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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第12章 佳客
275/304

第275話 慟哭と嘆きに巻かれて(1)

曇り切った空の下にでもいるかのような滅入る気分ではあった。

さっきから彼女たちの話題の中心に何度も挙げられてはいても、身分的に差し出がましいことが言えないタティが、廊下の端っこではらはらしている。

きっとシエラがヴァレリアに泣かされるだろうなとは、誰しも最初から予想していたし恐れてもいたことだったが、まさかその逆、あのヴァレリアがまさかシエラに泣かされる事態が起こり得るとは……。

ハリエットがヴァレリアを気遣って背中に手をまわし、隣に寄り添っている。ハリエットに顔を覗き込まれると、それでもボスとしてのプライドなのだろうか。指先で必死に目許を拭いながら、これまで聞いたこともないような涙声でヴァレリアは言った。


「情けないわねハリエット。このわたくしが、あんなズベ公に公開処刑されるなんて……。

カイトがわたくしを好きじゃないことくらい、わたくしだって馬鹿じゃないんだからそんなことは最初から分かっていたわ。自分からは会いにも来ないし、誕生日にカードをくれたためしさえないんだから、そんなのわざわざ教えてくれなくたって、とっくに分かっているわよ。

だけどっ……、だけどっ……、まさかみんなの前でそんなことを言われるなんてっ……。しかも自分が愛されてるって、そんな辱めまでっ……」


気丈にしようとしたのに、口をついた自分の言葉に傷つき再び泣き出すヴァレリアの様子は、僕の胸にも何とも痛々しかった。長い黒髪が震えている。身体つきまでがいつもよりか細く頼りない気がして、どうにかしてやらなければと思わされる。実際には、僕にはどうしていいか分からないのだったが。


「ヴァレリア……、可哀想に、可哀想にっ……!

泣かないで、こんなことで貴方が心まで傷つけられる必要なんてないわ。誇り高い貴方が、あんな女と同じレベルに自分を落としては駄目よ。あいつは単に生まれた階級が高かっただけで、本質はろくでもない女。そのご自慢の身分だって、今では落ちぶれて跡形もないんだから。いつだって自分が可哀想、自分だけがこんなにつらいって、うちの継母と言い分がまったく同じなんだから」

「でも、だからこそカイトとはお似合いなんじゃなくて……。どうしようもない底辺の下賤は下賤同士、同質の人間が惹かれあうって、周りの夫婦なんかを見ていると、あながち間違いでもないと思わない……?

おまえ、わたくしとカイトが本当に似合っていると思って……?」

「それは……、……ええ、勿論よ。貴方が下賤という意味ではないけど。カイトさんはあいつほど最低じゃないって意味」

「でもカイトはあいつが好きなのよ……。婚約が本決まりになりそうだったので、わたくし今年に入ってから、何度かこっそり会いに行ったんだけど、大抵あの女と話してて……」

「ええ」

「わたくしはいつも、近寄れもしなかった」


ヴァレリアが悲しく涙を拭った。


「そう……、でも、アレックス様も一緒にいたんじゃない?」

「いるときもあったけど、そんなこと関係ないのよ。あの女に鼻の下を伸ばしてるカイトの態度を見れば、気持ちなんてすぐに分かるし。だいたいあの女はわたくしが来ていることに気づくといつも、得意そうな顔をするんですもの……」

「それはひどいわね……。シエラはヴァレリアが来ているのを分かっていて、それをわざとカイトさんに知らせなかったのかしら。貴方たちは、今日が初対面ではなかったのね」

「ええ、そうよ……。初対面なんかじゃない。あいつはこれまでにも、絶対にわたくしに気づいていたはずだもの。たくさんの男をはべらせる王女様のつもりなんでしょう。自分が世界のヒロインのつもりなのよ」

「嫌な奴ね……」

「ええ、そうよっ……。決して忘れないわ。あの得意気で、それでいて自分は人畜無害だとでも言いたげな顔……!

あいつは何度もわたくしに気づいていたのに、遠くから嘲笑うだけだったわ……!」

「ひどい。それじゃあ貴方が怒るのは当然の話だわ」

「ええ、ひどいわ……。ひどいのよ……」


一方のシエラを見ると、特に取り乱した様子もなくヴァレリアをみつめている。ヴァレリアの言い分には異議があるという表情。両腕で自分の身体を抱きしめ、非常に警戒している様子なのが分かる。まさか泣くとは思わなかったという意味での困惑は感じられるが、ヴァレリアを泣かせて申し訳なかったという反省めいた様子はない。

ともあれヴァレリアが泣かされたことで、ハリエットがヴァレリアを庇い始め、また新たな敵対的構図ができあがってしまったことには議論の余地はなかっただろう。

今こそ双方に顔が利く円満な調停者が求められており、それはここでは僕なのだろう。そこで、僕は男らしく冷静に言葉を切り出す。


「ま、まあみんな」


僕は、自分の出した声の頼りなさに自分で驚きながら言った。


「丁度話にひと段落ついたことだし、もうここまでにしよう。朝からいろいろあって、疲れちゃったね……。少し早い昼を用意させるよ。甘いものを。僕はちょっと席をはずすけど……」

「駄目よ!」


だが案の定、ほとんど脊髄反射的な速さでハリエットが僕を叱りつけた。


「こんなうやむやで話を終わらせない。今後も毎日こんなことを続けているのはわたしだって嫌だわ。何よりタティが可哀想よ。どうせ猫被りのシエラに裏でやり込められているのよ。だから今ここでちゃんと決着をつけるわ」

「そんなこと言うけど……、もうぐちゃぐちゃじゃないか。何が原因なんだ……、いや、原因は複合的なんだろうけど」

「貴方よ、貴方! 貴方がはっきりしないからこうなってるの!」


ハリエットは厳しく痛いところを指摘した。


「でもそれはさ……」

「可哀想に、ヴァレリアなんて今日はとんだとばっちりよ!? カイトさんにも頭に来るし、男なんてもう最低!」

「男が君に褒められることなんてあるの?」

「茶々を入れないで。貴方はシエラを叱ることもできないって言うならちょっと黙ってて!」


ハリエットは、もう僕に何も期待しないとばかり、ぴしゃりとやった。


「とにかく、彼女はすごく我侭で身勝手だわ!

言って聞かせても分からないふりをするし、そのくせ自分の主張や要求だけはもっともらしいことを言う。そして大人や、特に男の人の前では更に性格のいい女のふりをするからみんなそれを信じちゃって埒が明かない。

わたし、あいつはとんでもなく嫌な奴だって何度も言っているのに!

でも、今日という今日はもう許しておけないわ。こうなったからには、ちゃんとシエラさんに謝って貰う!」


そしてハリエットは背伸びをし、柄になく両手で顔を覆って本格的に泣き出しているヴァレリアの頭を撫で、彼女を慰めた。

それから、ここから先は自分の出番だとばかりに、いち早く脱落したヴァレリアの代わりに自分こそが正義の代弁者であるという堂々たる態度で、いよいよシエラと正面切って対峙した。


「シエラさん、アレックス様をタティから横取りしようとしてごめんなさいって、まず貴方がタティに謝って!

そして勿論ヴァレリアにも、度が過ぎた意地悪を言ってごめんなさいって謝るのよ!

さっきのあの言動は噴飯もの。ヴァレリアのカイトさんに対する気持ちを分かっていて、よくもああいう底意地の悪いことが言えたものだわ。貴方は自分がもててる自慢ができてさぞいい気分だったでしょう、でもヴァレリアがどんなに傷つくと思うの?

ヴァレリアはカイトさんと婚約していて、ここにいる全員がそのことを知っているのに、あんなことをみんなの前で言われて、ヴァレリアがどんなに絶望したか、貴方、分かっているの?

だから、分かったら貴方は自分の非を認めて、タティとヴァレリアに、これまでのことで謝るところは謝って!

それからお互い、いろいろなことを話し合いましょう。でもまずは、貴方に絶対に非があるんだから」

「嫌です。何故私が謝るの」


だがハリエットの申し出を遮り、当惑したような仕草ながら、きっぱりシエラが拒絶する。

シエラは普段ならまずすることがない不愉快そうな表情で、今度は自分からハリエットとの対決姿勢を露わにした。ヴァレリアに対してはどちらかと言うと及び腰で、終始怯えているようなところが見られたのだが、ハリエット相手だとそういうのはない。ハリエットの体格がシエラより明らかに小さいから、大して威圧感がないというのはあるだろう。


「悪いのは貴方たちよ。私、何故私が責められるのか分からないわ。貴方はいつも自慢と言うけど、私は自慢するつもりで話をしたことなどないのよ。いつだって本当のことを言っているだけ。それなのに貴方たちはいつも、そんなふうにわざと私を悪く言って。

タティさんの私物を放ったという話だって、今のヴァレリアさんを嘲笑ったという話だってそうよ。私はヴァレリアさんが来ていたことに気づいたことはあったけど、彼女に対して得意気な顔をした憶えなんて一度もないわ。それはあんまりな言いがかりよ。私が彼女にそんな意地悪をする理由なんてないじゃない。

それどころかヴァレリアさんのほうが、私をすごく睨んでいたのよ。私、すごく怖かったの! 私を嫌いだって顔をしている人に、声なんてかけられるわけないでしょう?

なのに貴方たちはいつも私を大袈裟に悪い子みたいに言うのよ。いつだってそう。貴方たちは私が嫌いだから、私を悪く印象づけるために、わざと嘘を言っているのよ」

「あら、そんなの分からないじゃない。ヴァレリアがそう感じたと言っているのよ。貴方にはそのつもりがなかったとしても、でもヴァレリアがショックを受けていたのを確かに見たのなら、その瞬間、貴方は絶対にいい気分を味わったはずだわ。彼女に対して、優越感を感じたはずなのよ。人間の感情ってそういうものよ。ヴァレリアはきっとそのことがとても悔しかったの。だから言っているのよ。

それとも貴方は自分に限ってはそんな瞬間は絶対にないとまで言い切れるほどご大層な人間なの? 自分は清廉潔白な特別な娘だって? すごい嘘つき! 傷ついて泣いている子を目の前にして、そこまで言い切れちゃうんだ。貴方って随分残酷なのね」


シエラは眉を寄せ、ますます不満を言い募った。


「……ほら。女の子って、いつもそう。自分は悪いことなんてしないみたいな顔をするのは上手だけど、女の子はいつも本当に意地悪よ。

本当に性格の優しい女の子なんて、私、これまで一人たりとも会ったことがないわ。知っているの。みんな自分を可愛く見せたいときにだけ優しいだけだって。だけど本当はものすごく性格が悪いし残酷なの。私、女の子なんて、みんなみんな大嫌い!

貴方たちはいつもそうやって私だけ仲間はずれにするの。そしていつもいつも私を陥れるの。私が性格が悪いって。いい気になってるって。

貴方たちはいつだって、私が何を言ってもどうせ悪く取るのよ。私を妬んでいるから、私が嫌な子じゃないと気が済まないし、私がせめて性格が悪いことにしないと都合が悪いからそうするのよ。ずるい人たち! 私は絶対に謝りません」


その対応に、ハリエットが憤慨する。


「何それ? だからこれだけのことをしても謝らないのは当然だって言いたいのっ?」

「ええ、そうよ」

「貴方……、ヴァレリアが泣いているのが見えないの? 貴方が泣かせたんじゃないの! 自己正当化はいい加減にしてよ!

こっちが歩み寄ろうとしているっていうのに、なんて言い草なの!」


シエラは澄まして応える。


「歩み寄りではなく、謝ってと言っているのよ。貴方たちは私に、あまりに失礼がすぎたのだもの」

「信じられない。犠牲者はいつも自分なの?」

「睨まないで」

「……よく分かったわ。貴方が本当に最低な奴だってことが。

貴方、自分の立場さえ強ければ、相手に何をしてもいいと本気で思っているみたいね。非難さえされなければ、何をしても構わない。自分より立場が弱い人間には、何をしても構わない。

だから自分の幸せのためなら他人の恋人も奪い取れるのね。倫理観も道徳心もあったものじゃないわ。恋敵は抹殺しようとするし、今だってああして誰かが泣いても意にも介さない。いつだって自分さえよかったらそれでいいって世にも最低な女!」

「いいえ、私をそんなふうに悪く解釈しないで」

「いいえじゃないわ、ちゃんと聞きなさい!

ねえ、タティを殺してって薔薇君様に言ったこと、あれはなかったことにはならないのよ。どんなに可愛く取り繕っていても。

わたしがあの件について、これでもどんなに怒りを抑えているか分かる? 貴方がどんな人間か、あれを見てもまだ気がついていない馬鹿な人たちもここにはいるみたいだけど、私はもう貴方の本質を知っているの。

絶対に忘れないわ。それに貴方のしたことは、実際になかったことにはできないのよ。あのときフレデリック王子のお部屋に、書記官がいたでしょう。王子殿下の会見中の発言や出来事は、ちゃんと記録に書かれているものなの。あの日貴方のやったことは、王国史の記録の一部として残ってしまったのよ。

だから……、たとえ今の低俗な貴方は心に何も感じていなくても、いずれ自分の行いのむごさと、他の人々が記録を目にしてはタティのために心を痛めることを恥じる日が来るでしょう。それに気がつくのは、貴方が人並みの人間性を学んだときだけど。

情けないことに、今のわたしには貴方を従わせることはできないけど、正義は必ず存在していて、それは断じて貴方にはないのよ」

「後でフレデリック様にお願いして、全部削除して貰うから平気よ。貴方の意地悪な脅しには、私、屈しないわ」

「貴方って本当に史上最低ねッ!」


ハリエットが地団駄を踏み、悔しさのあまり半泣きになって怒鳴った。


「何がフレデリック様よ、それでも事実は覆らないのっ。とにかく謝って、謝ってよっ……!」


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