第246話 佳客(3)
トワイニング公が落ち着くまで、三十分ほど時間を要した。
その間、僕はなぜ自分が呼ばれたのか分からないまま、たまにルイーズと視線を交わしあったりした。兄さんはあんまり機嫌がよくない感じになりつつあったが、相手が相手だけに怒るわけにもいかないということなのだろう。状況が落ち着くのを静観していた。
やがて涙を拭い、何とか悲しみの底から立ち直ったトワイニング公が唐突に言った。
「伯爵、私は聖王女の子孫として、実は、アレクシスにはひとつ試してみたいことがあります」
「試してみたいこと?」
「ええ。私はある方法を用いることで、あの子に人生を取り戻させてやりたいと思うのです。そしてこれまでの分の償いがしたい。そのために、ひとつ考えがあるのです」
これまで愛想のいい笑顔ながら、早く帰れという雰囲気を遠慮なく漂わせていた兄さんが、はじめて自発的にトワイニング公に興味を向けた。
「人生を取り戻す……?」
「父親として、せめてあの子にしてやれることがないか、私はずっと考えていました。生活を整えてやることや、戸籍の問題……、当主となった今の私にはいろいろなことをあの子に与えてやることはできるでしょう。
しかしそれよりも、もっと私にしかできないことがあるのではないか。父親が娘を守ることはごく当たり前のことです。極論を言えば、女にとってもっとも信頼ができる男とは太古の昔から父親のはずです。夫は他人ですが父親はそうじゃない。父親だけはいつでも娘を、どんな人生の苦難からも……、私がやらずして、誰があの子を護ってやることができるのか――、私は最初からこのことを最優先に考えるべきだったのです。そうすれば今頃は……」
トワイニング公は再び目を押さえた。白い衣装の側近が手際よく素早くハンカチを差し出し、彼は目もとを拭って続けた。
「とにかく、私が言いたいのは、アレクシスの精神を苦しめるその耐え難い痛みを、取り払ってやることができるかもしれないということです。気がふれてしまったあの子に人生を取り戻させてやるということ……」
「それは、アレクシスは正気に戻る見込みがあるとおっしゃるのですか?」
兄さんが身を乗り出してたずねた。
「まだ断言はできません。トバイア公の魔術師、いや公ご本人さえ、気つけの魔法くらいは当然操ることができたでしょうから、彼らにはアレクシスの気がふれてしまったのを、人為的に戻すことは可能であったはずなのです。
抵抗のできない娘たちを閉じ込めて、十年、二十年という長期間に渡りむごい仕打ちを平気で繰り返せる輩ですから、トバイア公は恐らく……、虐待による傷を行為後治癒させるなどして、娘たちを繰り返し徹底的にいたぶっていたはずなのです。
これは罪人を死なない程度に痛めつけて、失神したら休ませ、再び回復ののち痛めつけるという、つまり拷問刑の基本と同じことです。
トバイア公の魔術師マスター・シリウスは殺傷魔法に天分を持つ恐るべき魔術師でしたが、それ以外の分野に関しても相当の知識量を誇る魔術師でしたし、王族であるトバイア公ご自身は神聖魔法を得意とされていた。
ですから、彼らは恐らく何度もアレクシスを元に戻そうとしたでしょう。某かの禁呪を用いてでも、実際強制的に戻していたはずです。公が泣き叫ぶ女を痛めつけるのが趣味だったというハワード卿の証言が確かなのであれば、愉しむためには女には最低でも正気がある必要がある。小手先の技術程度では、もうアレクシスが正気を維持できないほどの虐待が、あったとみて間違いがないでしょう。
先ほど、そこに控えていらっしゃる、伯爵の魔術師の方の説明によれば、アレクシスは気つけの魔法を施しても、正気を維持できずにすぐ気を失ってしまうということですが……」
トワイニング公は兄さんの執務机の脇に控えているルイーズを示し、話を続けた。
「それは魂すら破壊されかねない凄惨な拷問に対し、精神防衛の最終手段を彼女の無意識が採っているということなのだと思います。
アレクシスにそれ以上の軽率な施術をしないでくれたアディンセル家の魔術師の方々には、かえってその気遣いに感謝をしなくてはならないでしょう。
しかし……、神は我々にひとつの恵みをお与えくださいました」
「恵みとは……?」
兄さんが言い、ためらいがちにトワイニング公は答えた。
「……実は、アレクシスは、ウィシャート公との間に、子供を一人生んでいるのです。あまりにむごく、許されざる経緯によって生まれた娘ではありますが、私の孫娘です。
その娘は名前をマリーシアと言うのですが、マリーシアは神聖魔法使いとしての才に優れております。きちんと教育をしてやることで、恐らくステラの神官姫、神聖魔法の使い手に育てることができるでしょう。
マリーシアは己の生まれすら分からぬまま、トバイア公の息子に使われていたようですが、まだ専属呪術契約がなされておらず、その期間が僅かであったことや、十五歳の若年ということ、そしてフェリア殿下に似た面影、何より私の友人であるハワード・アークランド公の尽力によって、今は陛下より特に免罪の恩赦を受け、祖父である私が身柄を預かり受けております。
トワイニング家が、聖王女ステラから連なる特殊な家系であるということはご存知でしょう。まだ国家体制が現在の形に整えられる以前、女も公爵を名乗れた時代に、聖王女が始祖となった成り立ちの家系なのです。男系男子が徹底されるようになったクラウン王の時代に、王子が婿入りして以降、男系相続が遵守されてはおりますが……。
しかし唯一建国王から直接分家されたという意味で、我が家の立ち位置は今でも少々特殊であり、それが証に我が家には聖イシュタルより伝承されし秘宝の杖があります」
「聖杖……」
兄さんが呟いた。
「そうです。聖イシュタルの聖遺物を授かりしは、イシュタルの子供であるクラウン王子が継いだローズウッド王家と、ステラ王女が興したトワイニング公爵家、この二つのみです。
聖イシュタルが天空に還るとき……、演劇などでは愛する人を失った聖女の悲嘆ばかりが注視されがちですが、彼女はセリウス王との間に授かりし勇ましき聖王子には神剣ファム・ファタールを、たおやかな聖王女には聖杖パルファン・コンプリスを残しました。自分がこのサンセリウスの地を去った後も、兄と妹が手を取りあって、愛しい方と暮らしたこの国を守って欲しいと……。
サンセリウス王の代々の継承の証たる神剣については知っての通りですが、トワイニング家にも後者が現存します。その杖パルファン・コンプリスには聖イシュタルの祈りと霊力が込められており、魔術を超えた様々の奇跡を起こすことができると言い伝えられております。
但し、パルファン・コンプリスは、ファム・ファタールが代々王位継承者に受け継がれていることとは少々事情が異なり、トワイニング公爵家の当主の家督継承の証明というわけではありません。
それは、パルファン・コンプリスを身に帯びることが許されるのは、星の聖女の代理となれる者……すなわち、ステラの一族でもっとも若い姫に限られるからなのです。
我が家では後継ぎの男子以上に、女子の誕生が歓迎されるのはそのためなのですが――、ですから、ティファニーにアレクシスが生まれたとき、私はこれで晴れて結婚が許して貰えると思ったものでしたが……、何という不運でしょう、愛しいアレクシスには魔力がほとんどなかった……。
そのためにアレクシスは杖を操る能力に欠き、一族の者たちには、歓迎どころか救い難い出来損ないなどと罵られ……、ティファニーとの結婚を許して貰えるどころか、最後にはアレクシスが私の娘であるという主張さえ、取り消されてしまったのです……。
トワイニングの直系の娘が魔力なしなど、考えられないことだったからです。これは腹が悪いせいだと、ティファニーも随分責め立てられました。
今から思うとアレクシスがそのように生まれたことには、きっと何か大きな理由があったに違いない……、私は父親として、娘の可能性を信じてやるべきでした。
ですが当時の私は若く、ただただ娘の不運を、そして愛する人と結ばれ得ない我が身の不運を悲しんでいることしかできなかった……。「あの赤ん坊は、本来生まれてはいけない娘だった。おまえとティファニーの組み合わせは、背徳の組み合わせであったから、聖イシュタルが罰を下したのです」そう母に諭され、愚かにも私はそれを信じた……」
兄さんが僅かに失笑した。
「すみません、話がそれてしまいました」
リドリー様は目もとを拭い、続けた。
「とにかくトワイニング家の娘は、スタープリンセスと言って……、これはクラウン王子がスタープリンス、ステラ王女がスタープリンセスと言われていたことの名残です。二人は半神であったために、そういう煌びやかな呼ばれ方をしても抜群に絵になったのだそうで……、それでとにかくトワイニング家の娘は、スタープリンセスと言って、二百年前までは、神殿に仕える国内でも王女殿下に次いで権威のある娘であるとされていたのです。
現代に生きる聖女として、杖の力を引き出し、能力の高い娘であれば母なる聖イシュタルそのものと交信すらできると言い伝えられております。
が、姫でなければ、いかに優秀な魔力を持とうともその杖の力を引き出すことはできぬのです。男では、いかにステラの子孫であろうと、ステラの代わりにはなれない――、だがアレクシスはマリーシアを残してくれた。しかもマリーシアは神聖魔法の能力が高いのです! まるでアレクシスの分までも、聖なる魔法を操る才を注がれたように」
「純粋な疑問ですが、アレクシスが産んだマリーシアというのは……」
兄さんが公爵様に質問を口にした。
「はい」
「あれは女系女子ではないのですか。いかに筆頭公爵家の血を引き、外貌がフェリア王女殿下に似通っているとは申せ、あの娘はそう有難がるような大層な存在なのですか……。
アレクシスならばトワイニングの男系女子、トワイニング家に属する娘であるというのは分かるのですが、マリーシアとなるとこれは……、もはや血統は意味をなさないのでは……」
トワイニング公は優しく微笑した。
「その疑問はもっともです。しかしこれは私の推測ですが、聖杖はファム・ファタールが持つ男系継承の法則とは、少々異なる理由から創られたものだったのかもしれません。恐らくイシュタルは、当初は我が国の神殿祭祀を代々ステラの血を引く姫に任せようとされたのかもしれない、つまり女系継承です。
セリウス王の治世の数十年間、今となっては信じられない話ですが、ご存知のようにサンセリウス王国はほとんど男女が同権だった。サンセリウスとはそもそも前王国の極めて不公平な国家制度、ごく一握りの特権階級ばかりが権利と富を独占し、それ以外の人々は人生に自由も楽しみもない、あまつさえ奴隷制度までが横行した悪夢の王国を、若きセリウス率いる反乱勢力が打倒したことで、築き上げた王国です。
けれども息子のクラウン王は父親の理想を引き継がなかった。彼は夢と理想の実現に生涯を捧げた夢想的革命家の父親とは正反対と言ってもいい現実主義者であり、セリウスの見た夢と理想によって社会に生じる歪みや負の部分のほうをよしとしなかった。
だから彼は即位以降、大幅に国家を改造し、奴隷制こそ排除されたもののサンセリウスをそれまでの前王国をこそ踏襲したような王国、つまり現在の形である男系継承を基軸とした封建社会として国家制度的に固めるに至ります。
そしてそれを機に女子の家督継承という概念自体が葬り去られたことで、イシュタルは聖杖の継承の法則を、後から変えざるを得なくなってしまった」
トワイニング公爵は話を続けた。
「よって現在においては、ステラの代理、星の神官姫となれる者……、つまり杖に主として選ばれるのは、代々その時代のトワイニング家の当主から見て、彼の血統内でいちばん年齢の若い娘が選任されるようです。娘というのは、息子の娘でも、娘の娘でも、そこは構わないようです。
つまり現在は、私リドリー・トワイニングが聖杖継承の起点であり、根拠となっているのです。ですから私から見て親族内でいちばん若い姫が、神官姫となる。
もし私に何かあって、ルイスが当主となるときがきたら、そのときはルイスの家族の中から新たに神官姫が選ばれる。その場合は、マリーシアからはその権利が消えるでしょう」
「なるほど」
「私が見たところ、女神イシュタルと交信ができるとまではいかないかもしれませんが、マリーシアは神聖魔法使いとしては私以上の能力を持つ実力者です。
聖杖の力を借りることによって、アレクシスの悲劇的な記憶を完全に封印することは、マリーシアにはできるでしょう」
トワイニング公は表情を引き締めた。
「他人の記憶へ干渉する手段は通常としてもあります。魔法や催眠はその最たるものでしょう。
しかし記憶とは魂に刻まれるものであり、魂とは叡智の存在です。我々の小手先の技術で、ひととき記憶を忘れたように思わせる手段はあれど、それは表層意識から一時的に取り払われるばかりのことで、完全なものではありません。
しかし聖イシュタルの霊力が宿るパルファン・コンプリスを使いこなせれば、星の女神の御力を借りて、忌まわしい記憶の封印を、表層意識だけでなく、魂の奥深くにまで干渉して、完全に仕上げることができましょう。
現在のアレクシスを苦しめているのは心の傷……、出血の止まらないひどい記憶であるはず。それを消します。
つまり監禁された十四歳からつい先日まで、二十年間の悲惨な記憶を、事実上なかったことにしてやることで、新しい人生を歩ませるくらいのことは、できるかもしれません。いえ、マリーシアほどの能力があれば、恐らくそれはできると思います。
とても皮肉な話ですが、マリーシアを介して、私の娘を苦難の人生から救済する奇跡が、実現できるかもしれないのです」
「上手くいきますか」
兄さんが、感銘を受けたように瞳を揺らした。
トワイニング公は力強く頷いた。
「ええ、もし神がこの世に存在しているのなら、必ず。
いと高く、慈悲深き天の御方が、可哀想な小さなアレクシスを、もうこれ以上御見棄てたもうはずがありません。
仮にそれがアレクシスに決められていた宿命であったとしても、それがもし神の壮大なる御計画や御意思に反する罪だとしても、それならばその罪はすべて私が被ればいい。父親である私がすべてを引き受けましょう。我が娘のために」




