第293話 蒼月の亡侯爵(1)
空には蒼月が出ていた。
ベンチに腰かけるシエラの前に何処からか現れた男は、僕が知っている中でもかなり整った顔を持った男だった。あれが本当にシエラのお兄様ということなら、それも納得のことなのだが、傍目から見てもかなりの美男だ。
それにしても赤い照明に照らし出されていてなお、彼の肌は蒼白い。彼はシエラと同じ色合いの髪をしているようだ。細身の長身、成人男性としてはかなり線が細い。年齢は見たところ二十代半ばといったところだろうか。シエラのお兄様はシエラよりも確か八歳くらい年上と聞いた憶えがあるから、実年齢は少なくとも今年二十七歳のはずだが。殊の外物憂げな人物だった。
「シエラを放っておけなかった」
青年は囁いた。
「どうしようかと迷ったけど、今夜は冥界の星が強く輝いてね、シエラが悲しんでいるのを見過ごせなくて……。本当は、この場に姿を現すべきではなかったんだけど」
「お兄様は、幽霊……?」
「幽霊じゃないよ」
「では、お兄様は、本物のお兄様……?」
「勿論さ」
「でも、お兄様……、お兄様は、二年も前に死んでしまったはずよ……」
シエラの声には、怯えとも、感激ともつかない多少の震えが混じっていた。
それと同時に僕は思った。シエラは何を言っているのか、ウィスラーナ侯爵は今年の春先に処刑されたのではなかったのか?
「うん……。……」
「それなら、どうして……」
「だってシエラが泣いているから。シエラが泣き叫んでいる声が聞こえたんだ。おまえの深い悲しみが。見過ごせないよ、大事な妹が、泣かされているのに……」
「……」
「でももう泣かなくていい」
青年は身を屈め、ベンチに座るシエラの頭をあやすように優しく撫でた。
「僕はシエラを助けに来たんだ」
「助けに……?」
「そうだよ。大事な妹が、泣いているのを放ってはおけないから……。だからシエラはもう、何も心配は要らないよ」
「私を死者の国に連れて行ってくださるの……?」
シエラは不安な眼差しを青年に向けた。
青年は微笑した。
「まさか。あんな場所におまえを連れて行きはしないよ。シエラは生きていて、こんなに美しいのだから……。
僕はね、あれからいろいろ考えたよ。自分の愚かさのおかげで、おまえの身の上を不安なものにしてしまったことを、何よりも悔やんだ。確かに、僕はおまえを守ってやることができなかった。僕が愚かで、臆病だったせいで」
「お兄様……」
「でも今はもうあの頃の僕ではないんだ。肩を震わせて泣いてばかりいた弱虫のロベルトは死んだ。今ここにいる僕は、そうした過去とは決別した男だ。
ねえシエラ、どうして泣いていたか、僕に話してくれる? 可愛いシエラをそんなに悲しませている者は誰だい?」
シエラはうつむいた。
「僕はシエラには笑顔でいて欲しいんだ。今の僕にはもう侯爵としての権力はないけれど、シエラを苦しめる問題を、一緒に考えて、解決することはできるよ。シエラは決して独りじゃない。僕がいるよ。おまえのお兄様が。
僕はいつでもシエラのすぐ傍にいて、シエラのことを誰よりも愛しているんだ。前にはこんなことをシエラに言ってやる心の余裕さえなかったことを、僕がどれほど悔んだことか、おまえに分かるだろうか。
でも今は可愛い妹を、全力で守りたいと思っている。シエラは決して、独りぼっちではないんだよ。僕がいるんだ」
少しの沈黙と、幼い躊躇いのあと、ぽつりとシエラは言った。
「……シエラはね」
「うん」
「シエラはいつも……、みんなに好かれないの。誰もシエラのことなんて、好きになってくれないの。お友だちができたことがなくて……。子供のときからそうだったけど、大きくなっても変わらなかった。
みんなね、シエラのことが嫌いなんですって。シエラはいつも、何処にいても、みんなの仲間はずれにされるの。もっと仲よくしたいのに、いつも、みんなに嫌われちゃう……」
「シエラ……」
「ねえお兄様……、いつもシエラが嫌われるのは、シエラが悪い子だからなのかしら。シエラが何か、みんなの気を悪くさせるようなことを、しているのよね。
でもシエラはね、みんなと仲よくなりたくて、頑張ってみたり、していたのよ。みんなと仲よしになりたくて、何より好きな人に、シエラを好きになって貰いたくて。
だけどどうしてなの? 他の子なら受け入れて貰えることが、シエラのときだけ拒否されるの。タティさんは我侭を言ってもみんなに好きになって貰えるのに、シエラのことは駄目なんですって。さっきもね、まるでみんなが示し合わせたように、シエラに意地悪をしたわ……。
笑顔を作っても、好きになって貰えるように話しかけても……、私、いつも嫌われちゃう。好きな人に、好きになって貰いたいのに……、だけど駄目なの。いつも駄目なの。自分の何がいけないのかが、もうっ……、分からないのっ……」
そしてシエラは感情を吐露するように、声を上げて泣き出した。
ロベルト侯と思しき青年は、当惑した様子でしばらくシエラを見下ろしていた。僕は、シエラがまさかそんなふうに感じていたなんて、この時点まで考えてもみないことで、彼女の発言には身につまされるものを感じていた。まるっきり、僕と同じだったからだ。疎外感と寂しさ、それにどうしても仲間に入れて貰えない劣等感……、シエラのような容姿に恵まれた女の人生には、もっとも無縁であろうと思われるそれらの感情を、シエラもまた、抱えていた。
「……シエラを好きにならないみんなは、それだけの人間ということだよ」
やがて青年は言った。
「可哀想に、シエラは僕と同じだったんだね。上手く周りとつきあえなくて……、僕もそのことをずっと悩んでいたよ。ずっと自分は社会不適合者だと……」
青年はシエラの頭を撫でた。
「孤独だった。いつも」
青年は息を吐いた。
「この世知辛い世の中を、味方がいなくて生きて行くのは、どれほどつらいことだろう。ましてや、家族がいなくて生きて行くのは……。
ごめんよシエラ、僕が不甲斐なかったばっかりに……」
「いいえ、いいえ、お兄様のせいではありません。お兄様は、ずっとずっと頑張っていらっしゃったわ。誰も分かってくれなくても、シエラはずっと見ていたわ。
それにシエラもいけなかったんです。きっとシエラにも、悪いところがあったから……。だからアレックス様は、シエラを好きになってくれなかったの……」
「アレックス……」
青年は呟いた。
「アレックス、それは確か……。アレックス・アディンセル、確かそうだね。アディンセル伯爵家の人間だね。このランベリーを強奪した」
「シエラの好きな人よ……」
シエラは囁いた。
「でももう、駄目かもしれません」
シエラは哀しげに肩を落とした。
「今度こそ、もう駄目かも。だって、彼はタティさんしか見ていないもの。タティさんには私、全然敵わない。
……、可愛いお嫁さんになるのが私の小さい頃からの夢だったわ。アレックス様に出会って、本当に運命を感じたのよ。運命の赤い糸で結ばれた王子様に遂に出会ったって。二人で過ごした時間は幸せだったわ。胸がドキドキして、「ああ、私生きてる」って感じたの。
優しくて、ちょっと頼りなくて、本当に光のお姫様の王子様みたいなのよ。私ね、二人の幸せな未来をたくさん想像だってしたの。
きっとアレックス様のお嫁さんになれると信じていたのに……」
シエラの声が涙で震えた。
「タティさんは、私こそが彼の運命の恋人だと分かっているはずなのに、どうしてこんなに残酷なことができるの……?
ねえお兄様、どうして残酷な人ばかり、簡単に幸せを掴むことができるの……?
タティさんにはね、ちゃんと家族がいるの。お父様もお母様も、お祖父様もお祖母様もいるんですって。お兄様もお元気でいるそうよ。それに彼女にはお友だちもいるのよ。一緒にお話をしたり、笑ったり、彼女のために親身になってくれるお友だちも……。
それなのに、どうしてアレックス様まで私から奪おうとするのかしら。どうして彼女はそんなに欲張りなの?
私にはアレックス様しかいないのに。私にはアレックス様しかいないのにっ……。
どうしてこんなに私を苦しめるのかしら。そんなにシエラが憎いのかしらっ……」
シエラはこぼれる涙を手で拭った。
「お兄様、私ね、今日はお昼を食べる前に家出して来たのよ。アレックス様に、いつもタティさんにしているみたいに、ちょっとでもいいからシエラのことも気にかけて、心配して欲しかったの。でも……、この通りよ。シエラのことなんて、彼は夜になってもほったらかし。
私、いつも元気でいるように努めていたけれど、お兄様、私の心はもう、本当は折れてしまいそうよ……。いつかお母様はおっしゃっていたわ。女の子は愛されて、望まれて結婚しなければ不幸になるって。ねえお兄様、それはきっと、こういうことだったのね。男の人に愛されていなければ、女は悲しい思いをして、そればかりか簡単に帰る場所さえなくなってしまうって、そういうことだったのね……」
シエラの声が再び涙ににじんだ。
「生きていても、何にもいいことなんてなかったわ……」
蒼白い青年を見上げて、シエラは悲しく言った。
「もう独りぼっちは嫌なの。シエラを一緒に連れて行って。お兄様と一緒に……」




