第256話 悲劇のプリンセス(2)
「いや、それは違う。誰もシエラを苛めようなんて思っていないよ」
僕は言った。
「それは君の勘違い。タティはそんなことしないって」
「いいえ、本当よ。本当なのよ。弱々しい態度を取りながら、彼女が陰で私に何をしているか……。どんなに私を苦しめているか……」
「だからそれは」
「タティさんを庇わないでっ」
シエラは両手を握って、可愛らしく僕に抗議した。
「ねえアレックス様、私は独りぼっちよ。いつも独りぼっちよ。でも私は貴方さえ私の味方になってくれたら、タティさんなんて気にしないわ。タティさんがどうであろうと、私をどう思っていようと。
いちばん苦しいのは貴方がほんの少しでも彼女を気にかけることです。タティさんが戻ったら私が要らなくなったみたいな貴方の態度は、とても傷つきます……。
私は都合のいいアクセサリーじゃないわ。私は感情のない人形ではないから、他の人の小さな機微だって、ちゃんと感じる心があるの。いつも貴方を見ているから、貴方のことはなおさら敏感に感じるの……」
「シエラ……」
「貴方が望むなら、私、どんなことでもします。何でも貴方の言う通りにします。
だからお願いよ、私を要らなくなった玩具みたいに放り出さないで。私はタティさんの身代わりではないのよ。私にも心はあるの。お願い、私に冷たくしないで……」
「冷たくしているつもりは、ないよ……」
「いいえ、貴方はタティさんが戻った日から、あまりにもはっきりと態度が変わってしまいました。彼女が戻ったあのときから、二人の関係はおかしくなって……。彼女が私たちの仲に割り込んだせいで、貴方はまるで別人になってしまったの。まるで醜い闇の魔女にたぶらかされた王子様そのものみたいに……。
貴方はもうずっとタティさんばかりよ……。キスだって……。
貴方は優しいけど……、その優しさが私以外の女の子に向けられるのは苦しいの……」
それからシエラは一度暗い顔をして塞ぎ込みかけ、僕は泣かせたかと思って焦ったのだが、一転して声を明るくした。
「私ね、さっき不思議な人に会ったのよ」
そのあまりに突然すぎる感情と話題の変更に僕は面食らったが、このままタティの話題を続けて、怒り出されたり泣かれたりしては困るので、とにかくシエラにあわせたほうがいいと思ってすぐに調子をあわせて聞き返した。
このときは、さすがに僕としてもシエラの中に深刻な情緒不安定を感じたが……、それに気づいたからと言って僕にはタティがいる。シエラを抱きしめてやることは、できなかったのだ。
「不思議な人?」
「ええ。たぶん、霊魂だと思うわ。彼女はずっとこのお城に住んでいるんですって。ちょっと気取って、アディンセル伯爵妃だっておっしゃったわ。金色の髪の綺麗な方だったわ」
「何それ!?」
シエラは首を横に振った。
「知らないわ……。最初ね、恐い顔をして、おまえは伯爵様の恋人かと聞かれたから、いいえ違いますって答えたの。それでも恐かったから、ギルバート様はとても素敵って、思いつく限り彼のこと褒めておいたのよ」
「そ、それで?」
「彼女はちょっと気をよくして、彼はわたしの夫なのって言ったわ。普段、アディンセル家の各お城を点検して歩いているんですって。伯爵様はお忙しいから、妻として、及ばずながらお仕事をお手伝いしているんですって。
彼女は手にレイピアを持っていたわ。自分はファム・ファタールを持つことができないけれど、この正義のレイピアで悪い女をやっつけるって。伯爵様は彼女に内緒で、ときどき恋人を隠しているんですって。でも結婚している者が妻以外の女を求めるのは神に反する大罪だから、妻である彼女が制裁を加えても構わないそうよ。
でも私、ギルバート様は独身だと思ったのだけど、それを言ったら恐いことになりそうだったから、言わなかったの。彼女とね、たった今まで一緒にお城を歩いたのよ」
「えっ、それたった今の話なの!?」
「ええ。お年はたぶん、私と同じくらいよ。お転婆姫って感じの方だったわ。ドレスのお話と、香水のお話をしたわ。でも彼女のお話が随分古いから、ちょっと違和感があったの。自分が死んでいることは知らないみたいだったわ。彼女はわたしたちは気があうわねって、微笑って言ってくれたの」
シエラは何処か誇らしそうにして、続けた。
「それでね、ギルバート様のこと世界一愛しているけど、今はギルバート様がすごく浮気ばかりするから頭に来ているんですって。結婚して以来、彼の浮気癖にはずっと悩まされているんですって。最悪って言って、本当に怒ってたわ。自分はこんなに若くて美しいのに、何故他所の女に興味を示すと思う? って言うの。
私、そういうタイプの男の人のことはよく知らないって言ったの。だって、お父様もお兄様もそういうタイプではなかったから。そしたら「おまえは本当に伯爵様に興味がないのね、よかった」って。
それでね、私たちすっかり気があって……、彼女には赤ちゃんがいるってお話になったの。男の子で、とっても可愛いんですって。ギルバート様の赤ちゃんなんですって。パリスちゃんって言うんですって。得意なお顔で、特別に見せてあげるって言われて、ついて来たら、ここに来たのよ。彼女は廊下に出て来た貴方に走り寄って指差して、消えちゃったわ」
「君は何やってるの……」
僕は脱帽しながらシエラを見た。
「そんなの見たら普通倒れるだろう……。そういうことは、しょっちゅうあるの?」
シエラはかぶりを振った。
「そうでもないわ。でもうちの家系はときどき視える人が出るの。お母様の、母方の家系のことよ。ウォーベック家は昔、神殿巫女を輩出していた魔術家系なのですって。だからお兄様や私は生まれつき強めの魔力があったのよ。兄弟ではお姉様だけあんまりそういうのがなかったわ。ギルバート様は前にお妃様がいらしたのですか?」
「いや、いないはずだけど。結婚したがる女は山ほどいただろうけど、彼のお眼鏡に適うほどの女はいなかったはず……。だから結婚したことはないはずだよ。
ねえ、それ執念深い女の残像思念か何かだろうか……。名前は聞いた?」
「いいえ、彼女は当然知ってるでしょっていうことを言っていたわ。このお城の女主人だからっていう感じのニュアンスよ。とてもお洒落で、ちょっと気位が高い感じの人よ。使う言葉がときどき、今と少し違っていて……」
「兄さんを夫呼ばわりとは……、何様だろう、危ない女だな。死んでまでこの城に居座った挙句、兄さんの妻気取りだなんて」
「もしかして出身が王家の方かも……。だってね、王女様なら、伯爵様をご主人様というニュアンスでは呼ばないはずだから。伯爵様のこと好きだけど、彼女のほうが地位が上な感じがしたの」
「えっ、その……それは、自分が王女様だってそう言ってたの!?」
「いいえ、でも、何となく。フレデリック様が使うのと同じ言葉の発音を使っていたから」
「……最後に王女が降嫁されたのって二百年くらい前のオーロラ王女のはずだけど、その方かな。夜中に剣を持って巡回してるって、なんでだか、よく分からないな……、しかも僕を自分の赤ちゃんとか……、とにかくシエラ、教えてくれてありがとう。後でルイーズに教えとかなきゃ」
「いいえ。ただ、私とお友だちみたいに親しくしてくれたから嬉しかったの……」




