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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第7章 誘惑の夜
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第39話 当惑の朝

いつか神学の教師が言っていた。

誰の人生にもひとつずつ、真実の愛が用意されているものなのだと。

我が国の国教たる太陽神は、常に正義と公平と愛を重んじ――、それなのに現在のこの王国においては、神聖なる神の教えが捻じ曲げられていることを神父である彼は酷く悲しんでいた。

裕福な男はさして悪びれもせずに愛人を囲い、有閑貴族たちは夜な夜な酒宴と乱交を繰り返す。夫に貞節を尽くすべく教えられた大切な娘たちの犠牲であるかのごとく、貧しき娘たちの貞操は野辺の花よりもあっけなく踏み躙られていく。

僕は嘆かわしくも風紀の乱れたこの風潮をとても嫌っていたはずだ、それで僕は生涯の伴侶以外の女性と関係を持つべきではないと考えていた。確かにそうした考え方は、男の多くには受け入れられないことだろう、少なくとも進んでそうした堅実な思想を打ち明けることには誰しも抵抗があるはずだ、特に自らの若い体力を信じている血気盛んな時代を生きている男たちの間には。

けれども僕はそうじゃなかった……、そりゃあ僕は神学の教師が期待していたほどには敬虔な人間ではなかった、経典を諳んじることができるわけでも、神聖魔法を扱えるわけでもない。完全に肉食を断つわけでも清貧をよしとする人生でもなかった、それでも、関係した女性の数を自慢しあうような連中を心底下劣だと感じているほどにはまっとうな人間であるはずだった。

それなのに僕の人生は一夜にして一転してしまった。

奇しくも男性としてこの世に生まれた者たちが生涯闘い続けなくてはならないこの意味のある闘争に、僕はあえなく敗北を喫したのだ。

この罪悪を語るのに世間や良識を引っ張り出すまでもない、自分自身を裏切ったことに対するこの失望感たるや計り知れず……、もしこの世界に本当に愛というものが存在すると言うなら、それは僕のしでかしたことを決して許さないだろう―――。






その証拠に、翌朝目覚めた僕は、意識が戻ると同時にさっそく酷い頭痛に見舞われていた。


「おはようございますアレックス様。ゆうべはお楽しみでいらしたようですね。

いやあ、ベッドを汚してくださって、持つべきものは清く正しいご主人様ですよねえ」


寝台に気だるい身体を投げ出して、いまいち現実感のない奇妙な感覚を味わっている僕に向かって、カイトがあからさまに含みのある笑いを投げかけていた。

視線を巡らせるとそこは知らない天上で、僕は知らない部屋の知らない寝台の上で、裸で毛布に包まっていた。


「カ、カイト……」


自分が全裸であることに改めて気づいた僕は、毛布を被ったまま慌てて飛び起きて、途方に暮れた気持ちで寝台の脇に控えているカイトを見上げた。


「こ、これはね、あの……その……」


すると彼はニヤニヤして、さっそく僕をからかった。

現実は斯くも無情、せめてすべてをなかったことであるかのごとく振る舞うには、僕は目覚めるのが少々遅すぎたようだった。


「いやはや、今更純情ぶらなくたっていいじゃないですか。貴方がむっつりなことは、俺は前から分かってましたよん」

「うっ…。エ、エステルは……?」

「仕事があるからって早朝帰りましたよ。家業の手伝いがあるとかで」

「あ、ああ、そう……」


エステルがもうこの場にいないことに心から安心した僕は、まさしく最低な男の標本となることができるだろう。

何しろ僕は彼女を愛してない。確かに可愛いとは思うけど、彼女のいちばん魅力的なところは何処かと言えば、外見がシェアに似ているところという、本当にどうしようもなく失礼な事実の認識を、僕は今更ながらに確かめていた。

自分の気持ちをこれ以上分析するのが恐いので今はまだそうすることができないが、昨夜のことは、要はタティが相手にしてくれないことで気持ちが荒んでいて、鬱憤を晴らせるなら誰でもよかったといったところだったのだろう。

エステルのほうでも、兄さんと別れることになって、たぶん同じような気分だったと信じたいが……、気軽に他の男と寝るような真似をする女を兄さんがどれほど嫌いかを知らないわけではないだろうに、彼女もそこのところは分かっていそうなものなのに、失恋の痛手で自分を見失っていたということなのだろうか。

カイトはそんな僕を更にからかうべく、しばらく待ち構えていた様子だったが、やがて僕が気落ちしていることに気づいたのだろう。今度は騒がしくも切実な様子で僕を羨ましがり始めた。

相手を持ち上げるために必要以上に自分を貶めるのは彼の悪い癖だと思った。日常的に虐待を加えてくる彼の養父の機嫌を取るために、カイトはそうやって涙ぐましい努力を続けていたのだろうか。

こういう鬱陶しいことが、カイトなりの気遣いなのだと分かってしまうと、僕は腹を立てる代わりに何だか泣きたくなった。


「はああ、二十歳を目前に。いいなあっ、いいなあっ。

それに引き換えアレックス様、俺が幾つだか知っていますか? もうだいぶ前から二十二なんですよっ!

それなのに未だに女を知らないなんて……。

で、アレックス様。やっぱりあれっていうのは、気持ちいいものなんですか? どうでした、気持ちよかったですか?」

「……、そんなこと言えない」

「いいじゃないですかっ、教えてくださいよおっ」

「カイト……、君は下品すぎる」

「ああっ、いいなあっ。いいなあっ」

「カイト……」

「いいなあっ」

「タティに……」

「いいなあっ、んん?」

「タティにだけはこのことを絶対、絶対言わないって誓ってくれないか……」

「ええ? 何でまた。アレックス様は、彼女にもう関心ないんでしょ?」

「……そ、そうさ。だけどほら、可哀想だから……」

「可哀想? ふむ、タティがですか? それとも童貞な俺がですか?」

「……僕がだよ。僕が……、だって、もし僕がこんな軽率で簡単なスケベ男だってタティに知られたら、僕はもう死んじゃうしかないだろう……」


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