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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第6章 君が望むなら
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第25話 気がかりな過去

兄さんがエステルを見ていない。

それは、それだけだったなら、女ったらしの不埒な男の行状からして至極当然の行動と言えるだろう。彼は女性との精神的な交流よりも、肉体的な交流だけが目的なのだろう。

だけどその前にルイーズが言っていた言葉が気がかりだった。

兄さんが今でも初恋の女性を忘れられずにいることや、愛する女が人生から消失していくのが恐いなんて話を、だから結婚したくないなんて我侭を、もし穿った見方をしないで正面から捉えるならば、何だかこれはどう考えてみても、僕でさえ及びもつかないような純愛の気配が漂っては来ないだろうか?

ルイーズは兄さんの乳姉妹だから、本当に幼い子供の頃から兄さんの側に仕えている。

それなりの貴人が魔術師を幼年期から共に育てて仕えさせることはこの国では当然の習慣だし、僕の乳姉妹であるタティだって、本来ならば僕の魔術師になるはずの娘だったのだ。タティの場合は成長の途中で魔力が消えてしまったけど、今でも彼女が僕の側で女官のような役割をやっているのは、やっぱり本当に兄弟のような信頼関係というものが、僕らの間に存在しているからだ。

兄さんとルイーズの間に、ジェシカには可哀想だけど、幼い時分から慣れ親しんだ人間の間だけにある親密な空気というものが存在していることは、やはりどうしたって否めないことだった。

ルイーズは兄さんの人生を、僕が知らないうちから、兄さんと彼女がお互い赤ん坊だった頃からずっと長い間、間近で見てきているはずだった。

色気過剰でとっつき難い感じがするから、僕は何となく彼女を遠ざけていたし、彼女のほうでも自分から僕に近寄って来て、取り入ろうとするようなことはしなかった。でも、彼女こそたぶん、すべてを知っているんだろう。

僕の本当の母上について、間違いなく―――。

今更本当の母上のことを知ったところで、勿論何があるわけではなかった。僕は別に母上を恋しいと思っているわけじゃない。

確かに子供の頃には僕だって、他の人たちには当然のように存在している母親が自分にはいないということがとても悲しかったし、寂しかった。

僕にも自分を愛してくれる母上が欲しくて、泣いたことだってあったけど、でも僕には兄さんがいるし……、だいたい僕はもはや母親の愛情を必要としている小さな子供じゃない、大の男なのだ。

それに有力伯爵という権力を持ち、あれだけ強引な性格である兄さんが、自分が執着している女を身近に置けないということは、この問題の前には、きっとそれなりの事情というものが横たわっているんだろう。

ジェシカが以前、自分の手で僕を産んだ女性を殺したと言っていた。それはどう考えてもギゼル妃のことではないだろうし、それこそがきっとすべての疑問に対する答えなのだろう。

本当の事情を、知りたくないと思わないわけじゃなかった。

自分という存在がどういう歴史を持ち、どういった流れの中に属しているのか、知りたくないと思わない人間はいないだろう。

更に好奇心をくすぐることには、両親がいなくて寂しい思いをしている子供の僕に、せめて暖かな思い出話をすることに何か都合の悪い問題があるとしか思えないほどのわざとらしさが、僕の人生に登場する人々を度々支配していたということだった。






「母上の話? ……ああ、そうだね。なかなか気性の激しい方だったと聞いたことがあるな。だからたぶん、そういう人だったのではないかな。

何だアレックスその不満そうな顔は、仕方ないだろう。母上はご病気が重く、亡くなられるまで何年も城の離れで暮らしておられた。だから、私もほとんどお会いしたことがないのだよ。

母上に会いたいだって? アレックス、アレックス、今日はそうやって乳母の手を焼いていたのか。あんまり困ったことを言っては駄目だろう? 死んだ人間には、もう会うことはできないんだ。

そうやってむくれたって駄目だ。男がそんなことで駄々をこねるものじゃない。面倒なことを言わず、聞き分けなさい。ああ、泣く奴があるか」


子供の頃、僕がねだることでやっと兄さんが話してくださった母上の話は、ギゼル妃が亡くなられたとき、兄さん自身も子供だったせいもあるんだろうが、いつも大抵あやふやで、推測で言っていることも多かった。

どうにも輪郭の見当たらない、しかも兄さん自身があまり関心のなさそうな話題の中から、更に僕が母性を見出すことは難しかった。

その頃の僕は、ギゼル妃以外の母親の存在を考えてみることさえなかったけど、やっぱり僕にとって母親というのは、いつも希薄で、秘密めいていて、絵画の中の知らない女性の微笑みのようによそよそしい存在だった。

それが兄さんにとっても同じだったということを、僕が考えてみたことはなかった。


「そうだアレックス、そんなに母上に会いたいと思うなら、ルイーズは幽霊が見えるらしいから、おまえも今度彼女に霊園に連れて行って貰うといい。

幽霊になった母上に、会えるかもしれないぞ? アレックスー、とか言って墓から這い出て来たりしてな。はははっ、……冗談だよ、本気で泣いてどうするんだ……、アレックス、男がそう簡単に泣くものじゃないぞ。アレックス……。アレックス、心配しなくても母上が幽霊になられていることはないから、安心しなさい」

「ほんとう?」

「ああ、本当だよ。だって、母上は天国にいらっしゃるからね。聖なる父の御許で、お幸せにしていらっしゃるはずだ。そして私とおまえのことをいつも見守っていてくださる。だからほら、これで鼻水を拭きなさい。そう、いい子だ」


そして兄さんは身を屈めて僕の顔を覗き込み、頭を撫で、結局ハンカチで僕の鼻を拭ってくれたのだった。あれはたぶん、兄さんが僕より若いくらいの年頃で、僕が六つかそのくらいの頃のことだ。

その頃の兄さんは、今より余程優しくて大人だったと思うのは、若い伯爵として、何より子供の僕の前できちんとするために、常に気を張って人格者の演技をしていらしたのだと思う。

年端のいかない少年の頃からアディンセル伯爵家の当主なんて重責を背負って、兄さんがどれほど大変だったか……、僕だって分からないわけじゃないんだ。




兄さんが今のような不遜な態度を取るようになったのは、ごく最近のことだ。僕が十代後半になった辺りから、彼はその本性を隠さずに見せるようになった。

だけど女遊びが激しかったのはそれよりもずっと前からのことだ。だからたぶん、女好きというのは彼の傲慢さよりももっと強力な、彼の持って生まれた性格なんだろう。

酷いときには、夕食時に僕に美しく教訓的な話をしたすぐその後に、女性を城へ引っ張り込んで節操なくいちゃついていた。

だいたいは、金髪女性だった。

シェアやエステルみたいな、長い金髪女性が特にお気に入りのようだった。

それから清楚な感じの……、まるで華美なルイーズとは真逆の、清純な感じの女性ばかり。

繰り返し、同じような女性ばかり。

やっぱり兄さんは誰かの影を追っているじゃないかと、僕は思った。

僕がシェアを心の何処かで探しているのとは比較にならないくらい、彼は特定の誰かに執着しているんだ。

可哀想なくらい……。

やっていることが何しろ滅茶苦茶だから、同情の余地はないけど。

彼がどういう経緯で初恋の人を失ったのか、これは勿論想像に過ぎないが、それが仮に僕を産んだ人だと言うなら、兄さんが彼女を想い続けてもう二十年にもなろうかという年月が経過しているはずだった。

それなのに未だに彼女を忘れられずに、結婚もできない兄さんというのは、兄さんの性格を知っている僕にしてみれば何とも情けなく、少し信じ難い話だったが、きっと側にいるときには雑に扱って、彼女がいなくなってしまってから、たぶん殺してしまってから、激しい後悔をしているということなのだろう。

もしかしたら、人生の最初で愛情と性欲を履き違えたのは、他でもない兄さん自身だったのかもしれない。

だから僕はそれを反面教師に、最初からきちんと誠実にして、一人の女性だけを、一生大切にしていけたらいいと思う。

それが僕にとってはタティなのだ。


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