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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第7章 誘惑の夜
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第43話 解読不能

女性に泣かれることほど後味の悪く、問答無用で罪悪感に苛まれることもないものだ。それが好きな相手となれば筆舌に尽くし難く、僕はタティの態度に腹を立てて、結局朝食も取らずに席を立ったが、本当は腹が立っていた以上に僕を支配していた感情と言えば恐るべき難題にぶち当たった混乱と言ってよかっただろう。

僕はタティを泣かせたことだけでなく、タティがどうして泣くのかが分からないことに恐れおののいていた。僕に理解できない何か恐るべき問題が潜んでいるのか、それとも僕が、彼女が泣くような単純なことを理解できないほど頭の出来が悪いとでも言うのか……。

せっかくプロポーズしたのに、どうしてタティが嬉しそうじゃないのかが分からず、本当のことを言えば僕のほうが泣きたかった。

彼女はパーシーのことを友人以上には思っていない、僕と関係を持つことや、結婚することも嫌じゃないと言うんだ。それならどうしてああいう態度なのか、女心というものはまったく難解で、わけが分からなかった。

何処かに対応マニュアルとか、解読書のような本はないものかと、僕は本気で頭を悩ませていた。姉弟として接している分には何も不都合などなかったのに、恋愛対象になると赤ん坊の頃から二十年暮らしていたってこうなのだとしたら、結婚生活とやらを送るのにはどれほどの混乱が待ち受けているんだろう。

我が国では基本的に離婚ができないが、配偶者と死別した場合はその限りじゃない。どこそこの貴族が古女房を殺害したなんて事件が、ときどき新聞紙面を賑わせることがあった。

兄さんだったらこんなとき、いったいどうするだろうと考えて、思い浮かぶのは二通りだった。

言うことをきかない女のことなど、彼は放り出すか、腹が立っているなら悪びれもせずに殺すだろう。


「全然参考にならない……」


朝からもう何度掻き毟ったか分からない髪を撫でつけ、僕は執務机に頬杖をついた。

その日、僕はアディンセル伯爵の居城の僕の執務室で通常事務をこなしていた。机の上に積まれた通商許可書にサインをするのが、その午前中の僕の仕事だった。

兄さんは最近少し僕が執務の役に立つようになったということをお喜びになっていて、これまでは補助役が多かった兄さんの執務の何割かを、実際に僕が最終的な裁定者として受け持つことも多くなっていた。もっとも、今のところ任されているのは所領の内政に係わるうちの、それほど重要でない案件ばかりではある。

煩わしい陳情の中で、面会を要するものの処理を任せられるのも近頃は僕だ。兄さんは一見人当たりがいいようにも見えるが、根があの通りなので気分によっては訪問者を恐がらせてしまうこともあるのだそうだ。

僕がこうした執務を行う日には、カイトは僕の側に控えて、慣れない秘書のようなことをやっているが、当然ながらここでは専門の文官が僕の下にも配置されていた。ときにはジェシカが顔を出して、僕の補佐官をしてくれることもあった。

それと比較して、兄さんの腹心であるジェシカを持ち上げたい誰かによって、タティがもう少し使い物になればいいという話題が失笑と共に聞こえることもあった。

本当はタティは勉強ができないわけではなく、我が国では何処の家庭にも有り触れている通り、女だからという理由で与えられる教養が限定されてしまっただけのことだった。けれどもそれを女には知性がないという社会通念を持つ人々に説明するというのは、いかにも実りのないことだった。彼らは若く未熟な僕の言い分を、恐らくは上辺だけ分かったふりをするだろうがまず信じないことが分かるからだ。

そして何より問題なことは、妾といえどもいまやタティが多方面の人々にとって嫉妬の対象になっていることだった。このままでは誰もが彼女を花嫁として認めそうもないことを思うと、僕は憂鬱だった。

僕は飽くまでもアディンセル家の当主ではないし、兄さんのような宮廷をときめく美男でもなかったが、それでもある程度は予想される妬みや嫌がらせに、タティが耐えられる性格であるようには思えなかった。

相応の男と結婚したほうが、彼女にとっては幸せなことなんじゃないかと、自然とため息がこぼれてきた。


「えっ? 俺ですか?

いや、アレックス様のお勧めとあらば、勿論有難いんですが、俺は男爵家の姫君と政略結婚する運命なんです。目下、美少女の主君にさらわれたい乙女の心境でして」


気まぐれに、近くにいたカイトにタティとの結婚を勧めると、彼は手を振ってそれを拒否してくれたので僕は少し安堵した。


「ああ、そうだったね。タティが結婚するのが君なら、僕も安心できるんだけど」

「タティと結婚したら、俺はただの貧乏貴族です。妻を養わなけりゃならないんじゃ、暮らすにも大変だ」

「その点は僕が面倒みるよ。そうだ、そうすれば……」

「そんなことを言って、貴方は彼女がお好きなんでしょ。俺は貴方に嫉妬を買ってまでタティと結婚したいほど彼女に興味はありませんねえ。

ま、あのでかい胸は、なかなか触り心地がいいかなと思いますが……おっと、睨まないでくださいよ。ほんの冗談なんですから」

「冗談に聞こえないんだよ」


そして僕は再びため息を吐いた。

タティとの今朝の経緯を、カイトに少し話してみたものの、それについてはカイトも終始首を傾げるばかりだった。


「まさかエステル嬢とのことが耳に入っているってことでもないんでしょうし、貴方の求婚を喜ばないってのは確かに不可解ですな。彼女にとっても彼女の一族にとっても、身に余る栄誉でしょうに」

「誰か、口の軽い奴がいたのかもしれない……、だからタティは僕を汚らわしいと思って嫌がっていたのかも」

「いや、その点は。アレックス様、俺の危機管理能力を甘く見ないでください。アレックス様がエステル嬢と俺の部屋を使ったのを見たのはいなかったはずですよ。

それに、タティは貴方が好きだって言ったんでしょう? だったらまあ、いいのでは? 女が機嫌を悪くすることに、大した理由なんてないもんですよ」

「そうかな……。例えば、実は兄さんが好きなんてことはないんだろうか」


僕がそう呟くと、カイトはそれに同意するように頷いた。


「それはまあ、あり得ないと言い切れないところが何とも。

そんなふうに悩んでいるくらいなら、本人に聞いたらいいじゃないですか」

「聞いたさ。だけど、何だか言わないんだ」

「ふむ…」

「カイト、僕はどうすればいいと思う?」

「どうすればって……何をです?」

「だから、僕はタティと結婚したいんだよ。でも嫌がっているものを無理やり結婚するなんて、まるでとんでもない悪役みたいじゃないか。人さらいもさながらだ。世の中に憚る悪党のすることだよ。

だからどうすればいいか、こうやって君に相談しているんだ」

「それは分かりますが、でも嫌がってないんでしょ?」


カイトは執務机の近くの書棚の片づけをしながら、片手間に僕に返事をした。


「確かにそうだけど、でも厳密には、喜ばないってことは嫌がってるってことだろう? 僕を歓迎してないってことだ。と言うことは、僕のことが嫌だということだ」

「只単に、恥ずかしがってるだけなんじゃないですかね?」

「そういう感じじゃなかった」

「じゃあ、嫌だと言われたんですか?」

「言われないけどさ……」


カイトは手にしていた本を本棚に押し込んでから、振り返って多少面倒臭そうな調子でこう言った。


「んー、そこは貴方が察してあげないといけない部分なんじゃないんですかね?

何つうか、女の中には、あんまり自分の意思表示をしたがらないのがいるでしょう。俺が言うのも何ですが、多くの保守的な家庭では、女はそのように仕込まれるもんなんです。物事は、男のほうから仕掛けさせるよう仕向けたほうが万事上手くいくってことを。

何せ、生意気な女は男からも女からも叩かれる世の中だ。だから母親たちは自分の娘にこう教えるんですよ。明確な意思表示をするなんてのは非常に危険で、恥知らずで、背徳の証明みたいなもんだってね」

「……おまえ、ガチガチじゃないか」

「そうですか?」

「でも、言われてみればタティの母親はいかにもそういう考えを持っていそうな感じだった。年頃になっても、タティに可愛い服ひとつ着せなかったくらい。

じゃあタティは、僕と結婚するのが嫌ってわけじゃなくて、それどころか本当は飛び上がって喜びたいってことだったのか。ただそれを、人前でするのが悪いことだと教えられていただけで」

「きっとそうですよ。よかった。解決ですね」

「馬鹿を言えよ、そんなわけないだろう。僕は目の前で泣かれたんだぞ……」


朗らかに微笑むカイトを、僕は睨みつけた。


「あらら、泣かれたんですか。それじゃあ話は違いますね。それならそれはきっと完全な拒否ですよ。

さてはアレックス様、何か嫌われるようなことをしでかしたんじゃないんですか?」

「……ああ、しでかしたよ。知ってるだろう」

「ありゃ、いけませんねえ。貴方いったい、何をやらかしたんでしょうか? まったく悪い子がいたものですね。もしかすると、彼はとんでもないスケベ男かもしれません」


そしてカイトは近寄って来ると、僕の御託が煩いとばかりに執務机の上の積み上げられた書類を指先で叩いたのだった。

無駄口よりも手を動かせと、まさかカイトに言われるとは思わないことで、僕は何だかいたたまれなくなって机の上に顔面から突っ伏した。


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