第294話 蒼月の亡侯爵(2)
狂い咲く躑躅の花が、赤い街灯の光を得て狂気のように赤く咲いている。
そして空には蒼い月が浮かんでいる。蒼く寒々とした今夜の月。どんよりとくすんだ蒼い月は、これも僕には狂気じみたものに思えてならなかった。
だが何より狂っているのは、僕の視線の先にいるはずのない人物がいるこの現象だった。
何が起こっているのか分からない。僕は幻を見ているのか? しかし横にいるハリエットや、後ろを向いてカイトやオニール、護衛騎士たちを見まわしても、誰の目にもあの痩せた男が見えているようなのだ。
魔法というある種の特異な現象に、立場上、仕事上、常人よりも身近に接する機会のある僕らなのだが、見てはいけないものを見てしまったという驚愕の感想は、皆の表情が一様に物語っている。
「うそーん」
オニールが両手を頬に当ててふざけ半分にしているが、その動揺は彼とて隠し切れるものじゃない。
「ゴーストとかああ」
「魔法業界的にこうした現象は、あり得るんですか?」
カイトが警戒してハリエットにたずねるが、ハリエットは首を横に振るばかりだ。
「貴方たちみたいな視えない人たちにまで視えているのが何故なのか……」
「実は生きていたんじゃないか」
それで僕は、即座に楽観論を展開する。
「こういう話は得意じゃないんだ。だから、生きてることにしたほうがいいよ」
「そうだな、こういうことは深く考えないほうがいいな」
すると、オニールがめずらしく僕に賛同を示した。
「取り敢えず、出て来た瞬間とかは見なかったことにして受け流そうぜ。あのぼやーっと浮き上がって来るときのは、気づかなかったことにしよう。うん、あいつは歩いてあそこに現れた。こう考えればなんてことない」
「それか、何か変わった魔法を使ったとか」
僕が言い、オニールが親指を突き出す。
「オーケー、お坊ちゃま君のくせにいい考えだ。それ採用な!」
「で、まあとにかくあの人シエラ様のお兄様っぽいんですが……、さてどうしてシエラ様を取り返しますことやら」
カイトが抜かりなく前方の躑躅の花壇にいる、蒼白い青年を見据えながら唸る。
「普通に交渉していいわ」
するとハリエットが言った。
「視てみたけどあの男、何故だか知らないけど肉体を持っているみたい。あれは霊体じゃない、ちゃんと物質的な肉体だわ。ということは、アレックス様がおっしゃるように本当に死んでいないのかもしれない。表向きの便宜上、死んだことにしているだけかも」
「ふーっ、それを早く言えよ」
それでオニールが鬱陶しくも大袈裟に、腕で額を拭う動作をして見せる。
「こんな場所でホラー展開とかマジ勘弁だぜ。公園の隣は墓場だし。ゾンビとか出たらどうするのよ。ゾンビに噛まれたら、噛まれた奴もゾンビになっちゃうんだぜ!?
そんな理不尽展開になったら、さしもの僕ちんでも泣いちゃうぜ」
「でも、それならなんで死んだことにしたんだろう?」
僕が言った。
「知らないけど、勿論何か都合があったからでしょう」
日頃視えない精霊とかを視る能力があるだけあって、ハリエットはこの不可解な事態にも、極めて冷静に応える。
「ねえアレックス様、それよりすごく魔力が強いんだけど、それはご存知だった? 本当に、あの男からは強い魔力を感じる。ウィスラーナ侯爵家は魔法家系じゃないわよね? シエラはお遊び程度の魔力しかないし……。でもあの男は侯爵家の嫡男じゃなければ、魔術師として相当な実力者になれる器だわ。
無能という噂があるけど、あれだけの魔力があるなら魔法分野を磨けば十分第一線で通用したはずよ。それとも魔法は学んでいるのかも。彼の周りに精霊の気配がする……。もしそうなら、魔法を扱える指揮官なんて、蒼葵騎士団にとって垂涎ものだったはず。北部の侯爵家の人間なら、家系の専属にだけ許された特別な魔法も難なく解禁されたはずだし……。あれだけの才能があって、地位のある家柄に男性として生まれていながら何故愚か者扱いなのか……」
「頭がクルクルパーだからだろ」
「じゃあ、シエラを返してって言ったら、返してくれるかな?」
「いえ待って」
僕の言葉を、ハリエットが遮った。
「やっぱり少し様子を見て、いっそのことあの話の流れのまま、シエラを何処へなりと連れて行って貰うのがいいかもしれないわ。だって、シエラだって、お兄様と暮らしたほうが幸せなはずでしょう。彼女に戻られるとまたタティが傷つけられることになるのよ。
シエラには、お兄様と他所の土地に移って貰ったほうがこの際いいんじゃないのかしら。
彼女の中ではどうしても自分が被害者になってるみたいだし……、わたしたちとは相容れないわ。
あんなふうに泣いているのを見ると、可哀想な気持ちにもなってしまうんだけど……、でも、ここで同情して彼女に譲ればタティが泣くことになってしまうし、お互いのために、彼女にはこの辺で退場して貰うのがいちばんよ。そうできればいちばん平和的だわ」
それでとにかく僕らは当面の判断を下すべく、引き続きシエラたちの会話に耳を傾けることにした。
しかし青年はしばらく泣きじゃくるシエラの頭を撫でていたが、もう二人の会話はあらかた終わってしまっているようだった。
やがて彼は不安定な怒りの微笑みで、不意にこちらを見た。
「……アレックスだよね。さっきからそこにいる、おまえがアレックス」
両者の視界を遮る遮蔽物はないのでみつかるのは時間の問題であったにしろ、存在を気づかれ、僕はぎくりとする。
シエラが驚いて顔を上げ、俄然興奮して僕のほうを振り向いた。
「アレックス様……! まあっ、私を迎えに来てくださったのっ!?」
「シエラが好きなアレックス様、か……。癪に障る名前だ。それは――」
そう言いながら、その青年の首もまた、ぎりぎりと軋むような怪しげな動きで、少しの間違いもなく僕に向いた。
「おまえなんだよね。おまえのことは知っているよ。アディンセル伯爵家の奴のことは。おまえは人の妹を何だと思っている? 父親や兄がついていないからと、シエラを軽く見ていたんだろう……」
彼の顔つきが、当然の話だが、それまでシエラに接していた優しいものとは違って徐々に敵意を帯び始めた。
「僕のことも、軽く見ている……」
「お兄様」
彼はシエラを制すと、花壇を越えてこちらに近づいて来た。
かなり細身だが、美男というものはやはり見栄えがいい。侯爵家に生まれ育っただけのことはあって、身のこなしにもそこら辺の男にはない気品があった。
それに体格的にはたぶん向こうのほうが細いのだが、結構年上の男が相手なので、やはり僕としても気持ち的な面で、気押されてしまうものがある。
「アディンセル伯爵家か。内地の領主がでしゃばった真似をしてくれたものだよ。人の城を強奪しておきながら、新たな国境領主を名乗ろうとは。驚きだね。厚顔ギルバート・アディンセル。嫌な奴だった。あいつはいつも上手く立ちまわって、対比するかのように僕は軽蔑をされ続けた。同じ若い領主というひと括りにされてね、僕はよくあの男の引き立て役をさせられていたよ。あいつはどういうわけか、何をするにも目立ってね……、世渡り上手だ。そのせいで、僕はいわば奴の成功の犠牲者と言っていい。その挙句が、城まで奪い取られるとはお笑いだ。
どいつもこいつも僕が駄目な奴だと愚弄しやがって……。妹までオモチャに……」
「貴方はロベルト・ウィスラーナなのですか?」
僕は近づいて来る彼と対峙する距離を取りながら、警戒してそうたずねた。
「ああ、そうだよ」
彼はそれを認めた。
「僕がロベルトだ。冥界からの思いがけない客人だよ。そして君がここにやって来るのを待っていた。君の間抜けな三流魔術師が飛ばした精霊をわざわざこの場に誘導し、シエラの傍に寄り添いながらね。それが何か?」
「貴方は、この春先に処刑されたのでは……」
「ああ……」
自身がロベルト・ウィスラーナと認めた青年は、足を止め、しばし足許を見て、やがてそれを肯定するような素振りをした。
「確かにね。表向きはそういうことになっているみたいだが、そうじゃない。僕が処刑されたのは、実際には一昨年の秋だ。処刑と言うより、私刑だね。僕は王子の気まぐれな癇癪によって殺されたんだ。
おまえはあいつが表面通りの人間だと思っているなら大間違いだぞ。礼儀正しい美少年だなんて思っているとするなら大間違いだ。あの容姿に騙されるな。奴は躊躇なく人を殺せる神経の持ち主だ。あいつの眼を見たことがあるか?」
ロベルト侯は、注意深く切実に僕に訴えかける。
「あいつの眼を?」
「ええ、まあ……」
「あれは人間の眼ではない。僕は殺される間際に思い知った。獲物を視界に捕らえたときのあの感情なく機械的に人を見透かすあの眼……。憶えておくといい。あいつには人間の心がないんだ。あいつには感情というものがない。恐怖だったよ。人間同士が持ちあわせる最低限の道徳が、通用しないというのは……」
「……」
「己の凶暴性を見られたおかげで、あいつはシエラに永遠に嫌われるはめになったようだが、そんな程度ではあのときの僕の恥辱には見合わないねえ……。
だが老王はようやく生まれた半世紀ぶりの王子を守りたいばかりに、どんな横暴にも目をつぶる。対外的な辻褄をあわせるために、僕がこの春まで生きていることになっていただけだろう。
シエラの様子を見ていれば分からないか? こんなに繊細で心の優しい娘が、ついこの春先に最愛の兄を殺されたと知ったら、とてもこんなふうに落ちついていられないだろう。泣き叫んで食事もできないほどになるだろう。実際には、年月が経っているんだよ。二年という歳月がね……。
アレックス君、おまえも為政者に近い立場にいるなら、この世の中が、大人の社会というものが、どんなに汚く薄汚れているかを薄々感じているはずだ。嘘と誇大と偽善が横行する社会なんだよ。薔薇の王宮はその最たるものだ。この汚い約束事を守れない人間は僕のように淘汰される。汚い大人の一員になれなかった者はね。
優しく美しい心を持つ者、泥を飲み下せず、大人の理屈に従えなかった者は、やがて禁治産者の烙印を押され、一方的に抹殺される。この世界とは、そういうところなのさ」
ロベルト侯は細身の長身を翻して言った。
「僕はこれでも多忙の身でね。以前よりも毎日は充実し、これでもいろいろとやることがある。だからまず今おまえに言いたいのは、こういうことだ。
アレックス・アディンセル、おまえに命じる。おまえは今このときをもって、シエラを花嫁に迎えるんだ」
「えっ……」
ロベルト侯はたたみかける。
「言ったろう。僕にはもうシエラを守ってやれる地位がない。だから、今後はおまえが責任持ってシエラを養うんだ。当り前だろう? 人の領地と城を強奪したんだ。州をまるごと、それに付随する動産と不動産をすべてだよ。これは伯爵家へ嫁ぐ娘の持参金として、十分すぎる内容のはずだ。シエラを妻に迎えて当然だよ」
「それは、言い分としては分かるんですが、でも……」
「シエラは本当ならおまえなんかではもったいないほどの娘だよ。心身清らかで、心優しく、容姿は見ての通りの一級品だ」
「おっしゃることは分かります、でも……」
ロベルト侯は、再び僕に視線を向けた。
「アレックス君。僕が今夜、ここへ何をしに現れたかと言えば――、ひとつには、この話を君に飲ませるためにここへ来たと言っても過言ではないんだ。だから今夜必ずこの話を君に飲ませることをここに確約しよう。
僕は随分情けない男として名前が広がっているみたいだけど、これでも妹のことはすごく心配しているんだ。本当なら侯爵の僕が、おまえに政略的プレッシャーをかけてでもシエラの願いを叶えてやりたいところだが、残念ながら今の僕にはもうそういうことはできない。でもシエラはおまえのことが僕の次に好きらしい……。
シエラはたった一人の僕の可愛い妹だからね。僕によく懐いていた妹だ。僕が侯爵になったとき、シエラはまだ十歳だったからね。何かと僕を頼りにしていた。僕はある意味では、シエラの父親代わりですらあった。
そう、つまり、僕が言いたいことは分かるよね、シエラは特別なんだ。だから、これは是非とも幸せな一生にしてやりたい。でも残念ながら僕ではシエラを花嫁にはしてやれない……、シエラがいちばん好きなのはこの僕のはずだから、ここは苦しいところだけどね。
だからおまえにはウィスラーナ侯爵が振るえるそれとは違う、もっと強烈なプレッシャーを――、与えないと」
ロベルト侯は続けた。
「だからこれは、相談ではなくて、強制にしたい。
おまえはシエラを正妻とすることをたった今この僕に誓約しろ。兄を亡くして不安定なものになったシエラの立場を、今後はおまえが保証するんだ。そして義弟として、今後は僕の命令にも従って貰う。頼むから、これ以上シエラを泣かせないでくれ。可愛い妹の涙は、僕には堪える。
シエラがおまえの妻になるということなら、僕は例外としておまえのことには便宜を図ってやるよ。
おまえが新たなサンセリウス王の許、シエラを妻にしてあの御方に忠誠を誓うと言うなら、シエラがこのホリーホックの女主人として、再びここに暮らすという話なら」




