第280話 休息を全力で荒らす者たち(2)
「さて、こうしてお膳立てをしてやるんだ。もう逃げらんねーぞヴァレリア。おまえがこういうことを拒んでいるから、男の気持ちは余計に他所に行っちゃうってのもあるんだよ」
「ふんっ、そんなの知らないわよ」
「とにかく今日こそやって帰れ。いつかはやんなきゃいけないんだから。
そりゃあおまえの理想とする超ハイレベルな男そのままとはいかないけど、剣術にかけてはコイツだっていい線いってるよ。世界最強とはいかなくても、赤楓騎士団に比肩する奴はいないよ。閣下が溺愛するお坊ちゃま君のボディガードは納得の任務。あんま褒めたくないけど天賦の才ってやつを持ってるよ。その点だけは自慢できる男だろ。剣術の腕についてだけは尊敬だってできるはずだ」
「確かに……、わたくしカイトの剣の才能だけは認めていてよ。それだけは。そこを否定した覚えはないわ。もしわたくしが男なら、こんなくだらない男になど少しも遅れを取りはしなかったでしょうけど。
でもせっかくの剣の才能も所詮は権力者に使われるだけのものでしかない。戦乱の世でもなければ、所詮社会的に強みのある能力ではないわ。それを、それだけで尊敬しろと言われても。男に生まれれば身体能力は高くて当然のことだし、男性様を無条件で崇めろという話と同じで到底納得できないのよ。女は命懸けで子供を産んでもそれが当たり前の扱いなのに、何故男ばかりが男の特質によってこうまでもいろいろと評価されるのか」
「だーっ、その議論は今はいいの。これは男に対する思いやりがあるかどうかの問題で、好きな男に対してこいつ程度じゃみっともない、格好悪いと不満に思ってるようじゃ、おまえはまだまだ考えが幼いってことだよ」
「いいえ、プライドの問題よ」
「うるせー、ごちゃごちゃ言わずにとにかく好きならキスくらいしろっ。おまえらはごく簡単なことにいつまでもいつまでもいつまでも足踏みしまくってて、こっちはまどろっこしくて見てらんねーんだよ」
ヴァレリアの隣に腰かけていたハリエットが、いつになく心許ない態度で僕に確認する。
「ま、待って。この話の流れは冗談抜きで、本当にキスするってこと?
でも、そういうのって、他の人は、見ててもいいものなんですか……?」
すると僕が答えるより前に、オニールが親指を突き出して微笑む。
「いいよ。興味があるなら後学のために見ておけばいい。ほらヴァレリア、お嬢ちゃんもキスを見たいってよ。もうさっさとやっちゃおうぜ。お坊ちゃま君も早く来い、カイト君取り押さえるから。眼鏡といちゃつくのは後にしろよ、おまえらのいちゃつきなんかどうせ誰にも需要ないんだからよ。もたもたしてんじゃねーぞ」
それで僕は、食べかけのパンをタティに預け、のろのろと立ち上がった。そしてオニールの指示通り、カイトに近づく。
カイトには、いろいろとたずねたいことがないわけではなかったが、変なことを聞いても彼はきっと言わないだろうと思ったので、僕は黙っていた。カイトはいつも通りあんまり表情はないが、この展開には、内心動揺しているのは何となく分かる。
それ以前に、僕にはそろそろこうした集団行動が苦痛になってきているのだが……。僕はいつも友だちが欲しいと思っていたが、実際問題こんな大人数でごちゃごちゃ過ごす機会に遭遇してしまうと、かなりストレスを感じる質でもあり、友だちは欲しいけど用がないときは離れていて欲しいという矛盾に気づいて逡巡とした。実際のところ、僕は友だちなんかたくさんいても面倒なだけなんじゃないかとさえ思うからだ。
「いいね、何か他人事ながらワクワクして来たぜ」
お節介オニールがカイトの腕に手をかけたので、僕も同じように反対側からカイトの腕を組んで押さえた。
「まあこんなんで本気で拘束するわけないけど、一応便宜上な。ヴァレリアの奴がびびってるからさ。でもあいつ、内心喜んでるよ。つべこべ言っているけど、本当はおまえとキスしたくてしょうがないんだから。カイト君はさすがにキスくらいしたことあるんだろ?」
オニールが笑顔でカイトの肩を叩き、ヴァレリアを急かした。
「来いよヴァレリア、こっちは準備いいぞ!」
すると倒木に座っていたヴァレリアが、恐る恐るといった態度で立ち上がった。そして、また普段の彼女とは思えない何とも心許ない様子で、こちらを窺う。長い黒髪が風に揺れ、彼女の視線の先には、僕たちに拘束されたカイトがいる。
やがてヴァレリアはゆっくりと僕らの前まで歩いて来た。側に来た彼女は、明らかに狼狽を隠せず、その証拠に手には飲みかけのカップを持ったままである。彼女は強気であるかと思えば、次にはこのように途端に娘らしい態度になったりと、僕に言わせれば案外可愛い性格をしているんじゃないかとすら思える瞬間があるのだが、本当のところはどうなのだろう。
ヴァレリアの背後にはハリエットがこっそりついて来ている。この十六歳の少女は、日頃分かったような口を聞いているが、恋愛的好奇心に負けたらしい。
「あははは、馬鹿だなヴァレリア、そんな深刻な顔するなって。キスなんてそんな大したもんじゃないんだって」
オニールが真面目半分、からかい半分の調子で側に来たヴァレリアの顔を覗き込む。鬱陶しい彼の長髪が顔にかかると、彼はそれを耳にかけた。本日も自称イケメンの自己主張甚だしいピアスが耳元で揺れ、ヴァレリアはうつむいたまま答えない。
「あーあー、世話が焼けるなー。まあよ、やっぱヴァレリアはそういう奴だよな。本当は恋する乙女なんだよ。だったら日頃から可愛げのある態度を取っていればいいのに。
よし、じゃあここは男らしくカイト君から一発やってやれな。それでさっきの件は全部帳消し、仲直りってことで」
キスをするのに一発という表現は、いかがなものかと僕は思ったのだが、女のいる前でそれを言うのもあれなので黙っておいた。
そしてオニールはカイトの腕を強引に引っ張り、二人の距離を調整するようにヴァレリアの間近に立たせた。しかしながらカイトがなかなかキスしようとは動かない。それで痺れを切らしたオニールが、カイトの背中をばしっと叩くと、腕を引いて小声で囁いた。
「おいこら、こういうときに男が積極的にならないでどうするよ。何突っ立ってんだ、もっと嬉しそうにしろ。ヴァレリアが傷つくだろ。ったく、往生際の悪いヤツだ。
男爵様にさっきのことを執り成して欲しければ、ここはヴァレリアにキスしてやれ。朝から廊下であんな大騒ぎ、挙句にドロップキックだ。今回の事件はヴァレリアの父上の耳にもすぐ入るだろう。そうなれば大変だ。おまえがヴァレリアよりシエラたんを庇ったことが、すっかりヴァレリアの父上にばれてしまうんだぞ。
だが、ここで僕の言うことを素直に聞けばだ、僕がおまえにはまったく非がないように、ヴァレリアの父上に上手いこと話してやるからさ。取引しよう。悪い話じゃない」
「……取引?」
「そうさ。頭ごなしに激昂されて殴られることを思ったら、キスくらい安いもんだろ? 変なプライドを張るなよ。政略結婚でも何でも、いずれにしろ夫婦関係は円滑なほうがいい。おまえもいっぱしに野心があるなら、有利になるほうを取れ。計算しろ、ヴァレリアを物にすれば実益がある。それもおまえみたいな平民上がりにとっては夢のような実益が」
「分かりました。乗りましょう」
「いい返事だ」
僕は、こういう本人同士の意思でないやり方はどうなのかと思いつつも、この二人がまさかキスをするという事態に遭遇したとなればやはり好奇心が先だったし、ちょっとドキドキしてきたので、ここは紳士として、このまま見守ることにした。
「……お嬢様、失礼しますよ」
それでカイトが意を決したようにしてうつむいているヴァレリアにぎこちなく顔を近づけ、僕とオニール、それにヴァレリアの後ろにいて自分のブロンドを指に巻きつけていたハリエットは、各々が興味津々でその接触の瞬間を是非とも見てやろうと凝視する。
やがてヴァレリアがいよいよ恥じらって、顔を上げる。そして燃えるような熱い視線でカイトをみつめたかと思いきやパンチが――!? カイトの顔面に炸裂した……。
カイトが鼻を押さえて上体をのけ反らせる。かと思えば、僕には素早くカップの中のハーブティーがかけられたので僕は落ち込んだ。お茶はぬるかったが、そのせいで僕の服が濡れてしまったので。そして見ると、今まさにヴァレリアが空になったカップをカイトに思い切り投げつけてしかもそれを命中させ、同時に逃げようとするオニールに蹴りを加えているところだった。
手練の戦闘員もさながらの、何という迅速なる連続攻撃であろうか――。
ヴァレリアが逃げるオニールを追いかけて行った後、カイトが落ちついた様子で、無言で服を摘まんでいる。投げつけられ、砕けたカップの鋭いかけらが服についたのだろう。カイトの足許には、カップだったものの白い残骸が無惨に落ちている。この程度の仕打ちには昔から慣れているとみえて、特に動じる様子がないことに僕が驚かされた。
「ぎゃあー! おまえせっかくのラブシーンがっ、これじゃ全部台無しじゃねーか、痛ええー! 乱暴すぎるだろー!」
そこら辺を走って逃げながらオニールが叫ぶ。
「何がッ……、聞こえているのよ、何が実益を取れよ、人を馬鹿にしてッ、ふざけるんじゃないわよーッ!!」
ヴァレリアは女で、しかもドレスの裾をたくし上げるというハンディがあるのに、走る速さがオニールに差を開けられないというすごい光景が目の前に展開されていた。彼女は間違いなく運動能力が高いのだ。少なくともオニールと同等の瞬発力とスピードが出せている。こうなると、ヴァレリアの剣術の腕前も、女だからと甘く考えていい代物ではなく、案外確かなものなのかもしれない。
「馬鹿、僕はおまえのためを思ってだなあ。僕はいつだってヴァレリアの味方だよ。だけどあれはさ、あの馬鹿野郎を納得させるための誘導じゃんか。男ってのはな、物理的接触が、物を言うんだよおーっ」
「こんなことしてくれても嬉しくも何ともないのよッ!
カイトに少しでも媚びるくらいなら、わたくし永遠に仮面夫婦で全然結構よッ!」
「痛いって、わーんっ、ごめんなさいごめんなさいっ、僕ちんが悪かったですうううっ」
やがて逃げ惑うオニールを追いまわして尻を気が済むまで蹴った後、その怒りは次には当然のようにカイトにも向けられる。ヴァレリアは戻って来るなりカイトの頬を更に平手でパァンと殴り、怒鳴りつけた。
「シエラが好きだと言ったその舌の根も乾かないうちに、何を調子こいて本当にしようとしているのよこの男娼ッ!!
いったい何を考えているのよっ!? あのクソビッチが好きなくせに、なんでわたくしにキスしようなんて気になれるのよっ……!?
この淫乱ドスケベッ!! このわたくしをおまえのくだらない人生の利益のために利用しようなんて、絶対にさせませんからねえッ!!
この薄汚い野良犬ッ!! 下品で不潔な裏切り者のこの便所虫ッ!!
薄汚い賤民のおまえになんか、汚らわしいおまえになんかキスされるくらいならねえッ、伯爵様としたほうが何千億倍もマシなのよッ!!」
「そりゃ誰しもそうだろうて。僕でもそうだぞ。いや、どうかな……、僕はやっぱどっちも避けておきたいかな。男とキスとかマジ勘弁。男とキスできるおまえら女の気が知れないぜ。頭おかしいのかなって思う」
すると悪びれる様子もなくとことこ戻って来たオニールが、適当な調子で性懲りもなく要らないことを言った。
「これだから男はクズだと言うのよねッ!!
わたくしのファーストキスをこんなどうしようもないシチュエーションで笑い者にして消費させようとしてっ……、おまえたち三人とも、もう許さないッ!! タダじゃおかないからッ!!」
「えっ? 僕も? 僕も許されないのか?」
僕は動揺した。
「当たり前じゃないのッ、こんな清らかな処女に、こんな軽々しくて安っぽくてムードのかけらもないキスをさせようなんてッ……!!
こんな無礼なことが許されるわけないでしょうッ!!!」
挙句午後からは「やっぱりこれ退屈だから」というヴァレリアの独断により、一転してサウスメープル市でショッピングをするという、何ともあれな一日となった。
ちなみにカイトとヴァレリアの険悪な状態はそこでも続いていて、ヴァレリアは罰と称して終日カイトだけに僕らのバスケットや買い物袋などを含む山のような荷物を全部持たせ、荷物に埋もれて前も見えないような状態でよたよた道を歩かせるなど、本当に奴隷一歩手前の扱いをしていた。が、それについては事情が分かっているだけに、誰も口を挿めなかった。
今朝のことについては、意外なことだがカイトのほうが悪かったと僕は思うのだ。婚約していながら他所の美しい女にうつつを抜かす、まあここまでは、同じ男として僕としても擁護のしようがあるわけだが――、皆の前で露骨にシエラだけ庇ってみせたのはいただけない。あれはヴァレリアが不憫だった。あれが僕なら、両方の機嫌を満遍なく取ったところだし、最悪でも後からヴァレリアにもフォローを入れる。さっきのは方便だ、君がいちばん好きだよと、せっせとご機嫌取りもするものだ。
だがカイトはそんなことはしようともせず、ほぼヴァレリアを拒否し続けていた。
これにはオニールがまた太鼓を打ち鳴らしながらヴァレリア側について、カイト虐めを煽って面白がるので、ヴァレリアはますます調子に乗ってしまうという関係性も原因としてはあっただろう。あの二人に絡まれたら、僕も正直なところ怒って逃げるか、無視を決め込む以外にない気はする。
そしてその夕方、サンメープル城に戻った僕は、あまりにもシエラの心情を配慮していなかったことに、改めて気づかされることになった。
僕はシエラがあれから部屋にこもっていじけているとばかり思っていたから、ここはひとつ男らしく、こっそり彼女のご機嫌を取ろうと思って、隙を見てサウスメープル市で飾り羽根の髪飾りなんかをお土産に買ったりしたのだが……。それを届けにシエラの部屋に行くと、そこにシエラはおらず、右往左往する召使いたちがいるばかり。
そして僕はシエラがあれからすぐに家出を敢行したことを、知らされることになったのだ。
懐中時計によれば、時刻は既に午後五時をまわっている。
シエラが家出して既に半日が経過していた。
「さては王子にチクったな……」
夕暮れの僕の執務室に戻ると、オニールが更なる混乱を予感させる言葉をぽつりと言い、その言葉だけで僕は身じろぎができなくなった。
「そんな……、せっかくこの間何とか切り抜けたばかりなのに……。二人きりの休みを台無しにされた挙句、仕打ちがそれなのか……」
「まったくよ、だからああいう面倒くさい奴のことはほっとけばいいのに。おまえらが考えなしに騒いだせいだぞ。
そうならヴァレリア、今回は、床に手をついて謝るのも覚悟しとけな。
ヴァレリアどころか、下手すると閣下が床に頭擦りつけるはめになるかもしれんぞ」
「お、おほほほほっ、冗談じゃなくてよ。なんでわたくしがあんな女のために頭を下げなくてはならないっていうのよ。
わたくしがあの女に謝るべきことなんてひとっつもないし!
……さてとっ、陽も暮れて来たことだし、わたくし、そろそろ帰らないと。後はおまえたちに任せるわ。
当たり前でしょう! だってわたくしは単なるゲストなんだからっ!」
シエラが殿下にまた泣きついたのなら、僕の人生は終わったかもしれない。
「アレックス様……」
青ざめる僕を、この場にいる誰よりも自責の表情でタティがみつめる。
「全部わたしのせいです。どうか王子様にそう申し上げてください。わたしが引き下がらなかったからと……」
「タティ、それは違う」
「いいえ、でも、わたし、わたしも……、アレックス様を渡したくなくてずっと意地を張ったんです……。
彼を諦めてと何度言われても、どうしても、はいとは言えませんでした。
シエラ様のほうが貴方に相応しいと分かってはいても、どうしても、それだけは言いたくなかったんです……。だけど、わたしが身を引かなかったからっ……」
「ジタバタするなおまえら。こうなったら全員で鼻くそほじくって、ばっくれるしかねー」
「オニールさん、ふざけないで! 大丈夫よタティ、正義はわたしたちにあるんだから、ちゃんと話せば分かって頂けるわよ。薔薇君様のところの人たちのシエラへの反応を見る限り、あいつには前科があるみたいだったし大丈夫。
そもそもシエラが本当に薔薇君様のところに行ったかどうかも分からない。幾らあいつだって、そんなことをすればアレックス様がいちばん困ることくらいは分かるはずだし。わたしはあいつの考えること、何となく分かるの。家出だなんて、どうせアレックス様の気を惹きたいだけの狂言よ。そうに決まってる」




