第31話 カイトの話(2)
「だからって……、蝋燭が切れているのをそのままにしておくのは不便だろう」
多分に居心地悪い気持ちで、僕は呟いた。
「たまに蝋燭が切れていたって、廊下は十分歩けますからね」
「予算が足りないのか? 兄さんは金払いはいいはずだけど」
「まあ……貴方には理解できないかもしれませんが、この宿舎を利用している人間の大部分が、節約が染みついているんでしょうな。会計係がまた厳しい奴なんですよ。蝋燭を買うくらいなら、上等な武器や馬を持つべきだってこだわりのある奴ではあるんですが。
現在は長らくの平時ですから、騎士団の仕事と言ったら専ら領内の治安維持でしょう。ですから日程がはっきりしているもんですから、本当にいいところの子弟は、非番の日にはまずここには住んでいないんですよ。近場に実家があるなら通っているのもいるでしょうし、サウスメープル市に家を借りているのも多いでしょう。貴族という身分以外には何も持っていない貧乏なのや、平民上がりの連中が、ここに住んでいるんです」
「……兄さんが僕の側近に選んだからには、カイトはお坊ちゃん育ちだと思っていた」
「とんでもない、本来は名も無い末端貴族ですよ。
ウェブスター男爵家の遠縁と言っても、男爵家とは何代も隔てているから、今じゃ本家とはまったく係わりもなかったんですよ。
でもある日、まるで仔犬でも持って行くみたいに俺だけ家族から引き離され、男爵様のお邸に連れて行かれたってわけです。不細工な姫君の形式上の夫になるよう言い含められて、でも扱いは下働きの下男同然でした」
「下男……」
その真っ暗な言葉の響きに僕は呆然とした。
「ええ、そうですそうです。ほら、サンメープル城にも小汚いのがいるでしょう?
それでも周囲への体面があったんでしょう、俺も一応は男爵様の小姓ということにはなっていましたが、内実は男爵様の鬱憤晴らしのために殴られるのが仕事でしたねえ。
そのまま十四になっても従士にもして貰えなかったんですが……、でもそんなある日、たまたま俺を見かけた閣下が、これは使い物になるとおっしゃって、なんと俺を閣下の従士にしてくださったんです。
それから一年しないうちに、こうしてアレックス様に仕えるように計らってくださったわけです。そのときに騎士の叙任を頂きました。
だから閣下に目をかけて頂かなかったら、俺は今頃も下男のままだったでしょうね」
カイトはまるでゴシップ話か、さもなければ天気の話でもするみたいな口調で自分の過去を話していた。そのことから彼はたぶん、この話を僕に隠していようと思っていたつもりはないんだろう。
何しろカイトはおしゃべりだし、自分が貧乏人であるなんてことを恥ずかしげもなく言ってしまえる性格からして、誰かに自分の話を聞いて貰うことを厭うはずもない。そのことから、これはどう考えても僕がこれまでカイトにまったく無関心で、彼の話に聞く耳を持っていなかったのだと言わざるを得ない。
僕は自分の男としてあるまじき内向さ加減にもはや肩を落としながら、言い訳がましくこう言った。
「僕はカイトが……すごく腕が立つって兄さんが言ってたんだ。兄さんはカイトは家柄もいいって言ってた。家柄がいいから性格が明るくていいだろうって。だからそんなことは想像もしなかった……」
「いいんですよ、俺としても、こういう話はやはり貴方にはしづらかったと言うか」
「やっぱり僕のことなんか……信用できないってことか?」
「いえいえ、そうではないですよ。それは絶対違います。
ただ何と言いますか、んー、貴方があんまりお幸せな子供だったのがその……自分が惨めだったという時期もあったということですかね。要は貧乏人の僻み根性です。
伯爵様や周りから宝物扱いされているアレックス様を見ていると、六つも州を治めているアディンセル伯爵家の方である貴方と、所詮は荘園主上がりの田舎男爵、しかも養子の俺とでは違っていて当然なのですが、やはり自分の悲惨な子供時代が酷く情けない気分になると言うか。
心の整理をつけるのに、少々時間が要ったんです。我ながら辛気臭いことなんですがね。
勿論隠しているつもりはなく、たずねられればいつでも答えるつもりではいましたよ、ですが……貴方にお仕えしていると、当然のように誰もが俺に対してもいい態度を取るでしょう。養親から死ぬほどぶん殴られていた者としては、まさに別世界に足を踏み入れたような気持ちがしましてね。
特に貴方は、俺を仲間だと信じて疑いもなく接してくださいましたし、それでまあ……本当のことが知れて、それが崩れてしまうのが恐かったというのもありました」
カイトの告白を、僕は黙ったまま聞いていた。何と言ったらいいか分からなかった。
だからずっと黙ったまま、先を行く彼の後ろ頭を見ていた。黒髪と言うにはやや茶色がかっているカイトの髪だが、薄暗いこの廊下ではやはり黒髪に見えた。
少年の頃には僕がカイトを見上げなければならなかったが、それはいつしか逆転して、今では僕のほうが彼よりも少し背が高かった。アディンセル伯爵家は長身家系なので、僕も所謂世間で言う長身男の部類だった。兄さんにはまだ少し及ばないので、もしかしたら彼よりは背が高くならないかもしれなかったが。
「だから……伯爵様には俺、すごく感謝しているんですよ。勿論、アレックス様にもね。
俺が何を言いたいかって言うと、そういうわけですから貴方はもう少し俺のことを信頼して頂きたいということです。
何て言うかな、今は背中を向けているから言えるんですが、貴方は内向的と言うか、どこか人間を信じていないんだ。俺が思うにたぶん、恐がりすぎているんです。
でも貴方はもう、誰かに容易に力を奪われる幼い子供じゃないんですよ。その気になれば、相手を捩じ伏せることもおできになるでしょう。ですから恐がる必要なんてないんです」
「うん……分かった」
本当はよく分かっていなかったが、僕はカイトにそう答えた。