第44話 大事なこと
午後が深まりかけた時刻、ジェシカが僕の執務室にやって来た。彼女は本日王都に滞在されている兄さんには、同行していなかったようだった。
僕は午前と午後をずっと机の上に突っ伏して過ごしていたために、そろそろ書類の山に埋もれ始めていた。
「何かお悩み事ですか?」
ジェシカが僕の執務机に近づいて来ていることを示しているように、彼女の踵の高いブーツが床を鳴らす音が近づいて来た。
僕には顔を上げる気力がなかったが、それと言うのも好きな人にプロポーズを嫌がられたダメージが大きすぎたからだ。
もしこのまま結婚を強行したとしても、タティは二度と僕に微笑んでくれないんだろう。だいたい結婚するには男子をあげなきゃいけないのに、そんなことまで強行したらタティはショックで死んでしまうかもしれない。
かといってこのままタティと結婚できなかったり、エステルと寝たなんてことがもし今後タティに知られたりしたら、そのときは僕のほうがきっと確実に死んでしまうことだろう。
「それは恋のお悩み? ロビン・ウォーベックはなかなかの美人でしょう?」
ジェシカの口ぶりは、いま僕を悩ませているのが秘書官のロビンでないことを承知しているような感じだった。
「タティは……お元気ですか?」
次にはジェシカは、探りを入れるようにそう質問をしてきた。僕が顔を上げると、彼女は執務机のすぐ真ん前で僕に視線を注いでいて、僕らはすぐに目が合った。
僕は慌てて目をこすったが、これは目にゴミが入っていたせいだった。
ジェシカは姉のような気遣わしい様子で微笑んだ。
「もう、プロポーズなさったのですか?」
「……うん」
素直に僕は答えた。
確かに兄さんの本性が分かるにつれ、ジェシカのそれも必ずしも善良なものではないことには気がつきつつあったが、それでも兄さんが僕に対して基本的には愛情を持って接しているように、ジェシカの僕に対する態度もまたそれに準じる誠実なものではあった。
その証拠に、ジェシカの問いかけは大抵親切で、僕の中の子供心をくすぐるのが上手かった。
「でも、芳しくない」
「……どうして分かるの?」
僕がたずねると、ジェシカは少しわざとらしい動作で僕に頷いてみせた。
「それは、お顔を見ればだいたいのことは」
「そう……、でも君は、僕がタティと結婚することには反対なんだよね」
「ええ、そうです」
ジェシカは動じることなくそれを認めた。
その彼女の率直さが今はとても不愉快で、僕は親切な彼女に対してまるで兄さんが理不尽なことを言うときみたいに顔を歪めた。
「でもすべては君の思い通りに運びそうだよ。何もかもね。何しろ、タティは僕のプロポーズを喜んでくれないんだ。だからたぶん、結婚はできそうにない」
「喜ばないのですか?」
ところがジェシカは僕の嫌味をものともせず、優しい口調でそれを繰り返した。
それで僕は、再び素直になって頷いた。
「タティは僕のことが好きだって言うんだ。確かに大好きだって言ってくれた。
それで、結婚も性交渉も受け入れるつもりのようだ。でも……」
「でも?」
「嬉しそうじゃない。何故なんだろう」
するとジェシカは少し考え、それから少し笑って僕に視線を戻した。
「それはたぶん……ねえ、アレックス様はどうなのですか?」
「僕?」
「タティのことを、どう思っていらっしゃるのです?」
「そ、そりゃあ好きだよ」
「女として?」
「勿論さ、僕はタティのことを愛しているんだ。そう思うようになったのは最近だけど、でも彼女のことを誰よりも愛している気持ちは本物だよ」
「それを、貴方は彼女にお伝えになりました?」
ジェシカに言われて、僕はぽかんと口を開けた。
ジェシカは人差し指をこめかみに押し当て、多少僕のことをからかっているような様子を覗かせながらも、通常通りの飽くまで生真面目な話し方でこう続けた。
「タティの反応は、たぶんそれが……よく伝わっていないからでは?
確かに、求婚されれば立場上彼女がそれを断ることは難しいのですが、あの娘がアレックス様に好意を持っているのは見ていてよく分かりますし……。
彼女は恐らく、アレックス様が自分を愛しているという可能性についてさえ、考えたことがないんじゃないでしょうか?
貴方が思いやりによって、あの娘を妾という立場から救済するために結婚することを思いついたとでも考えているという見方が妥当でしょうね。まあ、ボランティア的な意味で。
確かにそれは、女としては落ち込みますね。少し思慮のある娘なら、それで貴方の将来の一部分を潰してしまうかもしれないなんて健気なことを考えるかも。
貴方にプロポーズされて嬉しくないことはないんでしょうが、泣きたくはなるでしょう」
僕は執務椅子を立ち上がり、ジェシカの頬にキスしてそのまま部屋を飛び出した。