第286話 哀愁都市(2)
「あいつはね、本心ではいつだって自分だけが可愛いとんでもない女なのよ。シエラとまったく同じ! 欲しい物は殺してでも奪い取るってメンタリティ!
それを、そんな輩に嫉妬しているだなんて、幾ら何でもわたしに対して失礼にもほどがあるわ。もしお父様がわたしが怒っていると感じているとしたら、それはご自分の罪悪感がそうさせているのよ。この再婚がわたしにとってすごく酷いことになってるって、本当は分かっているから!
わたしが嫉妬してるなんて、勝手に決めつけないで。ご迷惑になるなら、だったら説教より話を進めてよ。この脱線話こそご迷惑そのものじゃない」
ハリエットが捲し立て、ダグラスは首を振った。
「そうだね、分かった。その話は、またの機会に家で話そう。今度はお母さんも交えて。ただひとつだけ、おまえに言っておきたいことがある。
ハリエットはさすがに、お母さんを悪く取り過ぎだ。確かに、二人の気が合わないことは知っているよ。だけどおまえのお母さんに対する態度の悪さは見過ごせないよ。お母さんのことをそんなふうに外で吹聴していることも感心しない。他所の人がそれを聞いたらなんて思うか考えていないんだ。お母さんは、おまえが言うほど意地悪な女じゃないよ。ただ、お母さんはハリエットみたいな大きい子の母親をやったことがないから、どう接していいのか分からないと言っているよ。赤ちゃんから育てた子ではないから、いきなりティーンエイジャーのお母さんにはなれないんだよ」
「そんな言葉を真に受けるの!? 前妻の面影があるわたしがお父様の近くにいることが許せないって、それが本心に決まっているじゃない!
あいつが優しい女ぶってるのは、上っ面だけよ! でも本性はすぐにヒステリーを起こすし、わたしはあいつに屋敷から出て行けって言われて、窓から服や靴を放り投げられたことだって、一度や二度じゃないのよっ!」
「お母さんがそんなことをするはずがないだろう。それでなくてもおまえの気が強すぎて、困り果てているのに」
「どうしてわたしばかり悪者にされるの!?
どうして継母の言い分は信じるのに、わたしの言い分だけ信じてくれないの!?」
僕は、親子喧嘩が始まったのをきっかけに執務室内を見まわした。話が本当ならハリエットの言いたいことは分からないではないが、事情すらよく分からない僕が口を挿むべきことではないだろう。しばらく待たされるであろう間、暇潰しになりそうなものはないかと思ったのだ。
口論が始まった途端、執務室にいた召使い女たちのほとんどが、次々居心地悪そうに退散していく。理由は明確には分からないが、もし僕に年上の気に入った美人がいたとして、彼女が子供を連れているところをうっかり見てしまったら、たぶんがっくりテンションが下がるだろうとは思った。
「なあなあカイト君、思ったんだけど、お坊ちゃま君とダグラス様って似てると思わん? 穏便に済まそうとして余計に怒らせたり、何かあのどっちつかずの性格とか」
「まあ言われてみれば、そんなところもあるでしょうかね」
「何だ、どうでもいいって態度だな。頭の中がシエラ様でいっぱいか?」
室内には壁の燭台やランプの灯りが輝き、ありとあらゆる上等な調度品が並んでいた。しかもそれらのほとんどは新調されたばかりの物のようなので、アディンセル家が新たに運び込んだ品々であると分かる。部屋にはアディンセル家の紋章こそまだ掲げられてはいないが、ウィスラーナ家が使用していた時代の執務室とは、既にすっかり様子の一変がなされているだろう。だからここにはもう、ウィスラーナ侯爵家の物は何も残っていないだろうと思っていたのだが、隅の壁のところに、割と大きめの家族の肖像画が立てかけてあるのをみつけて目をとめた。
これから廃棄するつもりなのか、それとも歴史学的な価値を考えて、宝物庫の美術品の中にでも放り込んでおくつもりなのかもしれない。
それは幸せな家族の肖像だった。古めかしい威厳さえ窺える一枚だった。睦まじそうな夫婦の両脇に男女の子供が一人ずつ、上品な服を着て澄まし顔でいる。父親は精悍で力強さがあり、母親は淑やかだ。そして母親は腕に赤ん坊を抱いている。
「あれってシエラの家族かな?」
僕が指差すと、カイトがおもむろに肖像画に近づいて、しばらくそれを眺め、やがて僕のところに戻って来た。
「そのようですな。ウィリアム侯とそのご家族のようです。赤ん坊がシエラ様で、ご両親と、それに小さい子供たちがお兄様とお姉様ですね」
「滅びゆく家族の肖像か。せつねー」
オニールが、本気とも、厭味とも取れない調子で感想を述べる。
「あの絵を描かせたときには、まさか二十年後にこんなことになるとは誰も思っていなかったんだろうな。ウィスラーナ家が没落の挙句、長男の処刑なんて想像もしてなかっただろう。シエラたんの姉上は年まわりからして、閣下と政略結婚もありだったかもしれないぞ。能力、資質の意味でも、彼女なら閣下の嫁に丁度よかったのに」
「そう言えば、シエラのお姉様はどうなっているんだ? 結婚したお姉様」
僕が言うと、オニールが不審そうな顔をして僕を見た。
「何言ってんだ? 結婚なんかしてない」
「えっ、どういう意味?」
「どういう意味も何も、結婚してないって意味だよ。寧ろなんで結婚したなんて思ってんだよ。誰と結婚したんだって?」
「それは、知らないけど、だってシエラがそう言ってたんだ」
「何かの間違いだろ。彼女は結婚なんかしてない。お姫様の姉上は、単にみつからないだけだよ」
「みつからない?」
「消息不明。そもそもが城にいなかったんだよ。だからウィスラーナ家の没落崩壊を前に一足早く逃げたか、でも評判的にはウィスラーナ家の三兄妹の中で、彼女は唯一出来のいい娘って感じのようだし、果たして年の離れた妹を置いて自分だけ逃げるかなって考えると、どっかの時点で死んでる可能性が高いっていうのが現在の大多数の見解。まあ今更ウィスラーナ家の娘の安否なんて、どうでもいいことだが。男ならウィスラーナ家の男系男子だ、捜索してでも始末する必要があるけどな」
「でもシエラは結婚したと確かに言っていたんだよ。お姉様は遠くにお嫁に行ったから会えないって」
「だから何処の男に嫁いだか具体的に聞いたのか?」
「いや、でも確かに言ってたんだけど……」
「それじゃあおまえ、あしらわれたんだよ」
オニールが、不意に意地の悪い表情をしたかと思うと、僕を鼻で笑った。
「あしらわれたって?」
「そう。言い寄って来る信用の置けない異性には、適当なこと言って誤魔化したりお茶を濁してあしらうなんて、よくあることだろ?
彼女にとって、おまえはとてもじゃないけど家族のことを話せるに値しない相手ってことだったんじゃねーかな。
つまりお姉様はお嫁に行ったっていうのは、お姫様のおまえに対する真のメッセージだよ。くだらない男はうせろってね」
「そんなことないよ。だって、シエラは僕を好きだって言ったよ。それに僕が言い寄ったんじゃない。シエラが僕に言い寄ったんだ」
「知らねーよ。とにかくお姉様は結婚してない。結婚証明書もないし、証人もいなければ、結婚相手自体もおらず、ウィスラーナ家に籍もある」
「じゃあきっと、駆け落ちとかしたのかな。でもシエラが僕が好きっていうのは本当だと思うよ。だって、僕以外の男にはあんなふうに腕とか」
「しつけーぞ。うせろ」
そのとき、すぐ横で展開されていたダグラスとハリエットの口論が、ひと段落ついたのが分かった。
ダグラスが疲れた様子で僕に向き直る。
「……申し訳ありません。それで先ほどの続きですが、とにかくシエラ様が地面に沈んだ後のことは、私としても分からないのです。だからアレックス様には消息不明と申し上げるより他にありません」
「そうか……」
まるで聞く意味のない話の続きに、僕は消沈して頷いた。
「君たち親子は非常に有能で有難いよ」
「つまりシエラが地中に消えた後、すぐに精霊を放って追跡しなかったのね。当直で来ているのに緊張感がたりないんじゃない? 魔術師失格だわ!」
ハリエットはまだ声を荒らげた。
「女を見る目もない!」
彼女は目に見えて憤慨しており、怒りに任せてもっと父親の不手際を批判したそうだったが、それ以上の口論は僕が止めておいた。ダグラスはそこまで抜けている人物ではないと思ったし、彼の表情を見ていて何となく、娘よりも自分の能力が低いことを娘の前で披露させられることを拒んでいるようにも思えたのだ。恐らく、彼にはそれができなかったのだろう。しなかったのではなく。
「でもよ、伝達関係はその性質上風の精霊だよな。でも地面の中に沈んだんじゃ、土の中で風の精霊って機能しないんじゃねーの?」
オニールが結果としてダグラスへの助け船を出す形となった。
「それなら地の精霊を使役するのよ。状況によって臨機応変に。騎士が剣と体力で戦うのなら、本業魔術師は魔力と頭脳で戦うのよ」
しかしあっさりハリエットに反論され、やっぱりあんまり助け船になっていなかった。
「私は地の精霊との契約は弱いんだ。私の要請では動いてくれなかったのです」
最終的にダグラスが己の実力を潔く白状し、僕に頭を下げた。
「その後、私の直属の配下の者たちにも、魔術を用いる幾つかのアプローチを行わせましたが、行方は分からず」
僕は、じっと靴の先をみつめた。
そうしていると、オニールごときにうせろと言われたことに頭に来ていたのに、咄嗟に言い返せなかった怒りと悔しさが、じわじわと湧いて来る。
どうして僕はいっつもこういう扱いをされるんだろう。兄さん相手なら、誰もそんなこと言わないのに。僕が甘いと思って、軽く見る奴が多すぎるのだ。
「それで、アレックス様のご意見は? こんなときに、ぼけっとしないでくださいね」
ハリエットが、僕が困っていたのに空気を読まずに僕を急かした。




