第290話 疑惑の話(3)
ただ栄養失調にしては元気もあるし血色も悪くないのだが……、しかし極端な話、スラム街などでは、十代後半でも十歳くらいにしか見えないような浮浪児たちがいるのは事実なのだ。彼らは極度の貧困のために、満足な食事が取れず、生命を維持することに乏しい栄養を使い果たしてしまうためにとても成長にまで栄養がまわらず、幼いままの姿で成長が止まってしまうらしい。もし、ハリエットにもそうしたことがあるなら、まだ成長期が完全に終わってしまわないうちに、僕からダグラスに口添えをしてやろうかというそういう老婆心からだ。
ハリエットは確かに生意気だが、あのまま成人するはめになるとすると、少々可哀想なことになる。せっかくブロンドなんだし、父親も美形なんだから、成長したらたぶんそれなりにはなるだろうし。
すると、話の流れで案内の男はしたり顔で頷きながら、予想していたよりもずっと露骨な話をしだした。
「それは、今の奥様のせいですよ。彼女はハリエット様の食事をわざと出さないそうですから。典型的な継子虐めですよ。ハリエット様が小さいのはそのせいでしょう」
彼はかなり憤慨した様子でそう言い切った。
「その話って、事実なのか? 食事をあげないって」
まさか仕えている主の細君の悪口を、従者が堂々と吹聴するとは思わなかった僕は、少々面食らう。だが彼は続けた。
「事実も何も、ハリエット様の成長が止まってしまったのは、うちの男爵様が再婚した辺りからだっていうのは専らですよ。これでは誰だって、継母の悪意を疑わざるを得ない。皆言っていますよ。ハリエット様が未だにあんなに幼く見えるのは、ろくに食事をさせて貰えないせいだって。それに、ハリエット様の母上だって似たような死に方してるんです」
「似たような死に方?」
「餓死されていますよ。ご存知のように表向きの発表は病死にされていますけど、裕福な男爵家の奥方様がいったいどうやったら餓死できるって言うんでしょうか? 厨房や食糧庫には食べ物があふれているのにいったいどうやって?
でも実際に亡骸の搬送に立ちあった屋敷仕えの侍女たちの話によれば、確かに餓死ですって。まだ二十代だったのに無惨に痩せ細って、ブロンド以外には骨と皮しかなかったって言うんだから酷い話でしょう。
これは、二人の交際を嗅ぎつけた前の奥様を、今の奥様が部屋に閉じ込めて、食事をやらなかったんだろうって話です。何故かって、実際に長い間、前の奥様が部屋から外に出られないように、ドアの外側から鍵が取りつけられていたそうですよ。前の奥様は、監禁されていたんです。おまけに男爵様は前の奥様がまだ生きていらっしゃる頃から、今の奥様と交際があったと言われていますしね。その証拠に、傍若無人にも今の奥様は、それ以前から堂々と本宅屋敷に遊びに来ていた。再婚したくて前妻を謀殺するって話、ときどきあるじゃないですか」
僕は驚いて首を振った。
「それ、てっきりハリエットが誇張した話だと思ってたよ。でも子供のときの記憶なんてあてにならないから。主観だけで言ってると思ってたんだけど」
「そうはおっしゃいますけど、残念ながら目撃証言や状況証拠があまりにもそろいすぎているんです。私も最初はこんな話、単なるハンサムな男爵様の再婚に反発する、女たちの噂話程度に受け止めていたんですが。しかしハリエットお嬢様の成長が止まり始めると、もはや誰も謀殺説を信じないわけにはいかなくなった。何せ手口が一緒なんですから」
「じゃあ、ダグラスの再婚に纏わる話は、だいたい全部本当のことなのか……」
「間違いありません。これはお屋敷付きの人間の総意ですので」
案内の男は胸を叩いた。
「でもそれなら何故ダグラスは黙って問題を放置しているんだ。彼はそんな人間じゃないだろう?」
「屋敷の使用人のほとんどが未だにこうして前の奥様を慕っているとなれば、男爵様が夫として何かと新しい妻に肩入れしたい心情は、誰しも理解できますよ。男爵様が我々の話を取りあわない心情は理解できる。
しかし人間心理として、男爵様が必死になって今の奥様を庇えば庇うほど、守れば守るほど、我々使用人以下は皆頑なに前の奥様とハリエット様に同情を寄せずにはいられないんです。
純朴でも出自がよくなくても、前の奥様のほうが私たちは遥かに好きだった。確かに今の奥様のほうが血筋も教養もよろしいでしょう。前の奥様は実家が弱くて、彼女の父親はカティス男爵家の集まりに足を運ぶことすら敬遠されていたそうです。自分が顔を出せば、男爵家に嫁いだ娘に恥を掻かせることになるからと言って。前の奥様はそういう慎み深いご家族に育てられた慎み深い方だった。だからこそ使用人一同は、自分らの身の上と重ね合わせて共感をせずにはいられなかったのです。報われない自分やその親を思い出して泣かずにはいられなかった。あのお可哀想な方を、そう簡単に裏切ることなどできません。ご大層に直轄領生まれだか何だか知りませんが、鳴り物入りでやって来たしたたかな女の成功劇を、祝福する薄情者はカティス家にはおりません」
それから、話を先刻のカティス家の前の当主の話に戻した。
「カティス家には昔、ルイーズが世話になったってね。さっき何処まで話したっけ。そう、ルイーズをダグラスの細君にという案もあったって?」
「ええ。しかし当時、他でもない前男爵様がそれは駄目だとおっしゃられたんですって。これからサンセリウス国内は荒れることになる。その荒廃の世に備えて、彼女が生まれ持った才覚を最大限活かす意味でも、ルイーズは家庭を持たず、伯爵様だけに集中したほうがよいと。コネリー・カティス様と言えば星読みに才あり。そしてその忠誠心から当家の利益よりも、主君たるを優先するを進言されたのです」
一転して、彼は誇らしげに語った。
「国内が荒れるってどういうこと? 王位交代ってこと?」
「国王陛下の年齢的に、それは当然視野にはあったと思いますけど。詳しくは私どもには。ただ生前コネリー様がおっしゃられた別の予言では、せっかくの世継ぎの王子は、短命のさだめを持つ病弱者であり、此れ長生きされぬであろうと。それ以後の、王位を巡る戦乱をお話しくださいました……」
「えっ、短命? 戦乱??」
「ご安心ください。どういうわけか、この予言は既にはずれたのです。コネリー様ともあろうお方が、これに関しては拍子抜けするほどにすっかり未来予測をはずされたのです。
その星読みでは……、ちょうど今時分の時代のことを読まれたと思うのですが、若き王子は十代半ばには寝室で過ごす時間が多くなり、成人して間もなくのうちに夭折され、その亡き後、国王陛下もまた追ってその寿命を終えられることとなると。そして陛下の甥であるウィシャート公爵と、王子の舅であるアークランド公爵が、いよいよ王位を賭けて因縁の最終対決をするというものだったのです。
世襲国家は何処も血で血を洗う歴史が繰り返されておりますが、そこでの争点は、新婚だった王子殿下のお妃の懐妊です。薨去された王子の御子が妃の腹に宿っており、御子が男子ならばすべての権益は向こう十八年間摂政アークランド公のものとなり、女子ならば王位継承順位から言ってウィシャート公爵の天下となるという状況を、コネリー様は読まれたのです。
しかも両公爵にとっては、これは年齢的に晩年となる時期、即ち人生の集大成として栄華を極めるかどうかということになりましょう。ところがどうも腹の御子の性別が男子であるということが複数の魔術師たちによって判明し、それに怒ったウィシャート公爵が、巻き起こした覇権戦争なのだそうです」
「えっ、覇権戦争!? そんなのどう解釈したらいいんだ? それでどうなった??」
そこで僕は、はっとして言った。それまでは少しぼんやりして耳を傾けていたところに、覇権戦争なんて物騒な言葉が出てきたものだから。
「血みどろの王族同士の殺し合いの末、この内乱の勝利者はからくもウィシャート公爵だそうです。が、彼もまた戴冠に辿り着く直前に、反対勢力の報復の凶刃によって倒れることとなり、その息子が漁夫の利的に二十代の若さで第三七代サンセリウス王となります……。
しかしご存知のように、実際には王子殿下が成人される以前に、ウィシャート公爵家自体が存在しなくなってしまいましたのでね。あのときは、我々一門は心底胸を撫で下ろしたものです。そしてコネリー様の予測と異なり、若き王子殿下は寝込んで動けないどころか、来たる青年期に向かって隆盛の坂を駆け上がる勢い。この予言が実現することはもはやないでしょう。
もしかするとこの予言の未来は確かに存在していたものの、ある時点で某かの運命を変える出来事があって――、それまで予定されていた未来ががらっと変更されたのか……などと夢みたいなことを疑いたくなってしまうほどにね。まあ、これは私の空想に過ぎず、そんなはずはないですけど」
「予定されていた未来が変わった……? それほどまでに……?」
僕は、少し視線を泳がせながら言った。
他でもないこの僕がゴーシュの導きで過去に戻り、そしてアレクシスを助けたことが思い出されたのだ。アレクシスを助け、代わりにトバイアの細君とその手下を銃殺した。
あれによって、まさか未来がそこまで変更したというのか……?
「ええ。それほどに、コネリー・カティス様としては考えられない盛大なはずしっぷりだったそうですよ。この件において予言と現実が合致したのは、アークランド公女が王子殿下の妃になりそうだという点くらいのものですから。これだけは情勢を見る限りコネリー様の星読みの通りになりそうですが、やはり最晩年近くの予知でしたので、いかな彗眼コネリー・カティス様といえど、老いによりその精度が落ちてしまわれたのでしょう。したがって、今となってはこれは単なる余興話です」
「何だか分からないけど、そんな話ははずれてよかったよ……。
でもトバイアがいきなり暗殺されるところとか、史実と重なっている部分があるのは気になるけど……。
それともあいつはどう転ぼうとも結局そういう運命ってことなのか……?
とにかくオーウェル公子みたいな根性悪が国王になろうものなら、この国は普通に酷いことになるところだったからよかったよ……」
「おお、かの悪名高きウィシャート公爵家の公子様を、直接ご存知なのですか。これはお顔が広い。さすがは弟君様です」
「まあね、僕は男らしいからね……」




