第4話 初夜権(2)
「アレックス……」
兄さんは、苦しげに顔を歪めていた。
それは兄さんの、僕に内心を言い当てられたことに対する動揺が、表情を隠しきれないほどであったことを意味していると思われた。
「誰にそんなくだらない話を吹き込まれたんだ……? ジェシカか……?」
兄さんの怒りの矛先が、彼の傍らに控えるジェシカに行きそうだったので、僕はそれを慌てて阻んだ。
「いいえ、違います。ジェシカは関係ない。
だって兄さんが金髪好きであることは、見ていればすぐに」
僕の言葉を遮って、兄さんはめずらしく感情を露わにしてこう言った。
「だったらどうだと言うのだ。仮におまえの言う通り、私が誰か忘れられない女の影を追っているとして、だったらどうだと言うのだ。
アレックス、おまえは私を笑い者にするつもりか?
いつまでも手に入らない女の尻を追いまわす、愚鈍な男であると指を差したいのか?
それとも私の弱みでも握って、勝ち誇りたいのか? 私を罵りたいのか?」
「いっ、いえっ、違います、そうじゃ……」
「だが生憎だなアレックス。生憎とこの私は、おまえが後生大事に抱え込んでいるような生温い世界の住人ではないのだよ。
アレックス、私はおまえとは違う。
私はこちらが思い通りにできない女を追い続けるなどということはしない。断じてな」
そして兄さんは憤然として執務机を叩いた。
僕はもう小さな子供ではないので、その程度の脅かしに怯えるわけではなかったけど、それならどうしてそんなにも態度を取り乱されているのかについて、更にたずねる勇気はなかった。
兄さんの部屋を出てすぐ、ジェシカに呼び止められた。
彼女は兄さんの機嫌が頗る悪いということを、少々恐がっている様子だった。
確かに、兄さんは滅多に声を荒らげるような人ではないから、さっきのような態度は単純に恐いというだけではなく、女性であるジェシカにとっては身の危険さえ感じてしまうものなのだろう。
頬にかかるジェシカの茶髪が震えているので、僕は彼女を安心させてあげるために少し彼女と話をした。
勿論、さっきの話が兄さんを慕っているジェシカの気持ちを考えない内容であったことを、彼女に対して申し訳なく感じている気持ちもあった。
「ごめんよジェシカ。兄さんが、あんなに憤慨されるとは思わなかったんだ。
忘れられない女の人がいるという指摘については、あれは本当は兄さんのことじゃなくて、僕のことだったんだよ。僕は、自分のことを当てはめて言っただけなんだ。
だから、ジェシカはあんまり気にしないでね。
兄さんだって、自分を僕なんかと一緒にするなって言って怒ったんだし」
「いえ……、私のほうこそ申し訳ありません。
お急ぎのところ、大した用もないのにお呼び止めを致しまして」
「いいんだよ」
「アレックス様は、やはり牢の女性を解放されるおつもりなのですか?」
「うん、これからすぐに。
日が暮れるまでには、村落のほうに送り届けてあげようと思う。
何しろ、彼女にはもうじき結婚を控えている恋人がいるんだ。生涯を共にすることを、約束している相手がね。
それなのに初夜権なんて、僕に言わせればとんでもないことだよ。
いつの時代も、寝間を共にするのは、愛しあう者同士でなくてはいけないものなんだから。
とにかく何かが起こってからでは、遅いからさ」
「左様ですね」
それから僕は、その足で城の地下牢に閉じ込められているキャロルのもとへ向かった。あんなやり取りをしてしまったからには、兄さんが今夜にでも彼女を寝室に呼ぶどころか、僕への見せしめに彼女を殺してしまうかもしれないと思ったからだ。
兄さんに逆らうことは心苦しかったが、泣いて嫌がる女の人の存在を知りながらそれを見捨てておくことは、僕にはできなかった。
堅牢な石造りの地下牢の衛兵や拷問吏が僕に対する敬礼の姿勢を取り続ける中、僕はキャロルの入れられている独房の鍵を開いた。金髪の愛らしい女性が一人、この部屋に閉じ込められていることは確かなのに、扉を開いてもどうしてか彼女が僕の前に姿を現すことはなかった。
「キャロル? 僕だよ、アレックスだ。寝ているのかい?
実は、今夜にもアディンセル伯爵が君をお召しになるかもしれないんだ。
だから、今のうちに君を逃がしてあげるから……」
灯りひとつない暗い部屋の片隅に、返事の代わりに何かの物音が聞こえた。
僕は側にいた衛兵にランプで室内を照らすように言いつけ、そちらのほうに目を凝らした。
その闇の中には白い脚が……女性の太股と思しき美しい両脚が浮かび上がっていた。それらはあまりにも大胆に開かれていて、両脚ともが何かよほどがっしりしたものを抱え込み、絡みついているように見える。
それが人間の……成人男性の胴であることに気がつくまでには何秒かかかり、それからその身体の主が僕の見知った人物であることに気がつくまでには、もう数秒かかることになった。
「あっ…、あっ……」
熱を帯びた女性の声と、生々しい息遣いが室内に満ちていた。
「伯爵様っ……、伯爵様っ……」
「そう、いい子だ」
窓ひとつない暗闇の中で衣服をつけたままキャロルに覆い被さっている男、それは紛れもなく僕の兄さんだった。
「女はそうでなくてはいけない」
僕はそれを目の当たりにしたことで、呆然と口を開けたまま立ち尽くした。
兄さんの不興を買うであろうことを分かっていながら、それでもキャロルをひと目見て助けてあげようと思い立ったのは、何よりも彼女がシェアに似ていたから。
そしてキャロルの金色の綺麗な後ろ髪や、彼女の何気ない横顔を見かけたとき、僕はやっぱり初恋のシェアのことを思い出していたから。
キャロルがシェアに、僕が好きだったシェアにとてもよく似ていたから―――。
「兄さん……」
僕は、頭に血がのぼっていくのを感じていた。