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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第3章 初夜権
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第3話 初夜権(1)

「違うよ、そうじゃない」


執務机を挟んで対峙する兄さんに向かって、僕はかぶりを振った。

いま僕の心にあるものが、決して恋情なんかじゃないということを僕は言い張っていた。

僕の兄さんが初夜権を行使していることを知って、僕は少し取り乱していた。

昨今の世の中にあふれる不届きな道楽者たちのように、年がら年中その場限りの大して意味のない情熱に身を焦がし、偽りの愛を囁き、他人の女性を略奪することに喜びを覚える愚かな連中の仲間だと言わんばかりに僕を睨む兄さんの視線は鋭い。


「キャロルのことを、欲しいと考えているわけじゃありません。

彼女のことを、兄さんが無理やり連れて来たって聞いたんです。だから……」


このとき兄さんと僕は、居城の兄さんの執務室で、珍しく言い争いのようなことを起こしていた。

僕が成人をしてからもう二度目の夏を迎えていた。アディンセル伯爵である僕の兄さんが、どういう人間であるかということを、否が応でも知らなければならない場面に遭遇するたびに、僕の心がどれほど傷ついていたかを説明しようとは思わなかった。

だけど、ローブフレッドをはじめとした六つの領地を所有する大規模領主である兄さんが、権力にものを言わせて無力な女性を次々と連れて来ては、一夜の相手をさせているということを知ってしまっては、僕には見て見ぬふりをすることはできなかったんだ。

僕は今回のキャロルという女性を速やかに解放することを、その要求を何とか兄さんに承諾させるということを、先刻から頑張っていた。

僕は兄さんに、人々に憎しみを抱かれるような悪い存在になって欲しくないのだということを兄さんに伝え、彼を説得することを続けていた。

僕が子供の頃に信じていた、優しくて完璧だった兄さんに、戻って欲しい一心から。


「アレックス。女を無理やり連れて来たなど、それはとんでもない言いがかりというものだ」


誰もが聞き惚れる音楽的な調子で、兄さんは僕に言った。


「連中は率先して、娘どもをこの私に差し出しているのだよ。

そもそもこの領内に生活する女のすべては、領主たる私の所有するものに他ならないということはおまえも知っての通りだろう。

私は、只単に初夜権を行使しているにすぎぬ。

アレックス、これは領主として然るべき正当な行為なのだ。

だからそんなことを、おまえごときに非難されるいわれはない」


けれどもその声色とは異なり、兄さんの返答は、当初からまったく容赦のないものだった。

嘲笑交じりの当惑の顔を浮かべて、僕に敵意を示さないようにしてくれていることだけでも感謝をするべきだと、兄さんの傍らに控えているジェシカが目配せを送ってきている。分かっている。兄さんが、自分の気に入らない人間を、ときどき簡単に排斥してしまう残酷な領主であることを、僕だって子供じゃないんだからさすがにそんなことはもう分かっているんだ。

でも、ここでは僕が言わなければ誰も兄さんに意見を言うことなんてできない。兄さんの、ともすれば領民たちの人生さえも狂わせかねない所業を、その悪癖を正してあげることができるのは、僕しかいないということなんだ。

兄さんは長身で、所謂美男子と言って構わない容姿をしていたが、近頃の僕が何よりも兄さんから感じるのは、その流麗で涼しげな風貌とは表裏を共にする酷薄さだった。

両親の晩年の子供である僕は、彼らの顔を直接には知らないということもあって、子供の頃、僕の唯一の肉親である兄さんは、確かに僕にとって世界でもっとも頼りになる存在だった。

でも大人になるにつれて、兄さんが本当は僕が考えていたよりももう少し軽薄で、無責任な部分を持っている人だということを、成人してからはつとに実感しつつあった。

そして厄介なことに、そこには他者を征服することを生き甲斐にする強烈な支配者としての顔も共存しているのだ。


「でも、彼女はどう見たって、本気で嫌がっているじゃないですか」


ジェシカがやめろという視線を引き続き送ってきていることに気づかない懸命な素振りで、僕は兄さんに繰り返しそのことを訴えた。

そこにはキャロルという女性が、シェアに似ているということを、だから肩入れしているんだということを追求され、言っていることの正当性を疑われることを恐れている気持ちもあった。

しかし兄さんは黒髪を掻きあげ、多分に苛々した様子を見せながらこう言った。


「ふふふ、アレックス、アレックス……。

おまえという奴は、本当に幾つになっても困ってしまうくらい純情な奴だな。

嫌がって泣いている女に快楽を与え、最後には鳴かせてやることほど、甘美なこともないだろうに。

この年末には二十歳にもなるのにまだそのように甘いことをさも正論のように平然と口にする、それだからこそ私としてはおまえのことが心配で、いつまでも手元に置いてやっているわけではあるがね」

「そのことには……感謝をしています、でも」

「であるならば、領民どものくだらん言いがかりを鵜呑みになどせぬことだよ。

何しろ連中は、ありもしない苦労をさもあったことのように語りたがる。自分たちがいかに不遇であるかということを、酒の肴に自慢しあうような連中なのだ。

おまえはよもや、兄であり主君であるこの私の言葉よりも、そんな下賤の輩どもの言葉を信用すると言うのか?

この兄の言い分は、連中の嘘泣きよりもおまえの心には伝わらぬかね?」

「いえ……」

「そうだろう。おまえはこの由緒あるアディンセル伯爵家の人間だ。

子供のおらぬ私にもしものことがあれば、弟であるおまえこそがこの家の次の当主となる。

アレックス、幾ら子供じみた拙劣な正義感を振りかざそうとも、おまえとは、生来そういう立場の人間なのだよ。おまえは汚泥を這いずる奴らとは、生まれたときから違うのだ。その自覚を持ちなさい」

「……」

「アレックス、アレックス……子供のおまえの気ままをどれほど私が赦してきたか、内気なおまえが日々を安心して暮らしていくために私がどれほど心を砕いておまえの世界を守ってやっていたか、おまえはもう少し理解するべきだ。おまえが清らかで汚れない完璧な幸せの中で幼年期を過ごすことができたことが、誰のおかげであるかということをだ。

まったく、馬鹿な子ほど可愛いと言うが……。

さあ、分かったのなら、この話はもうおしまいだ。そうやって、いつまでも私の前で恨みがましい顔をしないでおくれ。

私は、聞き分けのない人間が嫌いなのだよ」


そして兄さんは優雅な動作で僕に背中を向けた。肩にかかる長い黒髪を払い除け、そのついでに、もうこれ以上話をするつもりがないというように、まるで子供をあやすかのような仕草で兄さんは僕に向かって軽く手を振ってみせた。

兄さんの僕に対する態度の中には、いまだに成人した一人の男に対するものとしては相応しくない、あたかも小さな子供を相手にしているかのような対応が多く見られた。この問題に関しては、僕がずっと以前から不満を抱くようになっていたことでもあった。


「……兄さんは、僕のことはいつまでも本当に子供扱いですね。

年が離れているせいなんでしょうか。兄さんの僕に対する口ぶりというのは、弟に対するものと言うよりは、まるで自分の子供に言っているようにも感じます」

「何だと?」


僕が呟いた言葉がよほど彼にとって都合が悪かったのか、兄さんはその鋭い視線を再び僕に向けた。赤褐色の、普段は優しいけれどひとたびその気になれば、他人を威圧するということに慣れ切った目を。

僕はそれが少し恐かったが、大の男がそんなことで動じていては、いつまで経っても兄さんに一人前の男として扱って貰えないだろうと思い直し、勇気を出して兄さんを睨み返した。

僕は言った。


「兄さんは僕のことをいつまでも子供扱いしますが……。

でも、僕はもう兄さんが考えているような子供じゃない。

ねえ兄さん、僕は、兄さんが無類の金髪好きだということを知っているんですよ。偏執的な金髪好きだということをね……何しろ、兄さんがこれまでに連れて来られた女性のほとんどが、金髪女ばかりなんだ。

だからそんなことには、嫌でも気がつく。

ねえ兄さん、初夜権なんてもっともらしいことをおっしゃっているけど、本当は単に金髪の女性あさりをなさりたいだけなんでしょう?

いえ……、本当はそれすら名目に過ぎないんでしょう。

本当は、兄さんは誰かの影を追っているんだ。綺麗な金髪をした、忘れられない誰かの影を」


僕はそう言って、さも兄さんのことを分かっているような口をきいたが、それは、兄さんの秘められた気持ちを見透かせるだけの洞察力が僕にあるということを言いたいわけではなく、実は単に僕のことだった。

僕こそは、今でも忘れられない初恋のシェアのことを、いつでも無意識に探していた。

シェアがもう生きてはいないんだろうということを、僕はそろそろ頭だけではなく、感情面においても理解し始めていた。恐らく兄さんの命令で、ジェシカが手にかけたんじゃないかということも、ちゃんと飲み込んで消化しているつもりだった。

兄さんに対しては腹立たしさを覚えることもあるけど、兄さんの命令に抗うことの許されないジェシカを恨むつもりはない。

僕が生きているこの世界では、権力のある者がすべてのことを思い通りにできるということ、家族も、恋人も、人間の生死さえも好きなようにできるということを、僕はもう理不尽だと喚き散らして拒否するだけの幼い者じゃなかったからだ。

だけど、それでもシェアと似た背格好の、長い金髪の女性を目にするたびに、僕はその人がシェアなんじゃないかと思わず確かめずにはいられなくなるんだ。

そのたびに彼女かもしれないと期待を抱くことが、どれほど自分を落胆へ導くことであるかを思い知ってからは、シェアに似ていると感じる目の前の女性が、きっと違う人であろうことを前提とするようにはなった。心に予防線を引いて、その人がシェアでないことが当然であることを予め自分に分からせるんだ。

でも、シェアを探すこと自体は、これからも当分やめることはできそうになかった。


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