第37話 誘惑の夜(1)
四杯目の酒を飲み始めている頃、僕に対して物怖じをせず、また恐縮することもせずに寄ってきて、親しげに微笑みかけてくれる女性がいた。
他の人々は遠巻きに僕を見ていることはあっても、僕が少しばかり煩そうにしていたせいもあるのかもしれないが、もうあまり近寄ってさえ来なかったので、僕は本当にもう帰ろうかと思っていたところだった。
それなのに腰をあげずに四杯目の酒をカイトに持って来させたのは、実は若い連中がたくさんいる、夜の片隅にいるっていうつまらないことが、思っていたよりもずっと心が躍ることだと感じ始めていたからだった。
僕には友人はカイトだけだったけど、何となくこの場所に対して、奇妙な帰属意識みたいなものを持ち始めていたと言えば果たして適切だろうか。
「またお会いしましたわね、アレックス様」
「あっ、エステル……」
その女性は金色の長い髪を揺らして、僕に近づき、そっと僕の隣に腰を下ろした。それを見計らうように、カイトが僕の側から立ち去って行った。僕は慌てて彼を引き止めようとしたが、それを阻むようにエステルが僕の腕を引っ張り、僕の顔に顔を近づけた。真っ直ぐに僕に向けられた彼女の瞳と、好意的な笑顔が、悔しいけど僕は可愛いと思ってしまった。
見つめあう目を急いでそらしたが、僕のそんな様子を見てエステルが唇を綻ばせたのが分かった。僕らの関係はいつもだいたいこんな感じで、僕はどうもエステルに強気に出られなかった。
シェアの瞳の色は綺麗なはしばみ色をしていたのだが、考えてみるとエステルの瞳はそれに近い色をしているせいなのかもしれなかった。
「アレックス様、お食事はなさったのですか? 何か持って来ましょうか。何も食べないでお酒を飲むと……、貴方、あまりお強いわけじゃなかったはず」
「う、うん、いや、いいよ」
「そんなこと言って、もう酔っていらっしゃるみたい」
「全然酔ってないよ。大丈夫」
「本当かしら。油断してると、またキスしちゃうかも。出会ったときみたいに」
そしてエステルは膝を寄せて僕を仰いだ。ぴったり身体を寄せてくるのが、どういうつもりなのか分からなかった僕は、自分の身体をずらして彼女から少し離れた。エステルはすぐに不満そうな顔をしたが、僕は取り合わなかった。
「そんなに嫌がらなくてもいいのに。わたしのことがお嫌い?」
「い、嫌がってるわけじゃないよ。嫌いってわけじゃ……、そんなことより君、こんなところで何してるの?
あの、こんなところにいることが兄さんに知れたら……、お怒りを買うよ……」
するとエステルはきょとんとした顔をし、何回か瞬きをして、それから笑って僕を見た。
「伯爵様となら、もう終わりました」
「えっ?」
「本当に、わたしも驚いちゃうくらいあっさり。二週間くらい前だったかしら、あの方のお部屋で、本日を限りに関係を終了させることにする、なんて堅苦しく言われちゃいましたの。
呆気に取られていたら、これまで自分につきあってくれた報酬だとおっしゃって、すごい額の小切手をくださったの。それがもう、サウスメープル市のあの気取った一等地に、家が買えちゃいそうな金額なのよ!」
「それで君は……、納得したのかい?」
金で清算して関係を終わらせるというのは、兄さんにしてみれば後腐れを持ちたくないことや、兄さんなりに彼女の今後の生活を思ってのことなんだろう。
女の人が、もしその後結婚をしないで暮らしていくことになった場合、自分で生きていくのはとても大変なことだ。だからこれを好意的に考えるなら、彼女が一生暮らしていくのに充分な金を渡してあげているんだと思うが、でも僕は前から、この行為がどうも買春めいているようで、疑問を拭い切れないことでもあった。女の人を明らかに馬鹿にしているとでも言ったらいいだろうか。
しかし僕の懸念とは裏腹に、エステルはまるで素晴らしい幸運を手にしたかのような、ご機嫌な様子でこう言ったのだった。
「くれるっておっしゃるなら、貰っておこうと思ったの。
そうすればこれからはずっと楽に暮らして行けるし、お金持ちの仲間入りができるもの。
今だから言ってしまいますけど、本当は少し玉の輿を狙っていたの……わたし、若いし、それに巷ではこれでもかなりの美人だって言われてて。実際、伯爵様のパーティーなんかで見かけた貴族のお嬢さん方なんかより、わたしのほうがずっとずっと可愛かったわ。
今だって、この集まりの中でわたしがいちばんの美人だって、お思いになるでしょ?
でも……、美人なだけでは伯爵様はわたしを選んでくださらない。
おつきあいの終盤のギルバート様の無関心な、あの冷ややかな感じを見ていたら、これはもう、無理だなって。
本当は、お別れしたくないですって、泣こうと思ったんですよ。だってわたしはいつも可愛らしくしていたし、お行儀よくしていたわ。いつもきちんと、伯爵様が望む通りにしていたんです。それなのにいったい何がいけないのか、全然分からないんですもの。
でもひとつだけ分かっちゃったことは、これ以上押したら、きっと怒り出してわたしが困った立場になるってこと……。だから、だから……」
それまで笑っていたと思ったエステルが、今度は急に泣き顔になった。それで僕は慌てて彼女をフォローした。
「な、泣かないで。ほら、こんなところで泣いたら、大勢見てるよ」
「いいえ、今夜はどうか泣かせてくださいっ。これでも、結構、本気だったんですよ」
「うん、そうだったんだろうね」
「夏のパーティーでお見かけしたとき、初めて目の当たりにした噂の伯爵様は、お美しいだけじゃなくて、ときどき寂しそうなお顔をされていて目が離せなかったの。いつも大勢に囲まれて、あれだけ強気な方が、まさかパーティーの最中にあんなに寂しそうなお顔を覗かせていたんですもの。
わたし、なんて切ないお顔をされるんだろうって思って……。
だからわたし、あの方を助けてあげたいと思ったんです。どうにかあの方の孤独を癒してあげたい、誰にも理解されていないあの方の寂しさを、わたしが助けて、支えになって差し上げたいって」
僕は正直に言うと、それが一度は恋人だったことのある僕に対して話す内容なのかと、エステルに苦情を言いたい気分だった。タティといいエステルといい、他の男に対する思慕をなぜ僕に見せつける必要があるんだろう。
だけどエステルは僕の悪い気分なんてお構いなしに、ひたすらしゃべり続けていた。
「だけど、だけどねアレックス様、わたしと同じように考えている女が、まさかあんなにたくさんいるなんて思わなかったわ……!
わたしだけが彼の孤独に気づいていて、彼を理解しているって思っていたのに、同じことを考えている女があんなに、あんなにわんさかいるんですよ。それも恋人の座を射止めた人たちだけじゃなくて、他にも取り巻きの女がたくさん!
本当はちっとも寂しがる環境なんかじゃないくせに、それならどうしてあんな寂しそうな顔をしているのよ。まるで詐欺だと思ったわ。
ギルバート様は、根っからの女ったらしだと分かったときにはもう遅かったわ。
わたしの気持ちは弄ばれ、酷い男に夢中にされて。気まぐれで、強引で、意地悪で、だけどきっと冷たいと思っていたらとっても優しくしてくれて……、あの方は本当にひどい女ったらし!
いきなり忘れろってお金を渡されたって、納得できるわけないじゃないですか。わたしを本気にさせておいて、あの方は涼しい顔をしているのに、もう憎むこともできないのよ。
こんなに好きなのに……、どうして忘れられるって言うの?
ねえアレックス様、わたし、どうしたらいいの?
こうやって無理やり元気にしているけど、本当はすっごくつらいんですからあっ」