート様なんかより、貴方のほうがずっと素敵な方だって。
だってわたし、今夜は貴方のことばかり考えていたんです。
どうしたらアレックス様と親しくなれるかしらって、パーティーのあいだ中、頭の中はそのことばかり……。
だから……ねえ、アレックス様。
貴方のことを、好きになっても……いいですか?」
僕はそのときのことを、実は相当浮かれてしまっていてはっきりとは思い出せないんだけど、分かっていたのは、僕は何だか彼女に……エステルに運命みたいなものを感じているということだ。
それで、それで近頃の僕は、毎日がとっても楽しいということだ。