第41話 君を支配したいんだ(2)
僕はテーブルに肘をついて、頭を抱え込んだ。
ついさっきまでは何となく気持ちが浮かれていて、物事が万事上手く運びそうな感じがしていたんだけど、何だかそれはあまりに楽観的な現状の捉え方であって、事実はもう少し大変なんじゃないだろうかという考えに僕は再び支配され始めていた。
それにさっきから脳裏にエステルとのことがちらついて、その記憶は小悪魔みたいに僕の気持ちを掻き乱してもいた。
僕は女性を切らさず遊んでいる兄さんのことをあれだけ軽蔑していたくせに、自分もやっぱり女の人と関係を持つことが、たぶん、すごく好きな男なんだっていうことが、あの一件によってはっきり分かってしまったことは、僕にとって悪い意味で衝撃だった……。
いや、はっきり認めてしまうと、僕は前々からたぶん自分はスケベなんだろうと思っていた。何と言ってもあの性欲旺盛な兄さんと血が繋がっているんだし、そうならないほうがおかしいというものだ。だから、そういう自分がいるってことに、僕だって男なんだから、そりゃあ気がつかないわけじゃなかったんだ。
だけど僕はその男の中でも、きっとものすごくいやらしい部類であるに違いないんだ。
その証拠に、今だって気を抜くと頭の中がそのことでいっぱいになって、自分では本当にどうにもならないほどなんだから。
「あの…、アレックス様、もしよろしければ少し……、お話があるのですけれど……」
頭上からタティの声が降り注ぎ、僕は反射的に自分を恥じた。彼女は未だに性の穢れを知らない清らかな処女であり、その汚れない彼女と比較して、僕は自分の汚らわしさに、何ともいたたまれない気持ちでゆっくりと顔をあげた。
頬が熱くなっていて、それにそのときはたぶん、とても情けない顔をしていたと思う。
「アレックス様、どうされたのですか? ……お顔が真っ赤だわ。
もしかして、お風邪を召されたのではありませんか?」
タティが、まるで僕らがただの乳姉弟だったときみたいにごく自然に僕の額に触れてくれたのが、僕にとっては下心に直結してしまうのが何とも申し訳なかった。
「お熱があるかしら、お待ちくださいね、いまお医者様を呼んで来ますわ」
「いや、待って、違う…、違うんだ」
僕はタティの服の裾を摘んでそれを引き止めた。
「違うんだ、タティ、これはその……何でもないんだ」
「でも」
「仮に熱があったとしたって、平気だよ。僕は兄さんに似て身体が丈夫なんだ。
それより君は何か僕に話があるんじゃないの? 今、何か言いかけなかった?」
僕がたずねると、タティは頷いた。
彼女は胸の前に頼りなさそうに左手を添え、少しの間を置いて、それからこう言った。
「……あの、アレックス様。何か、わたしにお手伝いできることは、ないでしょうか」
「お手伝い?」
僕がたずねると、タティは身を乗り出して更に何度も頷いた。
「はい……あの、わたし、考えたんです。
アレックス様も、最近では立派に執務を任せられるようにだっておなりでしょう?
もうわたしがお側にあっても、あまりアレックス様のお役に立てることがないですし、私は貴方の魔術師にもなれませんでしたし、本当に……役立たずなんです」
僕は、タティが何を言いたいのか分からなかったが、彼女の表情は深刻で、思いつめてさえいた。僕は少なくとも、タティのことを役立たずだなんて思ったことは一度もなかったので、タティの度の過ぎた謙虚さをなだめようとこう答えた。
「そんなことはないよ、僕は……、タティがいてくれて、すごく助かっているよ」
僕はそのとき、もしかしたらタティが乳姉妹という役目を離れたいことを、つまり僕の側から離れたいということを、真剣に僕に相談しているんじゃないかと思って、その意味で内心で慌てていた。
彼女はかつて彼女の母親の仕事だった、僕の私室の管理や僕の生活の世話をする役割を担っているのだが、実際は僕はもう手のかかる子供ではないし、確かにそれは召使い程度で代役のきく内容であることは確かだった。悪く言えば誰だろうと代わりがきく内容だ。
でも僕にしてみれば、僕の世話を焼いてくれるのは、それはやっぱりタティじゃないと困るんだということを、彼女に言いたかった。
けれどもタティはかぶりを振った。
「いいえ、いいえ。わたし、本当に、本当に役立たずなんです。
せめてお勉強ができれば、カイト様みたいに、アレックス様の執務のお手伝いができたかもしれませんが、わたしは行政とか、よく分からないし……。
お妾でも、アレックス様のお役に立てるなら、いいって……最初はそう思っていたんです。
でも……、アレックス様はそれすら必要ないみたいで……」
その言葉を聞いて、僕は一瞬、タティが僕とエステルとのことを知っているんじゃないかと勘ぐって、全身の血が一気に引いていくような酷い感覚がした。
「ひっ、必要ないわけじゃないよ」
僕はさっきとは一転して真っ青になっていることを自覚しながら、うろたえながら僕のテーブルの脇に控えているタティを見上げた。
「で、でもそれはあの、ええと、タティ、落ち着いて。つまり、つまりね、だって君がそういうことは嫌だろうと思っていたんだ。それだけだよ。
だから君がいいって言うなら僕は全然……、その……、いつでも歓迎……」
言いながら、また顔や頭がどんどん熱をもってきて、僕はコントロールのきかない自分のことを、もはや持て余していた。
それを聞いたタティも赤くなっていたが、彼女はそれでは納得できないというふうに、更にこう続けた。
「で、でもっ、アレックス様、それだけじゃなくて、わたし……貴方の傍で、何か貴方のお手伝いがしたいんです。
何かないでしょうか、執務室でお茶を淹れたり、お掃除したりするだけでもいいですから……。
ずっと一日ここのお部屋の中にいて、アレックス様が夜遅く帰って来たり、帰って来たと思ったらまた何処かにふらっと出かけてしまうのを見送るだけの生活なんて、わたし……、嫌なんです……」
「う、ううん?」
僕はタティが僕と関係を持つことを、別に嫌がっていないらしいということにばかり関心の焦点がいっていて、タティが訴えていることについては半分は右から左へ流れてしまっていた。でも何とか理解するに、要はあんまり僕が自分の部屋に寄りつかないから、最近は一緒に遊ぶこともなくて、やることがないと言いたいのかと、僕は解釈した。
「それは、暇ということ?」
「いえ、そうじゃなくて、わたしも貴方のお役に立ちたいんです、アレックス様」
「お役に立ちたいって……、それは……、ああ、いやそんなわけないよね、ええと、働きたいということ?」
「はいっ、そうです、お傍で……」
「んー」
僕は、兄さんのように女性を見下すようなふうには考えていないが、でも、女の人はあんまり外に出ないで、家の中にいたほうがいいと思うので、タティが言っていることには反対だった。
確かに世の中には、誰がどう見たって外向きな性格の女性もいる。家の中に閉じ込めておいたら、暴れ出しそうな強気なタイプのことだ。でもほとんどの女性はそうではないだろうし、タティは特にそうではなく、それどころか僕よりも人見知りなんだから、どう考えたって家の中にいることが向いているだろう。それに、またあのパーシーみたいな男に、目をつけられてはかなわなかった。
「駄目だよ」
僕は、召使いたちが僕の朝食をテーブルの上に慣れた手つきで用意するのを目で追いながら、タティに答えた。
「タティはここにいて、好きなことをしていたらいいんだ。
そっちのほうが、絶対に君のためになるよ。僕の執務室には、いろんな人間が出入りしているよ。ときには柄の悪いようなのが、やって来ることだってある。君は何も苦手なことをしなくたっていい」
「アレックス様……」
「それよりもねタティ、僕も君に大事な話があるんだ」