第32話 引っ込み思案(1)
ひんやりと冷たく暗い廊下をしばらく歩き、やがて連れて来られたのはカイトの私室ではなく、その宿舎内の比較的規模の大きなホビールームのような場所だった。
カイトの分かりきったような言葉を納得ができているにしてもできていなかったにしても、僕の性格がそんなもので克服できる道理もないことだけは確かだった。何せ、僕は彼のように過去を清々しく割り切れる気持ちのいい性格ではないのだから。
彼のことを、ともすれば単純思考が行動原理のすべてである享楽的な男であると決めつけていたことに対しては申し訳のない気持ちがないわけじゃないが、だからと言って、そうじゃなかったことを、彼の話を僕がとても悲しく受けとめているこの気持ちを、手下の人間に素直に告げることができるわけもない。
だから僕はずっと黙って歩いていたが、先を行くカイトの足取りは軽く、打ち明けた話を深刻に考えている様子を微塵も感じさせないことが、僕には分からなかった。
ひとつだけ分かっていることは、僕がもしカイトの立場だったとするなら、今こうして生きていることなどなかっただろうということだけだ。これは価値観の問題なのかもしれないが、僕はもし自分に彼の人生をあてがわれていたなら、たぶん一秒だって、到底耐えられはしなかっただろうから。
アーチ型の開放的な入り口の向こうの広間からは楽しげな、そして少々猥雑な感のある歓談の音や光が廊下にまで漏れ広がっていた。
「パーティー会場です。貧乏騎士たちの」
カイトは何事もなかったような明るい声で、広間を指差してそう言った。
パーティー会場とやらには、ざっと見て数百名の人間が談笑をしたり、誰かが奏でる軽快なギターやタンバリン、調律をされていないことがよく分かる微妙な音色のピアノ、それに即席の打楽器に合わせて歌ったり踊ったりしているのが見えた。
手前のビリヤード台にも人が集まっていて、その誰もが声を出し合ったり、歓声を送ったり、囃し立てたりしている。
会場にいるのはその多くが十代後半から二十代半ばほどまでの若い連中ばかりのようで、僕はさっそく旧来の持病である人見知りと気後れを発症した。僕は同年代の同性の人間ほど苦手なものはなく、できることなら生涯係わり合いを持ちたくないものの上位に位置しないことはないほどだったからだ。
でもそれは僕に落ち度があるわけではない。
子供の頃、兄さんが僕の遊び相手をさせようとして集めた貴族の子弟たちの無礼な振る舞いが、僕の心に耐え難い傷をつけ、以後僕は連中のような乱暴で浅はかな奴らが大嫌いになったわけだ。
この感情を誰かに打ち明ければ軽く鼻で笑われることが分かっているから言わないが、あんな話を聞いたからにはカイトにだけはもう絶対こんなことは打ち明けられないが、心の痛みというものが必ずしも相対的な問題ではないことを前提に言わせて貰えば、僕はあの苛めっ子連中のことを、今でも憎んでいると言ってもいいと思う。何しろ連中というのはいつでも軽薄で思慮に欠け、礼儀知らずであることも多く、自分たちの流儀を押しつける割には僕に対する敬意や配慮が根本的になっていないのだ。
だから僕が彼らを同じ人間だとみなすためには、奴らがカイトのように最低限の礼節を身につけるか、さもなければ少なくとも後十歳くらいは年を取り、僕が誰であるかをとくと思い知る必要があった。
「うわっ、アレックス様では……?」
「おおっ、さすがに美形だなあ」
更に悪いことには、僕とカイトが広間のすぐ前に来ていることに、入り口付近でビリヤードに興じていた連中が、気づいてしまったということだった。
彼らは口々に野太い驚きの声をあげて僕の周りに集まって来たのだが、味方でない男の集団というものは、男の目からしたって十分に脅威を感じるものだ。しかもそれが夜に浮かれているともなれば、往々にして嫌がらせにも等しい破壊力を持つ。
僕は自分が馬鹿馬鹿しい危機に晒されていることを知った。
彼らは愚かにも菓子のかけらをみつけた軍隊蟻の群れみたいにどんどん僕の周りに集まっていたし、しかも旺盛な好奇心を隠そうともしていなかった。
また部屋の中にいた他の人々も、彼らが熱中していたそれぞれの行為を中断して、次第にこちらに注目しつつあった。部屋の奥のほうのテーブルでも、だらしなく食事をしていた人間たちがその異変に気づき、その場でやはり敬礼をしたり、床に跪く者までがいた。或いは急いで僕の足下に走り寄って来て、わざわざ深々と頭を下げたりした。
思いの外、連中が僕に畏敬の念を覗かせていることは予想外のことではあったが、しかしすぐに態度が変わるかもしれない危険性を排除するべきでないことは分かっていた。
これをもし好意的に解釈するなら、僕は自分の登場によって、彼らの楽しいひとときを台無しにしていることがすぐに分かったので、早々にこの場を立ち去ろうと思った。僕自身の心の平和のために、つまり奴らの恐縮が攻撃性に転化されるその前にだ。
それに広い室内には騎士ではない、ゲストらしい女性たちも多く混じっていた。
勿論世の中には女性騎士というものが存在するが、後ろ盾となる家柄があるか、男性に負けない余程の才能があるかしないと女性が騎士になることは難しいので、この場にいる女性のほとんどは、騎士ではないだろう。身なりの程度と僕に対する躾の行き届いた対応からして、たぶん居城の使用人たちだと思われたが、召使い女と酒を飲むなんていうのは、僕の身分を考えればまず考えられないことと言ってよかった。
「カイト、悪いがやっぱり僕は帰らせて貰うよ。あんまり歓迎されてないみたいだし」
「そんなことはありませんよ。ただほら、ここにいる連中は閣下直属の中でも成り上がりの……、閣下は才能のある者はあまり身分を問わずに騎士団入りをさせていますからね。
だから騎士たちの間では、感謝と尊敬の的なんですよ。それで、彼らは閣下の弟である貴方にも同じような気持ちでいるってわけです。
ま、あの方は基本的に恐いですからね。半分びびっちゃってるのも事実ですけど。半刻もすればなじみますって」
「でも居づらいんだ」
「適当にすればいいんですよ。誰も貴方をとって食いやしない。
ほら、女の子もたくさんいるでしょ。こういうところにやって来る彼女たちっていうのは大抵、下っ端でも貴族の旦那を貰いたいって下心を持ってますから、積極的なんですよ」
「何だ、それじゃあこれはあの……そういう集まりなのか? 結婚相手を探すっていう……」
「いえいえ、そんな堅苦しく取らないでください。ただの週末のお遊びですよ。飲んで騒ぐだけ。そんな深刻なもんじゃない」
「お遊びなら、なおさら不純じゃないのか。
だいたい日が暮れているのに、女性が外を出歩くものじゃないだろう。こんな、飢えた男がうようよいるような場所に無防備にいさせて、何かあったらどうするつもりだ。解散させるべきじゃないのか」
「まあまあ、そんなことおっしゃらずに、お願いしますよアレックス様」
カイトはそう言うと、僕の背中に腕をまわし、半ば強引に僕のことを部屋の奥へと連れて行った。