第28話 貴公子たる片鱗
頭上には大きな満月が出ていた。
ときどき確実な冬の到来を予感させる容赦のない風が吹いて、それほど自分の身なりにこだわりを持つ男ではなくとも、思わず髪を整えずにはいられないほど僕の頭髪を撫でまわして行った。
アディンセル家は古くからの騎士家系であり、陛下の騎士であることを誇りにしているが、いつの時代もその婚姻に必ずしもその偏狭さが適用されていたわけではないのだろう。僕は生まれつき少々の魔力を備えていて、この世の中には目には見えない何某かの力が流れていることを感覚的に知っている。
しかし厳格な兄さんのお考えによって、魔法を行使するための専門的な教育を受けたことはなく、ルイーズなどはこれが宝の持ち腐れであると散々兄さんに話したようだが、とうとう僕は柔軟性のある子供のうちに魔術師となるための幾つかの逃し難い訓練を受けなかった。だから今となっては当然魔法を使うことも、吹き荒ぶ風を司る精霊を見ることもできないのだが、夜風が今、僕が孤独だということを、煩いくらい僕の耳元に囁いていることを肌で感じることはできた。
事実、夜空には幾多の星々が星座を描いているというのに、ここでは孤独が世界を満たしていた。
既にその全景を視界に捉えられるほど遠ざかった居城を振り返ると、数え切れない窓辺は明るく、人々の笑いさざめく声が聞こえるかのようで、まるで知らない誰かの住処のように僕の寂しさに無関心だった。
僕はあまり外出を好むほうではないが、塞いだ気持ちをどうしていいか分からないとき、馬を走らせて気分転換を図ることがあった。子供の頃には馬に鞭を打つのが可哀想だと思っていたことは確かだが、今ではあまり考えなくなってしまったことからも分かる通り、僕は自分が考えているよりもきっと思いやり深い人間ではないのだろう。
もし思いやり深ければ、ああやってタティを泣かせるようなことをしていないだろうし、たぶん、もう自分がどうしたいのかさえ分からないようなことには、なっていないに違いないのだから……。
今夜はだいぶ視界がよく、慣れた道なら存分に速度を出すこともできそうだった。悪い冗談のように何処へでもつき纏って来る護衛の連中を撒く意味でも、馬に乗るのは悪い選択ではなかった。
僕を逃せば彼らは兄さんから手酷い懲罰を下されるだろうが、そんなことは僕の知ったことじゃない。何しろ僕は彼らを知らないし、生活するために労働を提供しなければならないような下級貴族である彼らとは、そもそも住んでいる世界が違っている。
もし僕が彼らに近づいて行って、友人になれと命じたなら彼らは承諾するだろうが、そんなことはいかにも馬鹿馬鹿しい茶番だった。
どうせ僕は独りでいることのほうが気が楽なのだし、少し冷静になってみると、友人なんかいなくたって、そんなことは取り立てて問題ではなかったのだ。
友人がいることで、もしかすると人生にとって何某かの利点というものが存在するのかもしれないが、幸いと僕はそれを知らなかった。これまで十九年間そうやって過ごしてきて、さしたる問題があったわけでもないのだから、これからだってそれで大丈夫に違いない。
友人がいないなんてくだらないことで劣等感なんか感じる必要はないじゃないか、何しろ僕は裕福で、健康で、しかも幸せだった。使用人たちが僕に友情を示すことはないが、彼らは僕の周囲に傅いていて、何でも命令に従うだろう。
大袈裟でなく、僕はそれ以外のものを何でも持っているのだから、安っぽい友情なんかを今更欲しがったりして、わざわざ僕がいま手にしているこの一人で過ごす美しい時間や、果てしない空想や、いま僕がせいせいしているこの清々しい気持ちを手放すことなんかないんだ。
「タティが友人だって? ふん、彼女は只の泣き虫さ……」
僕は石畳の城前広場から少々急な正面階段を下りながら、タティのことを早急に頭の中から掻き消した。
いまや彼女は存在するだけで僕の気持ちを掻き乱す不愉快な存在だった。
それに僕の感情を僕以外の人間が支配するなんて、そんなことは到底考えられない越権行為だった。別に僕といつまでも距離を保っていたいなら好きにすればいいのだが、僕はどんなに嫌われようとももはやタティを解放する気はなかったし、僕のほうから許しを乞うような真似をするつもりもなかった。
だからと言って無理やりどうにかするわけではなく、タティの気が変わるまで僕の部屋に閉じ込めておけばいいと思っていた。
そうすればそのうちタティも頭を冷やして、自分がどんなに愚かで失礼なことをしていたかが分かるだろう。そうなったら、そのときにまた改めて話をすればいい。既に結婚の許可は下りていて、彼女は僕の愛人と周知されつつある。当主の弟である僕の愛人にちょっかいをかけようなんて人間はここにはいるはずもなく、タティの父親ですら兄さんの決定に逆らうことなどできないのだから、何も急ぐ必要などないのだ。
酷いことをしているなんて思う必要はない。
階段の上から見渡す夜の城下は広く、敷地を囲む高い城壁は居並ぶ建物や木々や青い芝生の遥か向こう側にあった。
我がアディンセル伯爵家は領地収入と鉱山による強い財源があり、戦争となればまず矢面に立つことになる侯爵に準じる騎士団を維持することができる。従って騎士を志す人間が押しかけるのに暇がなく、整然とした城内のどこに視線をやっても衛兵の姿が視界から消えることがなかった。
兄さんが拠点とされているこのサンメープル城は、建国当初のまだ我が国の治世が不安定だった時期、反乱に備えた内地の防衛拠点の一つとして建設されたものではあるそうだが、現在では軍事機能よりは住み心地や外観が重視された、アディンセル伯爵の裕福さのひとつの象徴のような役割を果たしている。
居城から馬車で半刻もしないところにあるサウスメープル市は、貿易物資の流通と交通要所から発達したそれなりの規模を持つ地方都市で、かつてはこの城の城壁内にあった小規模の市街は、利便性と居住者の増加の問題からすべてそちらに移されていて久しかった。
居城の広大な敷地内に現在も機能しているものとして、各種行政施設や兄さんが所有する赤楓騎士団及び一般兵士のための訓練場や宿舎等があるが、それらはやはり当家の家族の生活圏とは切り離されていて、城前広場から何十段と階段を下りたところにあった。
僕は衛兵が規則正しく巡回しているのを横目で見ながら、正面階段の下まで到達し、そこから軍馬が収容されている厩舎に向かおうとした。僕が所有しているいちばんの駿馬を引っ張り出し、自棄のように馬を走らせるためにだった。
「アレックス様」
しかし、そこで僕は誰かに不意に声をかけられた。