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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第7章 誘惑の夜
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第40話 君を支配したいんだ(1)

エステルと寝てしまった。

ほんの少し前までは、恐ろしいことに兄さんの女性だったエステルと。

兄さんと、いろいろなことを比較されたんじゃないかと思うとそれだけで具合が悪くなりそうだったが、僕は彼女と何も交際をしているわけじゃないし、彼女だってまさか兄さんと交際しておきながら処女だったってことはないんだろうし、もう会わなければさして問題になることもないだろうと、少し薄情なことを考えていたのは何しろあの夜のことを今もって激しく後悔していたからだ。

僕はエステルに対して気持ちがないのに、本当に、とんでもないことをやらかしてしまった……。

酔っていたからなんてことが、言い訳になるだろうか?

いや、ならない。僕ならタティが酔っていたからって他の男と寝たりしたら、きっと発狂してしまうだろう。

冷え込んだ朝の窓辺から差し込む清々しい、あまりに清浄なる光が、一昨日のあの夜を機に汚れてしまった僕の罪深さを僕に思い知らせるのはあまりに容易いことだった。

僕は自分の寝室で両足を布団の中に突っ込んだまま、上半身だけ起こした状態で、そのまま放心していた。

エステルとのことが、何かの間違いであることは確かなのに、どうしたことか何度寝直してみても一向に悪夢から覚める気配がなく、僕は泣きそうだった。まるであの夜の出来事が、違えようのない現実であるかのようなのだ!

やがてノックがして、僕は慌てて布団の中に潜り込んだ。

何故ならば、毎朝僕を起こしに来るっていうのが、だいたいはタティだったからだ。

たまに違う召使いであることもあるので、僕は今朝だけはそうあることを願っていた。さもなければ乳母のコンチータに戻って来て欲しかった。とにかく誰でもよかったんだ、タティでさえないならば!


「おはようございます、アレックス様」


だけどあのちょっと間延びしたような、おっとりした声はどうしたってタティのもので、僕は布団を顔までかぶりながら、別にタティと寝たってわけでもないのに心臓が爆発しそうなほど緊張していた。

ここのところ、せっかく朝起こしてくれたタティに嫌味を言ったり、朝の挨拶がなかったほど険悪だった自分を、僕は心の底から神様に詫びた。姦淫……いや、そもそも僕たちは結婚さえしていないのだから姦淫も何もないのだったが、でもとにかく僕は彼女にとても悪いことをした気持ちになっていて、自分の最低さ加減が憎かった。

それに比べて何人もの女性と同時に交際して、どれだけ女遊びをしても悪びれる様子さえない兄さんの度胸、あれはやはりとんでもないものだったのだ。僕の記憶が確かならば、彼は交際する女性が鉢合わせをすることがあったときにも、まったく動じていなかったように思う。いがみ合う女性たちを、兄さんが顎を撫でながら面白がって見ていたのを、僕は子供心に憶えていた。

そしてあのように、何かあっても居直っているかのようなふてぶてしさを持てないような男は、こういうことはやってはいけなかったのだ。いや、本当は居直るほうが最悪に性質が悪いんだけど……。


「アレックス様? ……今日もまだお休みなのですね……」


タティが、僕のベッドサイドまで近寄って来たのが分かった。

布団を頭まで被っている僕は、寝たふりをしていることがタティにばれやしないかという、実際にはばれたって全然構わないことに怯えつつ、何だか呼吸が苦しくなっていた。


「アレックス様……、わたしね……」


タティの気配が、僕の顔のすぐ側まで近づいたのが分かって、僕は息を殺した。

彼女は少しの間黙っていたかと思うと、布団越しに小さくこう囁いた。


「わたし…、貴方のことが大好き……」






僕は嬉しさと恥ずかしさと罪の意識で眩暈がしていた。

僕らは完全に両想いだったのかと思うと、自然と口許に笑みがのぼってくるのだが、次にはタティを裏切った一昨日の夜のことが思い浮かんで、存分に僕を罰した。

もう少し、ほんのもう少しだけ早くタティが僕にそう言ってくれていたら、たとえ酒を飲んでいたとしても僕はエステルとあんなことをしなかったのに、この酷いタイミングの悪さは何なのだと、壁に頭をぶつけて僕は呻いた。

タティはさっき、僕が眠っていると思ってあんなことを言ったんだろうが、それが本心だって言うなら、どうして起きているときにはっきりそう言ってくれないんだろう?

タティがいつ頃から僕のことをそういうふうに思っていたのか知らないが、そうなら、どうしてそのときにすぐそれを僕に伝えてくれなかったんだろう?

彼女さえ最初からそういう大事なことを僕に言ってくれていたら、せめてエステルみたいに好意を態度で示してくれていたら、こういう面倒なことにはならなかったんだ。


「おはようございます、アレックス様」

「おはようございます」

「どうぞこの素晴らしい秋の一日に神のご加護があらんことを」


収まらない胸の動悸をもはや自分で収拾がつけられないことに見切りをつけて、ドキドキしながら着替えを済ませて自室のリビングに行くと、タティが召使いらと一緒にいつも通りの一礼をして僕を出迎えた。必要があるときには、ここにカイトや秘書官のロビン等が加わっていることもあるが、今朝は彼らの姿はない。

だけどいつもと違うのは、タティは誰もが認める美女であるルイーズは勿論、ジェシカよりもエステルよりも、一見ずっとぱっとしない女の子なのに、でも僕の目には彼女の姿は光って見えるということだった。


「アレックス様、伯爵様は昨夜からお出かけで、王都のお邸にご滞在とのことです。

朝食は秋葡萄の間か、それともお部屋にご用意致しましょうか?」


タティが僕の世話係としての、いつも通りの業務を遂行していた。

兄さんが居城をお留守にされたときや、兄さんがご自分のお部屋にお気に入りの女性を泊めた翌朝などには、僕はだいたい自分の部屋に朝食を運ばせていた。


「じゃ、じゃあ、ここに運んでくれる」

「畏まりました」


僕の言葉を受けて、係りの召使いたちがいそいそとリビングを出て行った。僕の起床時に挨拶のために集まっていた他の使用人たちが、それぞれの持ち場に戻り始めていた。

そして僕はリビングの壁際に立って、相変わらずどこかおどおどした態度を取っているタティと、何とか仲直りをしたいと思っていた。

でも最近では声をかけてもちっとも微笑って貰えないという些細なことが、もうしばらくの間続いていて、その度に僕は酷いショックを受けていた。だからこの朝もそういうことになったら嫌だと思って、僕は結局タティに声をかけられずに、黙って食事が運ばれて来るテーブルについた。

テーブルの上にはレースがかかっていて、中央には丈を短く切ったノコンギクが飾られていた。

僕は、僕のことが好きだと言ったタティの言葉がとても嬉しかったので、その紫の花を眺めながらそれを反芻して、もうしばらくは心の中でいい気分を味わっていようと思った。

それは穏やかな晩秋の朝だった。朝晩には、そこかしこの山野でそろそろ朝靄が立ち込めているであろうほど気温が下がっていた。僕の部屋のすべての暖炉やストーブには火が入り、いつの間にか周囲の冬支度は万全だった。

タティは、すぐそこの掛け時計の下に立っていて、近くの花瓶の花を直したり、落ち着かないようにときどき大きく深呼吸をしている様子だった。

その様子を、僕がこっそり見つめていて、とっても可愛いと思っていることを、どうして彼女は分からないんだろう?

僕がタティを見るたびに胸をときめかせていることを、なぜ彼女は理解しようとしないのか、僕には分からなかった。僕を好きなら、僕がいつも視線の先にタティを捉えていることを、分からないわけはないはずなのに。

僕は、ここのところずっとタティに冷たくしていたことを静かに後悔していた。確かにタティは僕に対しておどおどしていたが、少なくとも彼女は僕に冷たくしていたわけじゃない。一昨日の夜にカイトが指摘したことは当たっていて、ほとんどは僕のほうが、タティによそよそしくしていたんだ。

僕は、彼女のために婚約指輪を用意しているのに、このままでは渡せる日が来るのはいつになってしまうか分からなかった。

兄さんはタティとの結婚を承諾してくれはしたものの、あれはあのとき恐れを知らないルイーズが、どういうわけか機転を利かせてくれたというのが大きいから、半分以上は兄さんの本意ではないことは分かっていた。だから、いつ兄さんがこのお考えを翻されたとしてもおかしくはないし、そのときはルイーズだって、また僕の味方をしてくれるという保障などないのだ。何しろ彼女は見るからに奔放で、気まぐれな女の見本みたいな姿をしていた。

それを回避するただひとつの方法は、事実を作ってしまうということだった。それは具体的に言えば、兄さんが僕とタティとの結婚を許可するにあたって提示されている条件である、伯爵家を継げる男子をあげるということだ。勿論それだけでは十分ではなく、兄さんが容易にその子を抹殺できないように、その存在を世間に発表してしまうことも必要であるだろう。

でも赤ん坊は、キャベツ畑になるわけじゃないってことを、僕はもう、分かっていた。

一昨日の晩、エステルとしたようなことを、しなければできないものなのだ。

でも困ったことにタティは、そういうことをいかにも不潔だと思っていそうな女の子だった。

兄さんが僕のお妾になれって言ったことを、泣いて嫌がるほどに……。


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