第264話 お姫様たちの怪気炎(1)
僕は手に持っているガラス瓶を眺めながら、蟻のことを考える。僕のてのひらの上で蠢く小さな生き物を眺めるときのあの甘美なひと時のことを。
そのとき僕はとても強く、雄大で、そして万能な存在となる。強くて優しい神のごとく万能の存在に。僕は彼らの世界の万物を司る神であり、同時に親しい観察者なのだ。
だが人間相手は駄目だ……、ここのところ僕は、少々自信を失ってもいた。タティといいシエラといい、僕は女ひとり思い通りに制することができないのだ。ましてやヴァレリアお嬢様相手ではお手上げだ。
彼女は女なのに、どうしてこんなにまで我が強いのか訳が分からないのだが、ともかくヴァレリアは腕組みをして、一同を睨んだ。
「そうね……、そう。つまりシエラ何とかなのよ問題は。話によると、あいつは随分とまあ態度がでかいらしいじゃない」
会話も一段落したのだから、そろそろ帰って欲しいのだが、ヴァレリアはまだまだここに居座るつもりのようで、帰る気配もない。
ともあれヴァレリアが既に違う話題に入り始めていた。彼女は明らかにこの場を支配し、さっそくシエラが気に入らないという話の流れが出来上がりつつあった。ヤキを入れに来たとのオニールの証言が確かならば、これは早めにデイビッドを呼びつけて引き取らせるしかないのか――、ヴァレリアは形のいい眉を不満そうに寄せて、イライラしたように爪を噛む。
「あいつ最近じゃ、自分がアディンセル家のプリンセス気取りなんだとか。とても信じられないわ、彼女は下品なあばずれだって、最近じゃ皆さん口々に言っていてよ。慎み深い淑女の皆様方が、こんなにはっきりとおっしゃるようになるだなんてこれはよっぽどのことですわよ。
おまけにファンクラブとか訳の分からないものまで作っていい気になって。アディンセル家の娘が自分のところの騎士団にファンクラブができるっていうことならまだ納得もするわ。でも厚顔無恥の他所者が他人の家で何をしているのよ。それが貴族階級の淑女のすることなのかしら?
他所者のくせになんで赤楓騎士団にファンクラブだなんて、あんまり無礼じゃないの! このわたくしに断りもなく! 大したことない女のくせに!
ねえ、アレックス様、幾ら元が侯爵家と言ったって、今はもうそうじゃないわけでしょう。それも実兄が処罰されたようなのを、親戚でも何でもないのに、なんでうちであの女の面倒なんか見ているわけ!?」
「うちでって、僕の城でだよ。君の屋敷じゃない」
僕は遠慮がちに言うが、即座に倍以上になって言葉がはね返って来るのがストレスだった。
男の言うことを聞かずに文句ばかり言うこんなのと一緒に生活したら、男は半年で病気になるんじゃなかろうか。
「煩いわねっ、だから、なんであの女が、ここで未だに名門侯爵令嬢みたいな扱いを受けているのかってことよ!」
ヴァレリアはまた僕に迫った。不意に手を伸ばしたので、何かと思うと、僕の手からガラス瓶を取り上げようとしたので、僕は慌ててそれを背中に隠す。
「寄越しなさいよ! 人が真面目に話しているのに手悪戯するなんて失礼じゃないの!」
「嫌だよ、これはあとで蟻を入れるんだ」
「蟻ですって? ああ……」
ヴァレリアは、貴族の娘たちのよくやる動作、片手を上にあげて大袈裟にふらついてみせる動作をした。か弱い娘がやるならともかく、ヴァレリアのような奴がやっても、厭味にしか見えないのは言うまでもない。
「蟻を瓶の中に入れるその行為に、何の意味があるのかしら?」
「飼うんだ」
「蟻を!?」
「うん」
「蟻なんてわざわざ飼わなくたって、地面の何処にでもいるじゃないの!」
ヴァレリアの恐ろしいところは、言いながらダンッと思い切り床を踏むところだ。これの何が恐ろしいかと言うと、彼女の脳内では、絶対に蟻を踏み潰したのだと思う。
「いや、僕これから王都で暮らすから。裏の森の蟻には、分布図を見る限り、王都には生息していない蟻もいるんだよ。それを捕まえようと思ってさ」
「何? 蟻に違いがあるわけ?」
「そうだよ」
「ああもう、うんざり」
ヴァレリアは僕を拒否するように即座に手を払った。
「わたくし、貴方にはもう心底ついていけなくてよ。なんて愚かなのかしら。貴方も内面が根暗の変わり者じゃなかったら、今頃もう少しくらいはおもてになっているでしょうにね。全身から暗い奴オーラが出てるからそういうしょぼい人生になっているのよ。せっかく運よく芋娘みたいな田舎臭いイモで手を打たなくていいルックスは持っているのに」
「余計なお世話だよ」
僕は首を振った。
「まあいいわ。このわたくしに靡かない以上、貴方もオニールと一緒でホモか、よくて途方もないブス専なんでしょうから」
「どさくさで僕ちんまでホモ呼ばわりすんなよ」
「とにかく、実兄が陛下に逆らったとかなんかで、領地も財産もあらかた没収されたんだったら、あのシエラって馬鹿女の身分は貴族籍があるだけの、下級貴族の貧乏娘と変わらないわけじゃないの。そんな貧乏臭い娘なんて、追い出してしまうか、召使いにでもしてしまえばいいじゃないのよ。そうでしょうハリエット!」
ヴァレリアはそう言って、今度はハリエットを振り返り、同意を求めた。
するとハリエットが引き続きヴァレリアに同調するように、いつにもまして勇敢な表情で首を縦に振った。
「そうね。その意見にはわたしも賛成よ。何故あいつが未だにわたしやタティより上みたいな顔してるのか意味が分からない。
ただあいつ薔薇君様に気に入られてるから、なかなか待遇を引き下げられないって事情があるみたいなんだけど。彼に素っ気なかったくせに、その権力にだけは当然の顔して浴してるって根性も気に入らないし……、とにかくシエラの態度はいろいろと目に余るわ。
もし良識って言葉を彼女が知っているなら、もう少し謙虚な態度だって取るだろうし、わたしたちにだって気を遣うはずだし、もっと肩身が狭そうにして、少なくともあんなふうにアレックス様につき纏ったりもしないでしょうね。自分が居候だって分かっているなら、タティを差し置いていちゃつこうなんてできないはずよ。
でも彼女は最初から図々しいと思っていたけど、最近では増長具合が激しくて、自分はアレックス様の妻だって言って憚らないばかりか、タティを追い払おうとしているのが丸分かり。
男の人は彼女がやってるようなそういう縄張りの主張は気がつかないでしょう。これは女特有のやり方だけど、男の人の前ではとにかく人畜無害ないい子を装って、見えないところでライバルを傷つけるみたいなそういうの。
つまり彼女は最悪でも純粋な自分は悪気がなくて、いろんなことをすごく無邪気な印象で済ませようとしているんだけど、でも絶対そうじゃないのよ。あいつはすべてを分かってやってる。
でも、表立ってやったらさすがに自分の醜さが他の人に気づかれるから、日頃はカムフラージュ的に殊更ああいういい子ぶった態度を取ってるの。彼女は自分のイメージや対外的印象を保つためにはどんな手段だって躊躇わないし、そこにものすごく神経を使って生きているから、生半可なことじゃ太刀打ちできないわ。
自分は可愛くて性格のいいお姫様って図々しい印象を周りに植えつけるためには本当に、何だってやってのけるんだから恐ろしいわ!
わたしが怒鳴ってやっても、あいつったらここぞとばかりに怯えた顔してアレックス様に甘えてかわしちゃうし、そうするとアレックス様もシエラが苛められてるみたいに解釈して、何故かわたしが悪者扱いよ!
まったく、あいつはろくでもない女。それで、タティにこまごました嫌がらせをしてる。
たとえばタティがアレックス様のお部屋に置いておいた私物を、わざわざタティの部屋の前にごっそり運んでくれていたりだとかね。部屋の模様替えしたからって、本人は言ったそうだけど、ぜったいわざとなのよ」
すると、オニールが噴き出した。
「おいおいおいお嬢ちゃん、お嬢ちゃん。何かと思えば、それ要するに荷物の場所移動しただけじゃん。昼間やることないから、部屋の模様替えでもしただけで、さすがに悪く取りすぎじゃねーか? 何か物がなくなっていたとかってことでもないんだろ? 考えすぎだって」
「いいえ! 貴方はこれがシエラによる攻撃行動だと理解できないほどお人好しな人間じゃないでしょう!?」
ハリエットが、横から口を出すオニールを睨みつけた。
「これはイジメよ。女の陰湿な虐め! 女の虐めは暴力はともなわないけど、その分嫌がらせとかの精神攻撃は半端なくずるくて巧妙なんだから!
部屋の模様替えは動機じゃない、タティの私物をアレックス様の部屋からすっかり放り出すことと、タティの心を痛めつけるのがあいつの行動の動機よ!」
「本当にそうかどうかなんて分かんないじゃん。憶測だろ?」
「いいえ分かるわよっ! 悪意があったかどうかくらいのことはすぐ分かる。女の直感をなめないで。あいつすぐ人のこと無視するし、世にも汚い女よ」
「大袈裟だな。シエラたんなんか只のアホだろあれ。仮にわざとだとしたって、そんな深く考えず、本能のままやったんだろ。タティが嫌いって自分の感覚主体でさ。謀略巡らすタイプじゃないって。彼女って善くも悪くも天然で、あんま深く物事考えらんないとこあるじゃん。
顔の可愛さだけで人生渡って来た奴に人格まで期待するなよ。ルックスに覚えのある十代後半の美少女なんて爪の先ほどの努力もなしで人生無敵状態だぞ」
「だからその自分勝手さが度が過ぎてて許せないんじゃないのっ!」
ハリエットが大声を張り上げる。
「十八歳にもなってまだ子供みたいな感覚で、自分なら何をしても許されると思ってるノータリン勘違い女を、何故大目に見てやらなければならないのよ!
あいつったら、まるでアレックス様の本妻気取りなのよ。挙句に虐めをやるなんて絶対に許せない。本当に最低だわ! シエラの味方する気なら、貴方ちょっと黙ってて!」
「だってなんっか些細なことじゃねーか。虐めって、そんな大したことじゃねーじゃん、おまえは美少女を僻むのもいい加減にしろって。それどう見てもおまえのそれは美少女への僻みだよ。
そりゃあな、とても自分じゃ敵わんような美人が目の前にいたら、理由なくむかつく女の心理は分からないではないよ。
でもさ、さすがにほうぼうで女どもがシエラたんを中傷してんのを聞いてると、聞かされてるほうはかえってシエラたんが不憫になって来るよ。彼女はおまえらに何もしてないじゃん。なのに直接知らないはずの奴らまでが、まるでシエラたんが嫌な奴のごとく言ってるんだから。
女ってやつは結局のところいっつもそうなんだよ。あれこれ言い訳を言うけど、結局は常に自分より美人を妬んでるんだよな。だから美人には滅法厳しい。一方、自分よりブスには優しい。基本、自分より下に見てるからな。それシエラたんがもしブスだったらそこまでキレてないだろ実際。正直に答えてみ」
「いいえ、そんなの関係ない。もしその通りなら美人は必ず嫌われ者になってるはずだけど、実際はそうじゃないでしょう!? シエラがみんなに嫌われる理由は彼女が嫌な奴だからよ!
シエラはやり方が姑息なのよ。自分が周りから非難を浴びないために、自分の評価が落ちないために、言い訳を他に用意して、ぶりっ子しながら周到に悪事をはたらくんだから」
「事実ならスパイの凄腕エージェントみたいだな、シエラたんも、それを見抜くお嬢ちゃんも」
「貴方もう黙って!」
ハリエットはこれ以上議論する気はないとばかり、オニールに拒絶のてのひらを向けた。その瞳は今まさに正義感に輝き、表情には誇りがあふれている。自分の主張の正しさを心から信じていなければ、そんな顔つきはできないものであり、基本が揚げ足取りのオニールの撹乱なんかには、流されないというわけだ。
そしてヴァレリアに向き直る。




