第278話 慟哭と嘆きに巻かれて(4)
「こいつ貞淑ぶってるけど、中身はとんでもない化け猫よ! わたくしを馬鹿にしてっ、許せないっ!!」
ヴァレリアが憤激の表情で、カイトの背中にぴったり縋って泣いているシエラを指差す。
「落ちついて。だからって蹴りって何なんですか、女が蹴りって……」
カイトがヴァレリアをなだめようとてのひらをヴァレリアに向けるが、一度泣いた後のヴァレリアの怒りは、燃え盛っていてもはやまったく収まらなかった。
「退きなさいよっ!」
「できません。お嬢様、相手はお嬢様の屋敷の使用人女じゃないんですよ。こんなリンチみたいな真似はやめてください。お願いします、これ以上は駄目です」
「退きなさいっ!」
「できません」
しばしの押し問答の末、ヴァレリアは痺れを切らし、手を伸ばして強引にシエラを引きずろうとする。しかしカイトは頑としてそれを阻み、シエラを渡さなかった。言うまでもないが、男がその気になれば、相手がヴァレリアであろうと女一人くらい払い除けるのに造作はない。
「ちょっと何故、そいつを庇うのよっ! 命令よ、退きなさいッ!」
それでヴァレリアが余計に苛立ち、カイトに食ってかかる。日頃馬鹿にしているカイトごときに、簡単にあしらわれてしまったのでは、彼女の怒りも倍増であろう。
「できません」
それでもカイトは泣きながら怯えるシエラを庇い続け、それには応じない。
カイトが目の前で背中のシエラの心配をするという、駄目押しのような仕打ちに、とうとうヴァレリアが声を裏返らせてカイトを怒鳴りつけた。
「どうしてよッ!」
「シエラ様が、一方的にやられているからです。貴方のほうが圧倒的に強いからですよ」
「わたくしが、強い……?」
「さっきの暴言といい、蹴りってもはや暴行じゃないですか。女が殴られる様を見ていられません。お嬢様も、いい加減にして頂かないと。シエラ様が可哀想でしょう」
「何よッ、何が可哀想なわけッ、そいつだってたった今まで散々わたくしにやり返していたじゃないのッ! 何を嘘泣きに騙されているのよッ! だいたい、わたくしだって女よッ!」
「だとしても、貴方は騎士として戦闘訓練をしている以上、普通の女とは違います」
「誤魔化さないでよ、そうじゃないでしょうっ、シエラが好きだからなんでしょうっ……!?」
そしてヴァレリアはカイトを見上げたまま、何秒か押し黙った。
僕の目には、そのヴァレリアの表情には悲哀みたいなものがにじんでいるように見えて、どうやら何かを訴えたがっているようにも思えた。しかし彼女がそれを口に出す前に、カイトがすげなく続けた。
「……とにかくもうおしまいにしてください、こういうことは。貴方ももうじき二十一歳でしょう。そろそろ立派な大人の年齢ですよ。十代の子供を相手に、もうこんな、馬鹿みたいな行動は慎まれるべきです。
女同士だって争うことはあるでしょう、でも、相手が泣いたら終わりです。シエラ様は泣いているんですよ。もうおしまいにしてください。とにかく貴方が謝るんです」
「嫌よッ、どうしてわたくしがッ! どうしてシエラを庇うのよッ!」
ヴァレリアが金切り声で食ってかかる。
そして僕は、そろそろヴァレリアの精神の限界を感じていた。客観的立場であるからこそ見ることができるのだが、どんなに強気で男勝りであっても、彼女は女なのだ。女は脆い。だからこそ庇ってあげるのがこの社会の美徳とされているのだ。
それにどうもヴァレリアは、結婚相手が自分ではない女を庇って自分と対峙するという、こういう状況に耐えられるほどメンタルも強くはなさそうだった。シエラに泣かされた時点で気づくべきだったのだが、ヴァレリアは気は強いが、精神的にそれほど頑丈というわけではないのだろう。その証拠に、表情に余裕がない。いつもの高飛車さが完全に消え失せていた。彼女は必死だった。とにかくやることなすこと威勢がいいので見えづらいのだが、精神的には限界だろう。
「どうしてっ、おまえがでしゃばってシエラを庇うのよッ!!
オニールも、アレックス様すら出て来ないのにっ……、なんでここでおまえがシエラを庇う必要があるって言うのよッ! シエラが好きなのねッ!?」
ヴァレリアがなおカイトに迫る。
「それを聞いても貴方にいいことはありませんよ」
「言いなさいよッ!」
「お嬢様よしましょう、人前ですよ。それにそんなつまらないことを言い出すなんて、お嬢様らしくもない」
しかも最悪なことにカイトはそれを理解していない。彼のことだから、ヴァレリアがもう限界だということを、敢えて理解しないようにしているのかもしれなかったが。
「言いなさいよッ!!」
しかしヴァレリアが怒りに任せてカイトの胸倉を掴んだことで、事態は決定的な局面を迎えることになった。
カイトはそれまで誰にもはぐらかしていた答えを、嘆息混じりにとうとう口にした。シエラが好きだと声に出して自分で認めたのである。
「……だったらどうなんですか。どうだっておっしゃるんです? ええ、俺はシエラ様が好きですよ。こんなに美しく淑やかな方を好きにならないわけがない。
それに比べて貴方は何なんです。貴方は俺のことなんざ便所虫扱いしてるんだから、どうせ貴方に関係ないでしょう。これ以上彼女に手を出すのは俺が許しませんよ」
ただ、僕にはあまりに話が急すぎて、まだ何が何だか分からないのだが……。
しかし周りを見渡してみると、みんなそれをとっくに知っていたとでも言いたげな神妙な顔をしていて、驚いている者は一人もいない。まるで僕だけがその話を知らなかったかのようだった。おまけにまるで僕だけが、一人で見当違いな方向を見ていたみたいな空気感まであって、僕は思わず下を向いた。これではまるで僕が身近な人間の気持ちさえ推し量れない、愚鈍な男ということになってしまう。
そこで僕は急いで、男の沽券を守るために、これを知っていたという顔をしなければならなくなった。みんなにそれを分からせるために、何処かで上手いこと、それをアピールしなければならないだろう。
「ええ、関係ないわよッ……!!
許すも許さないも、好きにしたらいいじゃないのッ!!
こんなのどうせ只の政略結婚ですものッ……、わたくしだっておまえなんか、大嫌いなんだからッ!!」
「ああっ、ヴァレリアはそこで張りあうなよ、泣けって言ってんのに馬鹿だなーもう……」
ヴァレリアはカイトの服の襟を乱暴に突き放した。
するとシエラが、またカイトの背中にぴとっと可愛くしがみつき、まだ涙の滴の残る瞳で可愛らしくヴァレリアを見る。
その有様に、ヴァレリアは身体をわなわなと震わせた。
「わたくしと婚約しておきながらっ……、わたくしよりもこんな売女を庇うなんて、よりにもよってこんな恥知らずのズベ公が好きだなんて、こんな仕打ちをするなんてっ……」
だがそこで悲しみのあまり気を失ったり泣き崩れてしまわないのが、ヴァレリアお嬢様がこれだけ過激で乱暴な性格でありながら、彼女を決して単なる嫌われ者にはさせておかないヴァレリアお嬢様たる魅力であるのかもしれない。
ヴァレリアはすぐさま報復とばかり、太股を高く上げるやカイトの足をガツンと踏みつけた。しかも豪気なことに、ぐりぐりと陰険にヒールを靴にめり込ませている念の入れようである。
これは痛い。拷問のような打撃を食らい、さしものカイトも顔を引き攣らせる。
「きゃあっ、貴方はなんて乱暴者なの。カイトさんが可哀想よ、恥を知ってっ!」
「煩いブスッ! この汚らしい姦淫者どもッ! 汚らわしいッ! 汚らわしいッ!!
こんな無礼者の野蛮人の足は、こうしてやるわッ!!」
憎しみを込めてカイトの足を何度も踏みつけながら、ヴァレリアが金切り声で叫んだ。
「カイトッ、わたくしは一度受けた屈辱を二度と忘れないわよッ……、おまえたちはこれからせいぜい夜道には気をつけることねッ……。
おまえたちはこれから一生、人に怨まれながら生きることの苦しみをとくと思い知るがいいわッ! 誰かに一生呪われ続けることをよッ!!」
だけれども髪を振り乱すヴァレリアのその無惨な状態を、とても見ていられなかったので、これ以上足を踏み続けるのをやめさせる意味もあって、結局僕が出て行ってヴァレリアを庇った。ヴァレリアの腕を引き、二人の距離を無理やり引き剥がす。
「もういいヴァレリア、やめるんだ。そんな呪いの言葉なんか吐いてたら、自分が苦しいだけだよ。無理やり嫌な奴を演じなくていいんだ。君ってどうもそういうところがあるみたいだけど。今のやりとりで君を悪役だと思う人間はこの場にはいないよ。君が女の仲間同士のリーダー的責任感でタティを庇ってくれたのも分かってる。もういいから、力を抜くんだ」
それでもヴァレリアはまだカイトたちに向かって行こうとしたが、カイトが両腕を広げ、身体を張ってでもシエラを庇い守ろうとするのを見て、やがてうなだれた。
「どうして……」
「もうほっとけヴァレリア。馬鹿らしい。おまえが恥を掻いてやるほどの価値のある野郎か? ねーからそんなの。クズ同士、あの二人はお似合いだよ」
オニールも言った。
「待って、それは誤解ですっ。アレックス様が私以外の女の子の味方をしてはイヤですっ……。お願い、これはカイトさんの只の勘違いよ……」
するとシエラが瞳を潤ませ、カイトの背中からじっと僕をみつめたが、僕は軽く何度か首を振っておくにとどめた。さすがにこの構図では、ヴァレリアが不憫だと思ったのだ。足を踏んだ後に、更にヒールでぐりぐり踏みつけるというのは、骨折の心配があるのでやりすぎだと思うが。
僕のこの行動に対し、カイトもまた判断に困った顔で僕を見たので、僕は言った。
「ヴァレリアも女だよ。誰かが味方してあげないと。……、カイトのその態度はヴァレリアにはきついよ。正直やりすぎだと思う」
「いや、でもですね、お嬢様があまりに……」
「これは意地が悪いよ。これはヴァレリアが可哀想だ」
「いや……」
「シエラが好きだって、僕はちゃんと知ってたよ。知らないふりをしたのは、あれは、君にちゃんと話して欲しかったからなんだ。君の口から、友だちとしてね。
でも、言ってくれなかったことを悲しく思うよ。僕は本当は最初から気づいていたからね。たぶんここにいる中ではいちばん最初に分かってたんだ。本当だよ。そしてどっちにしろヴァレリアには酷いと思う」
するとヴァレリアが僕の背中に額を寄せて、涙声で呟いた。
「……、貴方はシエラよりもわたくしを庇ってくださるのね……。
アレックス様がわたくしの婚約者なら、どんなにかよかったのにっ……」




