第26話 ムーンストーン
そして僕は何とかしてタティに結婚を承諾して貰うために、彼女を喜ばせるための方法を講じたんだ。
タティのために、壮麗なる王都のゴールドローズ・アベニューから通りを一本入ったところにある老舗宝飾店まで出向いて、相当緊張しながら彼女の誕生石である月長石の婚約指輪を注文した。石は勿論いちばん上等のものを用意させたし、デザインも、もし他の女の人が同じ指輪をしていたら嫌だから、わざわざデザイナーを呼び出してタティのための特別の指輪を作らせることにした。
気取った感じの店員とデザイナーは、僕がアディンセル伯爵家の人間だと知るや、それまでのあたかも宝石店に迷い込んだ子供を相手にするかのような慇懃な態度をがらりと改めて下手に出た。兄さんが、この店の上得意であるためだろう。
「太陽と月のようにムーンストーンとダイヤモンドを飾り、台座はプラチナですね。お坊ちゃま、周りに魔法石をこう鏤めますと、一段と輝きが増し、魔除けにもなりますがいかが致しましょう?」
「いいよ、じゃあそれも」
「いいよって、まったく金持ちはこれだから……、それが仮にもティーンエイジャーの言うセリフなんですかね。
こんなあちこちがキラッキラした店で、よくもまあ落ち着いてられるもんですよ、それでまったく指輪は幾らなんですか……げえっ」
同行していたカイトは、店員が示した金額を見て大袈裟な悲鳴を上げていたが、僕にしてみれば、確かに安くはないと思うけど好きな女の人に喜んで貰えるのなら苦にはならない値段だった。
タティの指輪のサイズが分からなかったが、擦り寄るべき相手を嗅ぎつけることに長けた親切な店員によれば、そこは後から調整できるということだった。
その指輪と一緒に、僕は最初はドレスをプレゼントしようと思っていた。けれども同じく王都の高級洋品店の針子が言うには、ドレスを誂えるにはやはりどうしても着用者の身体の寸法を測らないことには作れないとのことだった。
僕はタティにいきなりプロポーズして、驚かせることを予定していたので、今回は生地や飾りの種類だけ予めよさそうなものを僕が見ておいて、後からタティを連れて来て可愛いのを何着でも作ってあげることにした。
僕はタティにはルイーズのような派手な格好は絶対して欲しくないけど、彼女のまるで老婆が着ているような地味な服装についてはかねてより少し不満を持っていたので、年齢相応の可愛いらしい格好をさせてあげるのはとても楽しみだった。
結局先だって用意できたのは、婚約指輪と、他には店先でみつけた髪飾りとか、辛うじてサイズを心得ている靴とかの小物ばかりだったものの、でも考えてみればそれだってどれも若い女の人が集めたがりそうなものばかりだし、それもいちいち宝石や金細工が施されている高品質なものを選んだので、きっとお金がかかっていることが分かって、タティも喜んでくれるだろう。
渋々ながら兄さんにお許しを頂いたことで、僕はタティと公然と愛し合い、結婚することができる。この事実が、僕の心を軽やかにしていた。
確かにタティは今は機嫌を悪くしているけど、きっと何かきっかけさえあれば、仲直りすることができないほどに酷い関係であるわけじゃないと思う。今は何だか気まずい日々が続いているけど、でもきっと未来の僕らからしてみれば、こんな喧嘩は些細で他愛ない、笑い話にでもなっているだろう。
実際僕はタティと結婚できるということが嬉しくて、もう喧嘩の原因なんかほとんどどうでもいいような気分になっていた。
僕らが仲直りをする、そのきっかけがプロポーズならこれほど素晴らしいことはないと思うので、その演出のために引き続き何だか怒っているふりをして暮らしていたが、心の中では指輪が出来次第タティに求婚することを考えていて、僕の気分は俄然盛り上がっていた。
タティが僕の妾にならなければいけないという兄さんの命令が解除された今、つまり兄さんのお言葉を借りるなら「男子が出来た時点で」結婚をすることが許された今、僕たちはきっと、今度こそちゃんと仲直りをすることができるだろう。
そして僕はタティに言うんだ。
僕のお嫁さんになって欲しいっていうことを。
先だっての婚約指輪が届いた秋の日、僕は高揚する気持ちを我慢することができずに、午後の執務をカイトや秘書官のロビンに押しつけて、指輪を握り締めてタティの待つ僕の部屋へと向かった。
僕は自分の身分や財産の有用さを信じていたし、タティが僕のことを嫌いではないはずだということを信じていた。だからタティが僕の求婚を断る要素などそもそも思い浮かばなかったので、彼女が微笑んでこの指輪を受け取ってくれることを信じて疑っていなかった。だからそのときの僕というのは、どちらかと言えばプロポーズをすることよりは、それから後のことを思い浮かべて興奮していたと言ってもいい。
若い男という、ある種の単純で分かり易いとされる生き物に括られる人間たちを、僕はどちらかと言えば遠目から軽蔑している種類の人間だったが、そのときは確実に、その単細胞で情熱的な連中の範疇に入っていただろう。
だけど部屋にはタティはいなかった。何の変哲もない中秋の夕暮れ。僕は引き続き胸を躍らせながら、少し部屋の中で待っていた。タティは兄さんから僕の部屋に常駐することを命じられているので、どうせすぐに戻って来るだろうと思っていた。
でも夜になって、タティは戻って来なくて、不安になった僕は部屋の灯りをともしている召使いに、タティの行き先をたずねた。
そして僕は慌てて部屋を飛び出し、廊下を走りながら、どうしてすぐにこのことを召使いにたずねなかったのかということを自問した。僕はここのところ、喧嘩の延長から自分の部屋へは寝るためだけに戻っていたような生活だったので、タティが一日をどのように過ごしていたのかを、まったく知らなかった。
だけど召使いが言うには、彼女は僕が部屋に寄りつかない以上、日頃からすることがない様子で、またお妾となった好奇の目線もあったんだろう、泣いてばかりいたというのだ。
僕がタティを庇ってあげなかったから、彼女はこの城に仕える貴族出身の使用人たちに随分な嫉妬を向けられ、また平民出身の使用人たちの間でも、影ではいい笑いものになっていたのだという。
召使いの話では、ここのところタティは毎日のように一階厨房まで花を持っていくことを日課にしているということだった。召使いは特に理由までは説明をしなかったが、それは言うまでもなく、ひと月以上も前に死んだパーシーの奴に手向けるためだということが僕には分かった。
そのせいで、僕の高まっていた気持ちには理不尽なまでに失恋の寒風が吹き込み、すっかり盛り下がっていたが、僕はタティに会うために急いでそこへ行き、厨房前の廊下にいないと見るや厨房内に踏み込んで、只でさえ慌しい時刻の厨房を傍迷惑にも一通り引っ掻きまわした。
タティが未だにパーシーのことを引きずっていることが気に入らず、僕の態度は彼らに対してあまり友好的ではなかったことも少しはあるのかもしれない。その間、料理人たちは過剰に僕に平伏し、平伏と言うよりはほとんど命乞いをしているかのような反応だったが、しかしそれのほとんどの原因は、先だっての料理長殺害事件のことが、彼らの間ではまだ尾を引いていたということで、僕のせいではないだろう。
やがてついさっきタティを見かけたという給仕係の証言によって、僕は速やかにその場所へ移動した。
給仕係の案内の通り、間もなく一階厨房横の階段の裏、高い窓から月光の差し込む薄暗い夜の片隅で、タティが膝を抱えて嗚咽をあげている姿を見つけた。
僕がそっと近づいて行くと、苛立たしげに瞼を押さえている彼女の細い薬指を伝う涙に月の光が宿って、それがまるで堂々とした結婚指輪のように思えて、これにまず目が行ってしまったこと自体が、僕にはこれが死者の国のパーシーからの警告のように思えた。
「そんなに好きだったの……?」
僕にしてみれば、その頃にはもうすっかりパーシーのことなんか頭になかったから、ここへきての使用人たちの萎縮した態度や、タティが未だにそのことを悲しんでいる姿には輪をかけて戸惑わずにはいられなかった。
使用人の一人が死んだことなど、結局は僕にとって悲劇でも何でもなく、過ぎ去った日常のどうでもいい出来事に過ぎなかった。それは喩えるなら新聞紙面の片隅に記載されている、遠い国の悲劇にも似た他人事に過ぎなかったのである。
だけどタティにとってはそうではなかったのだろう。
彼女は涙を拭いながらゆっくりと顔を上げこう答えた。
「いけませんか……?」
それで僕の心には、以前に厨房前で大喧嘩したときの、あの嫌な記憶が甦ってきて、にわかに気分が悪くなった。
僕はたった今まで、心無い連中に笑われ、悲しい思いをしていたタティに、可哀想なことをしたことを謝りたいと思っていたはずだったのに、彼女がパーシーへの執着を覗かせた途端、その気持ちは沸騰するような不快感と怒りに変わってしまった。
それは兄さんが反対されていたのを押し切ってまで、タティと結婚することを考えている僕の気持ちを、踏み躙られた強い屈辱感でもあった。
それ以上声をかければ、タティはまた僕のことを責めただろう。確かに僕はタティに少し冷たかったかもしれないけど、彼女は僕がこうして今すまないと思っている気持ちを知ろうともしないで、僕が罪悪感を抱いたことさえない悪人のように喚き立てるつもりなんだろう。僕の話や、愛の告白に耳を傾けることよりも、パーシーが死んだことを、これみよがしに悲しんでみせることを優先するだろう。そして内容のない口喧嘩の挙句、僕をまたしても拒絶するつもりなんだろう。
だから僕はそれ以上何も彼女に声をかけず、彼女のやっていることを咎めもせずに、手の中の指輪を握り締め、ただ気配を殺してその場を立ち去った。
僕は苛立っていて、残酷な気持ちに支配され、この世界の誰のことも許したくない気分だった。
振られる上に恥をかかされるのは、もう本当に、二度とごめんだったんだ。