第279話 休息を全力で荒らす者たち(1)
その後は概して滅茶苦茶だった。
最終的にはまるで僕がシエラを虐めたみたいにじっと僕のことをみつめた後、シエラが泣きながら廊下の向こうに走って行く。深く傷つけられた嘆きのかけらとでも言うべき涙の滴を、頬に伝わせたまま。しかし残念ながらそれらは僕の胸には響かなかった。
「逃げんじゃねーぞ、ブース!」
その背中に、オニールが無責任な罵声の追い打ちをかける。
シエラが立ち去ってからも、彼は更に毒づいた。彼はヴァレリアの幼友だちだから、やはりいざというときは心情的にヴァレリアの味方につくものなのだろう。
「ったく、むかつくぜ。何なんだよあいつは。ヴァレリアをとことん虐めやがって。
美少女はボロい立ち位置だよ。何をしようが定期的にカイト君みたいな馬鹿が湧いて、誰かしらホワイトナイト気取るんだから楽な人生だ。あれは敵が多い性格だよ」
「まあ、どっちもどっちだったよ……」
そんなオニールとは対象的に、すかさずシエラを追いかけようとしたカイトを捕まえて、ヴァレリアがビンタを炸裂させ、浮気者と罵り始めたところだった。あんまり何度もビンタをするので、カイトの頬が徐々に赤くなっていく。それでもヴァレリアはカイトを叩き続け、カイトはカイトで頑としてヴァレリアに頭を下げようとしない。しまいにはカイトの表情に本気の拒絶が浮かび、この二人は果たして婚約しているのだろうかと傍から見ていて疑問に思うほど関係は芳しくない。
決められた結婚相手にこんな扱いを受けていたところに、丁寧に接したり微笑んでくれる女がいたら、よろめく彼の気持ちは分からないではないが……。
カイトが誰を好きかってことには個人的に興味があった割に、僕はこれまでまったく気がつかなかったのだが、まさかシエラが好きだったとは感性の鋭敏な僕としてもこれは想定外なことだった。てっきり何処かの人妻か何かに懸想しているんだと予想していたから。しかしながらよくよく考えてみれば、なるほどと思える心当たりがないこともない。たとえば思い浮かぶのが、あのとき何故か茂みの中にいたこと。
肺病に罹ったタティを助けるために、いっそ王子殿下に救済をお願いをすればいいという、あの提案をカイトが言った晩のことだ。その少し前、僕はシエラと庭を歩いていて、シエラが必死で僕と手を繋ごうとしていた。その後、僕はカイトと剣の稽古の約束をしていたのだが、あのときカイトが何故か茂みにいた。
僕はあのときは何とも思わなかったのだが、今から思い出してみると、突然茂みから出て来るというのは、あれは何とも脈絡のない、不審すぎる行動と言える。その後に僕と約束をしていたのだから、普通に考えればわざわざ茂みに身を隠す必要なんてなかったのに、あいつは隠れてあれを見ていた……。灯台下暗し。何とも若者らしい、分かりやすい行動じゃないか。まどろっこしい余計な詮索は、最初から必要なかったのだ。
「もうやめろって。おまえらはいっつもそうなんだよ」
カイトとヴァレリアの間に、オニールが仲裁に入った。
「二人とも嫌でも目の前の相手と結婚しなくちゃなんないのは頭では分かってんだろ? だったら無駄な抵抗はやめて、そろそろ大人になれよ。
どっちも自分がボスだと思ってるカップルが上手くいくわけねーだろうが。どっちかはそろそろ譲歩しろよ。おまえらは性格があわないにも程があるぜ。
カイト君もここはよそ見したおまえがまずは謝るべき場面だしよ、ヴァレリアも気持ちは分かるけど、そんななんか何十回もバッチンバッチンビンタくれてたら、話になんないだろ」
「冗談じゃないわよッ。こんな汚らしい奴に、なんでこのわたくしが譲歩できてッ!?
まさかこのままで済むだなんて、思っているんじゃないわよ。誰かに侮辱されたら、百倍返しがわたくしのモットーなのはおまえも知っているわよねえッ。
絶対にこのままでは終わらせなくてよ。あのクソ女にはいずれ泡を吹かせて地獄を見せてやるし、人を馬鹿にしくさった報いというものを、おまえにも当然受け取って貰いますからッ!
そしてわたくしの足許に跪かせて、あの頃のように靴の裏を舐めさせてやってよッ!
何がシエラ様は美しいよ、あんなあばずれの腐れブスのいったい何処が美しいってのよッ!! あんな根性悪のゲロブスの淫売が美しいとか、おまえの目はいったいどうなっているのよこのバカ男ッ! このわたくしをなめるんじゃないわよッ!!」
「どうどう、分かった、分かったもおー。そんな興奮すんなって。よっし、じゃあおまえら、ここはこうしよう。僕が悪かったってことでこの場は収めてくれよ。なっ。オニール君が全部悪かったってことでさ。
僕はこれでもおまえらの仲が上手くいって欲しいって、心から思ってるんだから。たまには僕の言うことも聞いてくれよ。もうそうしよう、うん。もう僕が悪かったでーす。イエーイ、ゴメンなさーいっ!
てか……、おまえらもせめて乗っかれよ。僕ひとりはしゃいでどうすんだよ。なんでおまえらはどっちも折れるってことをしないんだよ……、いっつもいっつも」
カイトがその会話自体がうんざりだというように頭を振った。
「ちょっと何なのよその態度はッ!」
「そうだな、皆の前でふられたのが面白くないからって、ちと態度が悪いな。何一丁前にむくれてんだよ。何なのそれ。下男が夢見てんじゃねーぞ。シエラたんて何だよ馬鹿。あんなんおまえには無理に決まってんだろ、平民が調子こいてるからこういうことになるんだよ。恥を知れとはこのことだ」
「……」
「おまえヴァレリアが女だと思って馬鹿にしてんなよ? 誰のおかげで今のおまえがあると思っているんだ。ウェブスター男爵家の皆様のおかげだろうが。
ヴァレリアと結婚できるだけで有難く思えよ。クソ平民がさ。おまえなんか本来なら眼鏡ですらもったいないって言うのに」
それから僕とタティは予定通り裏の森に出かけることにしたのだが、結論から言うと、それはあんまり上手くはいかなかった。それは、やはりタティがもうデートを楽しめる気分ではなくなっていたことと、これだけ人間が集まっていると、もはやデートの体はなさなくなっていたということだ。
そう、僕は別に残った六人で仲よくお出かけしようなんて提案をしたつもりはなかったのに、何故かその場にいた全員がついて来るという流れになってしまった。僕としては、タティと二人きりで虫を取ったり、木苺を集めたりして、故郷で過ごす日がな一日をのんびり楽しく満喫するつもりだったのに、厨房に人数分の昼食を作らせて、そのまま裏の森で団体で不本意なピクニックをするはめになった。僕らは森の中の開けた場所で、比較的新しい倒木や切り株に腰かけ、バスケットを囲み、タティが陶器のポットに入ったハーブティーを配ると、各々サンドイッチやチキンを食べ始めた。ギスギスした空気が拭えないのに帰ろうとしないヴァレリアを理解できないと思いつつ、誰もそれを指摘できない森の静かじゃない昼食風景である。
おまけにオニールがカイトとヴァレリアにキスをしろと言い出した。それ自体はどうでもいいが、どうして先刻から当事者でないオニールが場を仕切る必要があるのかが分からない。僕はタティと二人きりにもなれず、持って来た瓶の中にはまだろくに虫も取れずにいて、不満を言うにもヴァレリアの反撃が怖いしで、悶々としていたさなかのことである。
それで僕はバスケットからピクルスが入っていないパンを探して、それをもそもそと食べる。頭に来ることは厨房の奴らめ、僕の分だけピクルスを抜いたと確かに言ったのに、大きめのバスケットを開くと中のどれが僕の分なのかが分からない入れ方をしていた。
「とにかく、いいからもうおまえらは今日キスしろって。ここまで来たら恥も外聞もないだろヴァレリア。あんだけ人がいる廊下で大騒ぎしたんだから。惚れてるのになんでこの期に及んで意地なんか張ってんだよ。進歩がなさすぎ。こうなったら、もう今日ここでキスくらいしろ」
僕はパンから注意深くピクルスを引っ張り出し、隣にいるタティの手の上に乗せた。薄切りにされた野菜が漬かったまずそうな物体を。
「あっ、子供みたいですよアレックス様。いきなり置くなんて、驚くじゃないですか」
するとタティが僕にめっ、という顔をする。
「入ってたんだ」
僕は言った。
「残すんですか?」
「そうだよ」
「もう。いつまでも甘えん坊さんなんだから……」
タティが僕が残したピクルスを食べ、それで僕はにやっとした。
一方、オニールが重ねてヴァレリアに説教をする。
「おまえらはまだ一度たりともそういうことをしていないだろ。それだから駄目なんだよ。男と女になってないんだ。お嬢様と下男のままなんだよ。だけど婚約だってしてんだし、そろそろそのくらいのイベントがあったっておかしくないんだから。
だいたいヴァレリア、言いたくないけど、男は少々顔面レベルが劣ってたって身長と体格でだいぶ点数をカバーできるんだよ。顔は大したことない奴でも、長身ってだけで五割増しに格好よく見えたりするだろ? おまえはカイト君を低く見ているが、確かにこいつの出自を聞いて結婚したいと思う女はいないだろうけどさ。都会に出たら、こいつと一度寝てみたいって思う女はいるかもしれないよ? あの人、いい身体してるわって感じで」
「はあっ!?」
「世間知らずの箱入り単純おぼこ娘だから、おまえにはそーいう世界が分からんだろうけどな。あばずれ女ってのは、そこらじゅうにいるものなんだよ。
ってことで、これから僕とお坊ちゃま君でカイト君を取り押さえてやるからよ。カイト君が好きなら、もうキスしろな。これはマジな話」
ちなみに切り株にはオニールが一人で陣取り、その向かいあって正面の倒木には、タティ、僕、ヴァレリア、ハリエットの順で四人が腰かけていた。カイトは立って食事している。まだ倒木には何人か座れる余裕があるのだが、なんでカイトだけが座れないかはわざわざ語るべくもないだろう。
オニールのこの提案に、ヴァレリアは途端に大笑いをした。手の甲を上品に口許に添えて、さもオニールの話を馬鹿にしたつもりの態度だが、声が上擦っている。
「お、おほほほほっ! ちょっとなあにー!? ハリエット、今の戯言を聞いて!? 誰が誰に惚れてるですって、あいつ馬鹿なのかしらっ!?
わたくしはカイトなんて大嫌いだと何度も言っているでしょうッ!」
「だからなんでまた否定してんだよ。訳分かんねーよ。おまえさっき自分で好きだってゲロってたくせに。キスごときでびびってんじゃねーぞ。
よっし、じゃあ僕らでカイト君捕まえといてやるから。今からもうやっちゃえな。そうすれば心境も二人の関係性も嫌でも変わる。お互い意識するからな」
「はあっ? ちょっとおまえ、何言ってるのよ」
「マジでするんだよ」
「ば、ばば馬鹿言ってるんじゃないわよっ……!」
「観念しろ」
「待ってよ、勝手に決めないでよ!」
オニールは立ち上がって、陶器のお茶のカップを座っていた切り株に置いた。そして一人だけ立って食事をしていたカイトを見るや、命令する。
「おまえ食ってるものを飲み込むか、下に置け。口は拭けよ」
「何です……」
「話聞いてただろ。反論はなしだ。そもそもおまえがヴァレリアを押し倒すなりしてればいいのに、根性無しがいつまでもそれをやらねーから、今回僕ちんが手伝ってやろうって言ってるんじゃねーか」
「余計なお世話ですよ。おたくに関係ないでしょうが」
「うるせー、とにかくやるんだよ。最近のおまえは浮ついていて、お姫様をじっとみつめているわ、態度が目に余ると思ってたんだよ。入り婿同然の分際で、大概にしないとぶっ殺すぞ。いいからヴァレリアにキスしろ。やらないうちは帰さねー」
そして次にオニールは、倒木にタティとくっついて座っている僕をも手招きした。しかし僕は連中の話などそっちのけで、ちょうど僕のサンドイッチをタティにかじらせるという、いかにもカップルらしいことをやっていたところだったので、邪魔をされて内心むっとする。
「お坊ちゃま君マジでちょい来て。カイト君取り押さえるから。こいつパワーあるから、一応二人がかりで拘束する」
「えっ……、本気でやるつもりなのか?」
「いつかはやんないと駄目なんだよこいつらは。どっちも歩み寄りをしない馬鹿だから。言っても駄目なら、具体的にきっかけを作ってやらないとさ。年内結婚って話なのに、未だにろくに口もきかないってどういう関係だよ。手紙のやり取りすらしないとか。ヴァレリアのために、ここはお坊ちゃま君も協力してくれ」
「う、うん……」
そんなの他人が強制するものじゃないし、二人に任せておいたらいいと僕は思ったのだが、オニールは僕の迷惑などお構いなしだった。
「カイト様とヴァレリア様をキスさせるんですか?」
タティが小声で僕にたずね、僕は曖昧に頷いた。
「何だかそうらしいね。ねえタティ、王都に引っ越す準備はできた?」
「はい、でも、わたしまで行ってもいいのでしょうか……」
「体調が悪い?」
「いいえ、それは大丈夫です。でも……」
タティが何を言いたいかは、聞かなくても分かることだった。
「タティは何も気にしなくていいよ。そんなふうに落ち込まなくて大丈夫。シエラには、僕たちの家の場所は教えないから。王都は広いし、シエラに魔法で追跡されないようにハリエットに言っておくから大丈夫。
シエラは王都の伯爵邸で暮らすことになるかな。できればサンメープル城に残って貰えるといいんだけど」
「でもそれだと余計に怒らせてしまう気がします。わたし、もうシエラ様と争うのは嫌なんです。お互いの嫌な部分がどんどん増幅されてしまう気がして。おまけにヴァレリア様まで巻き込んでしまって……。カイト様とあんな喧嘩までさせてしまいました。
わたしが王都に行かなければ、もうシエラ様を不愉快にさせることもないだろうし」
「だからってなんでタティが王都に来ないって話になるんだ。タティがいなくちゃ嫌だよ。体調が悪いなら無理強いはしたくないけど。でも実家に戻すのはちょっと。だって僕がいない間に、兄さんがタティに勝手に縁談を押しつけるかも。タティのお祖父様や父上は、それを断れないのは目に見えてるから、僕がタティのこと監視していなくちゃ。だから体調が悪いならコンチータに一緒に王都まで来させて、つき添って貰うことにするよ。コンチータだって娘のことは心配だろうし。それでいいよね? それともタティが家に帰る以外でしたいことは他にある? 実家に帰る以外のことなら何でも叶えてあげるよ。心配だから医者を雇っておこうか。それもいいかな。若い男の医者は駄目だけど、それ以外で」
僕の質問に、タティはうつむいたまま何も答えなかった。
「ねえタティ、僕らもキスしてみる? 今ここで、みんなの前で」
タティがシエラのことで何かと気落ちしているのは明らかなので、僕は気を取り直して、明るくタティに話しかけた。
「えっ!? そんなことダメ……」
「恥ずかしいの?」
「当たり前ですっ」
タティが急に赤くなって怒るので、僕は笑った。こんなところでキスなんてしようものなら、何を置いてもヴァレリアとオニールが絡んで来そうだから、本気で言ったわけではなかったが、その恥じらう顔が可愛かったので。
「じゃあ、後で、シエラの目の前でわざと見せつけてみようか」
僕は言った。
「えっ……」
「考えたんだけど僕、やっぱり本格的に彼女に嫌われるように仕向けようと思ってさ。タティにいろいろ迷惑かけちゃってるし、もう僕が最低だって思われることを何でもしてみようかと」
「で、でもそれだとたぶん……、わたしが悪いってシエラ様は思うと思います……。貴方は唆されてるだけだって……」
「じゃあ、他の女としたほうがいい? 怒りがタティに向かないように」
僕が言うと、タティはうつむいた。
「それは……、そうかもしれませんけど。微妙です……」
「あれタティ、嫌なの? 僕が他の女とキスするの。シエラに嫌われるためなのに」
「……」
タティがどうとも言えずにいるのが分かって、僕はついまた、にやっとした。
「そうか、タティはそんなに僕のことが好きなんだね。じゃあ、アレックス様が他の子とキスしてはイヤって言ってご覧? そうしたらやめてあげてもいいよ」
するとタティはまごついたが、やがて小声で復唱した。
「ア……、アレックス様が他の子とキスしてはイヤです……」
「後でタティにだけいっぱいキスしてください、も言うんだよ」
「後でタティにだけいっぱいキスしてください……、もう、アレックス様のいじわる……」
「えへ」
「ったく、うるせー馬鹿。きゃっきゃうふふしてんなよ」
そんな僕らにオニールが苦情を言い、僕の左横に座っているヴァレリアに再び視線をやった。




