第30話 カイトの話(1)
兄さんの騎士団の連中には、剣術の訓練よりは頭脳労働を好む僕のことを、軟弱者だと思っている奴らが多いことは事実だった。
我々がお仕えする輝ける国王陛下の治めるサンセリウス王国では、大きな戦争はもう四半世紀ほど起こっていないのだが、兄さんが幼い頃、西部の国境線を巡って一度中規模の紛争があったそうだ。
しかしそのとき父上は既に七十歳過ぎのご高齢で、兄さんは子供だったために、先の戦争ではアディンセル伯爵家の当主の家からは出征する者がいなかった。騎士団を擁することを許されながら、一軍の指揮官たるべき当主が不在というのは、陛下の覚えにとって非常に悪印象だったということだ。
そのことで、その後アディンセル伯爵家が大きく宮廷における発言力を失くしたのは言うまでもないことだった。
兄さんは現在宮廷の主流であるウィシャート公爵の有力な配下となっているが、戦争という分かりやすい活躍の場のない時代に、そうなるまでには余程のご苦労がおありだったと思う。
そして代々の軍属の家系の出身者たちは、そうした悲惨な状況から立場を取り返した兄さんの政治にも明るい聡明さや強気さ、しかも長身で大柄な主君を熱狂的に崇める、つまりは強さの信奉者たちなのだ。
ときには温厚だった先代伯爵である父上のことを、無能と罵るほどに。
彼らは僕にも兄さんと同じようにあることを要求していて、兄さんの右腕たることを強く望んでいた。そして理想通りでない現実の僕に、失望し始めているのを僕は知っていた。
僕はそうした連中の巣窟である赤楓騎士団の宿舎での集まりに出向くというのが、一度格好をつけて部屋を飛び出してしまったからにはタティへの意地があるためにすぐには戻れないにしても、相当気分が重かった。
するとそれを察したように、カイトが笑ってこう言った。
「平気ですよ、そんな鼻息の荒い奴らは今夜はいませんから。
何しろ俺は、そんなご立派な連中からは相手にされないひと山幾らの部類ですからね」
居城の正面門から煉瓦道を左へ進んだところに、一般兵士及び赤楓騎士団員のための宿舎が連なっている一画がある。建物によっては側面に蔦が絡まり、長年の風雨に晒された感はあるものの、どれも余計に大きく立派な建物だった。
サンメープル城の一部としての統一感を持たせるために、居城と同様三百年前当時の古い建築様式が採用されているが、こちらはあまり飾り立てられていないせいなのか、重厚で古めかしい厳粛さだけが際立っていて、好感が持てた。
けれどもカイトに案内されるままいざその中のひとつに踏み込むと、外観の印象よりも更に異なった世界を垣間見ることになった。
至る所に品物のいい調度品や照明、お伽話調の美しい絨毯や凝った装飾床の敷き詰められた居城の華やいだ雰囲気とは大きく違っている、これは確かなのだが、それだけでなくここはどうにも貧乏臭いのだ。
廊下の燭台の蝋燭がどういうわけかひとつおきに途切れていて薄暗く、蝋燭の煤汚れが壁を這うようにこびりついている。タイルはところどころひび割れ、通路にときたま置かれている年代物の彫像は、黴を身につけ灰色にくすんでいることを気にとめられてさえいない様子だった。
廊下の隅に埃が積もっているほどには状態が悪いわけではなく、長らく清掃が行われていないとは言わないが、空気は澱み、誰か気の利いた人間が空間に対して配慮をしているようには思えず、建築の立派さの割にはそこはかとないわびしさが漂っていた。
そのことを指摘すると、ときどき夜の闇が染み込んでいる廊下を先導しながら、カイトは気軽な調子で自分は貧乏人だから気がつかなかったと笑っていた。
カイトの謙遜が意味不明だと思った僕は、彼にこう文句を言った。
「ウェブスター男爵家の子息が何を言っているんだ。君はジェシカに劣らないいいところの出じゃないか」
するとカイトは答えた。
「でも俺はジェシカ様と違って、養子なんです。実際はウェブスター男爵家は、男爵様のご令嬢が継ぐんですよ。
けれども我が国は男系男子じゃないと家督を継げませんからね。だから遠縁の貧乏貴族の俺が、名目上引き取られたってわけでして。
しかし俺が九歳まで育った家庭っていうのは、本当に貧乏で、貴族なんて名ばかりの、爪に灯をともすような生活ぶりで……だから貧乏暮らしは板についているってわけです」
そしてカイトは僕を振り返って、話の内容を殊更に茶化すかのように笑って肩を竦めてみせた。
カイトが養子であるという話は、僕もそれとなく兄さんから聞いている話だった。
カイトが言っている通り、我が国では跡継ぎにする男子が生まれないと、家系を存続させることができない。従ってそういうときは親戚の次男三男を連れて来たり、妾腹の男子を取り立てて補う場合も少なくない。だから僕としては、カイトの場合もきっと本家の甥とかその辺りの立場だと思って、これはずっと以前に自分の中で納得していた話だった。
それなのに、カイトが実は遠縁の貧乏貴族というのは、僕にとってはまったくもって寝耳に水の話だった。
それはカイトが、本来であれば僕と口を聞けるような立場でない、言わばあの護衛の連中と同じか、ともすればそれ以下の下級貴族であることが問題なわけじゃない。
確かに僕は自分でも他人と距離を置いていたい種類の人間だと思うし、ましてや恋人でもない人間の過去に関心なんかないのだが、だからと言って十三歳のときからかれこれ七年近く側仕えしているカイトの生い立ちを知らないなんて、いったい自分は何をやっていたんだと、思わず愕然としたわけだ。