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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第12章 佳客
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第257話 スイートホーム

朝、虫を入れる瓶を手に持ち、髪を少し気にしながら部屋を出て、執務室に行きがかりの廊下で、遠目に兄さんとフィエールが話しているのを見た。めずらしくフィエールの頭に寝ぐせがついていない。たぶん、あまり穏やかな歓談ではなさそうな様子だ。

兄さんは大抵いつも温厚とは言い難いが、随分と冷淡な顔をしているのが印象的だった。白いブラウスに金糸刺繍の黒いベストといったいでたち。胸ポケットにタンポポか何かの花が刺さっている。朝食を取ったときにでもアレクシスがくれたのかもしれない。ただの冷たい男なら容姿だけで広範囲の女にあれほど好かれたりはすまい、彼はこのように女のペースにあわせる許容能力が高いということなのだろう。それにしたってエプロンスカートの少女じゃあるまいし、厚い胸板にタンポポはちょっと間抜けで笑えるのだが。背中を向けているフィエールの表情は見えなかったが、何かを訴えているような様子でもある。

たぶん朝から兄さんを廊下で捉まえるほどのことと言えば、ジェシカのことではないかと思ったので、僕もジェシカのことは気にかかっていたところだし、何を話しているのか立ち聞きしようと思って、使用人の背中や廊下の装飾の物陰づたいに近づくことにした。しかし動きが怪しかったか、割とすぐ二人に僕の存在を見られてしまい、それで兄さんが僕に興味を移してしまった。


「アレックスか」


それが待ってましたとばかりの食いつき方なのは分かっていた。


「待ちなさい。おまえは王都の伯爵邸に暮らすからと、そうそう自由にできるとは思うな。分かっていると思うが、子供の夜間の外出は禁止だ。歓楽街に行くことも禁止だぞ。あそこは不良と退廃と悪徳の巣窟だ。

そうだ、ちょっとこの辺りの話をおまえにしておかなければいかんな。でないとおまえはすぐ調子に乗って羽根を伸ばそうとする。女をよく分かりもしないまま、相応しくない女に引っかかった前例もあることだし、間違いがあってはいけない」


兄さんが、横にいるフィエールを押し退ける勢いで僕に近づいて来たので、話を中断されたフィエールが一礼して向こうに行ってしまった。

でも僕は、朝から兄さんに延々説教されるのは嫌だったし、その中でも王都の伯爵邸で暮らす絡みの話っていうのはまずくて、何せ勝手に家を借りて独立する件のことが読み取られないとも限らないので、ここは逃げることにした。幸い、兄さんがいる場所と僕のいる場所の間には結構距離があったので、今回は逃げるのは楽勝と思われた。しかし兄さんがすぐアレックスを捕まえろと手を叩いたせいで、城内を警備するために階に配置されている衛兵のうちの二名が突撃して来てなんと二人がかりでアディンセル家の男子である僕を確保した。


「あっ、何だよ、無礼だぞ。離せよ」


両方の腕を押さえられ、僕はもがいて彼らに命令したが、それを打ち消すようにすぐ兄さんが指示した。


「駄目だアレックスを離すな。離したら懲罰だけでは済まないと思え」


伯爵である兄さんの命令のほうが僕の命令よりも強制力が強いため、それで衛兵たちは僕を押さえる力を遠慮なく強め、僕の言葉を完全に無視するようになってしまった。

その後、兄さんが小気味よさそうな表情を浮かべながらでかい身体で悠然と僕に近づいて、僕の二の腕を掴んで拘束し、衛兵たちは僕の身柄を兄さんに引き渡すことで兄さんに褒められ、まるでいい仕事をしたとばかりに誇らしげに敬礼をして退いた。奴らは伯爵の機嫌を取れれば僕のことはどうでもいいと思っているらしい。

僕は兄さんを見た。兄さんと僕とでは背の高さならあまり違わないものの、ウエイトが違うので、一度捕まるとそうそう逃げられないのは分かっていた。大柄でしかも鍛えている男の腕力や握力は、並大抵のものではなかったのだ。


「卑怯だぞ」

「ふっ、アレックス。そう何度も逃げられる私ではないよ」


そして兄さんは、僕の頭や顔を、でかい手で勝手に撫でまわした。僕はそれを払おうと思ったが、たぶんそれをしてもやめないことは分かっていたので、仕方なく撫でられた。そのほうが早く気が済むだろうから。撫でられながら、これはたぶん相手が無力なのをいいことに、迷惑などお構いなしで触りたいときだけ犬とかを撫でまわすのと同じような感じだと思った。


「まったくどうしておまえは私に寄りつかないんだ。食事のときも生返事、相変わらず呼ばなければ顔も見せに来ないというのは、どういうわけなんだね。うん?」


僕の頭に手を乗せて兄さんが言った。


「最近は兄さんが僕とあまり食事を取らないんじゃないか。アレクシスと一緒に食べてるんだったらそれで満足していればいいんだ」

「うん? 私をお母さんに取られて悔しいのかアレックスは。まったく」

「そんなこと言ってない」

「それよりもだ、いい子なら、この城を出るならばもっと私と話をすることがあるだろう? もっと私に相談することはないのか? 心配事だとか、王都の地理的なことだとか、何かあるだろう?」

「兄さんに相談するほどのことはないよ。細かいことはカイトと相談するから」

「いいや、あるはずだよ」


兄さんは決めつけた。


「ああ、おまえがこの城を出て暮らすとは……、ついこの間まで人形遊びをしていたようなのが。こんな頼りないなりをして大丈夫なのか? 今度ばかりは心配だな……」

「衛兵に命令して僕を捕まえろっていうのは、心配する人間のすることなのか?」


僕の皮肉に気分を害したか、兄さんは一瞬厳しい顔になって首を横に振った。


「アレックス、その反抗的な態度は何だ。私に反抗は許さんぞ。可愛がられたいなら素直に可愛がられたいと言いなさい。何故おまえはそうなんだ。反抗することが格好いいと思っているのではないだろうね?

……やはり、母親がいなかったせいで、情緒面に問題が出てしまったのだろうか。男親だけではやはり何かと細かい気配りが行き届かないものだからな。その分、おまえを甘えさせることで補ってきたつもりだったが」

「仕事してるか遊びまわってて、甘えさせたことなんてなかったくせに」

「ふっ、ほら見ろ、そんな恨み事が出るということは、やはり私に甘えたいのではないか。本音が出たな。素直になれアレックス。そうか、おまえは私が好きでたまらないか。仕方のない奴だ」


兄さんは得意そうに笑って言った。


「なんでそうなるんだ」

「アレックス、ところで提案だが」

「何ですか?」

「私も伯爵邸に居を移すとまではいかないが、当面の間は三日に一度は泊るようにしようかな。おまえが殿下と上手くやれているかも知らなければならない。そうだな。そうすれば、おまえも何かにつけ心配がないだろう。

この私も忙しいのだがね、おまえがどうしてもと言うなら、夜だけでもそうしてやらないこともないよ」

「えっ、いいよ……」


兄さんが頻繁に伯爵邸に顔を出したのでは、僕の独立計画が頓挫してしまいかねないと思い、僕は慌てた。


「兄さんがわざわざいらっしゃることないよ。大丈夫、上手くやるよ」

「いや、アレックス、何せおまえは世間に出たことがないだろう。私の許で公務の手伝いをするのとはわけが違うのだよ。これまでは何かあれば私が責任を取るという条件下での役目だったが、これからはそうじゃない。アレックスの初めての冒険だ。分かっていると思うが、今後おまえの行動はおまえ自身と、私と、アディンセル伯爵家そのものにも反映するようになる」

「それくらい分かっています。言われなくたって慎重にやるよ、殿下のご機嫌には最大限注意を払うし」

「そうか。……だがなアレックス、でもしばらくは心配だろう。私の助けが必要になるかもしれない」

「もしかして、兄さんは僕と離れて暮らしたくないの?」


僕は兄さんを見て言った。

すると兄さんは長めの黒髪を掻き上げ、その端整な顔を静かに顰めた。


「いや…、そうではない。これは飽くまでもおまえがという話だよ。何を言っているのだ。おまえの心配をしてやっているのだよ。私はおまえがそうなんじゃないかと言ってやっているのだ」

「いいよ、大丈夫」

「いや、大丈夫ではないだろう。そうやって何でも自分の判断が正当と思うな。おまえはもっと素直さを持ちなさい。それともまだ反抗期なのか?」

「嫌だよ」

「駄目だ」


途中から訳の分からない問答になった挙句、そのまま兄さんが風紀関係の訓示を三十分ほど始めたせいで、僕は朝からその廊下の見世物になった。


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