第244話 佳客(1)
平穏と秩序を愛し、社交的活動にできるだけ背を向けていたい僕は、あまり広範な人間関係を必要としない人間だ。人づきあいはとても苦手な分野で、友人知人を増やすということには相変わらず煩わしさを覚えるばかりで、楽しさを見い出すことはできない。
だがそんな僕ですら、歓迎すべき客人と言える相手があるとすれば、今回のような方のことを言うのだろう。
別の日、兄さんの執務室に呼ばれた僕は、然る人物と再会を果たすことになった。
衛兵の敬礼を受け、ノックをして楓の執務室に入ると、人一倍上背のある兄さんが、執務机の前に直立しているのが見える。その向かいには身なりのいい客人があって、二人はそこで対話しているところのようだった。客人が連れている従者が数名、僕をみつけるなり頭を下げるが、彼らはひと目見て分かるくらいに全員僕より年齢が上だったし、社会的立場もそう低くはない人々であるようだ。全体として品がよく、穏やかな集団だった。
一方兄さんはその抜け目のない強い眼差しで僕を捉えながら、さっそく僕を手招きして側に招き寄せ、子供に言い聞かせるような小声で言った。
「アレックス、仲よしグループはどうした」
「煩いから置いて来たよ。呼びに戻ったほうがいいですか?」
「いや、いい機会だから連中にトワイニング家の面々の顔を憶えさせようと思ったが、まあいい」
それから兄さんは僕の背中に手を添え、少々大仰な手振りで客人に向き直った。
「公爵、こちらが弟のアレックスです。アレックス、こちらの公爵様が、おまえと会いたいと仰せなのだよ。ご挨拶をしなさい。以前アークランド公の宮殿内執務室でお会いしたそうだね」
兄さんは快活にそう言って、兄さんと向かい合う初老の紳士と僕を交互に紹介した。そこにいらっしゃるのは確かに見覚えのある温和な風貌、六十歳近い白髪まじりの彼は間違いなくトワイニング公爵ご本人だった。
トワイニング公爵家は当然ながら、アディンセル伯爵家よりも序列が上だ。従ってそこの当主を迎えるのに、兄さんはいつものように偉そうにふんぞり返っているわけにはいかなかったのだろう。道理で兄さん自身もその客人に謙譲を示し、きちんと起立しているわけだった。
僕を優しくみつめる公爵様の碧い瞳に、またしても深い懐かしさを感じた僕だったが、すぐに慌てて姿勢を正し、それから礼をした。
「お久しぶりですね、アレックス殿。お元気そうで何よりです」
トワイニング公爵は上品に微笑んだ。
「はい、お久しぶりでございます」
「いま伯爵と貴方について話をしていたのですが、貴方のお名前は、アレックス・アムブローズ・パリスと言うそうですね。アレックス、アレックス……、いいお名前です」
「ありがとうございます」
「名前というものには、各々に深い意味とこだわりというものが込められているものなのです。ですから決して軽んじてはいけない……。
パリスというのは、きっとアムブローズ卿は、ご先祖のパリス・アディンセル伯爵からお名前を頂いたのでしょうね。彼はとても勤勉な領主だったそうです。
しかし彼が何よりも有名なことは、初めて王女を母親に持った伯爵であるということです。
当時はまだ王女が臣下に嫁ぐというのが、選択肢としてある話ではなかった。ですからこれはとても古い時代の話です。確かそうですね」
「はい、その通りです」
兄さんは同意した。
公爵様は頷き、また僕に目を移した。
「アレックス殿。聞きましたよ、貴方をお生みになってすぐに、貴方の母君様は亡くなられてしまったのだそうですね。その後、ご高齢だったアムブローズ卿も亡くなられ、幼い貴方は父親も母親も知らずに育ったとか……。
幼い我が子を手放さなければならなかったご両親様のそのご無念、そのお嘆きは、いかばかりだったでしょうか。貴方のお名前には、どれもきっとご両親様の深い願いが込められているのでしょう。可愛い我が子を手放すこと以上につらいことはないのです……」
そしてトワイニング公爵は、僕を見ながら涙ぐんだ。
場を取り繕うように、兄さんが公爵様に話題を提供した。僕が今度から王子殿下に仕えるとか、そっちの湿っぽくない、そして社交辞令的な話のことだ。兄さんは見惚れてしまうくらい丁寧で麗しい、それは模範的な当主の態度だったが、その紹介自体はとても簡潔だった。
これは想像のことだが、兄さんとしてはあまり彼と僕を近づけたくないということなのかもしれない。
また、兄さんの執務机の脇に控えている顔ぶれが、その日はジェシカ、ルイーズではなくクライド、ルイーズに変わっている。それにルイーズが、何だかいたたまれないような様子をしている。表情は特にいつも通り、微笑んで愛嬌を振りまくほどなのだが、それでも居心地が悪いような、悲しいとも取れるような、そわそわした気分の変動が垣間見えた。それは、彼女はトワイニング公が彼女の実父だということを知っているからなのだろう。
けれども公はルイーズのことは存在すら知らない。
そしてこのことをトワイニング公に知らせるつもりは、兄さんにはないようだった。
トワイニング公は本日、アレクシスに面会に来たということだった。公爵様は側近らしい部下を数名と、それにひと際服装のいい三十歳くらいの男を一名この場に連れていた。
その男というのが、同年代の兄さんと比較して、あんまり生彩を欠く容姿だったので、ちょっといい服装をしているだけの護衛の騎士か何かと僕は思ったが、間もなく彼はトワイニング公爵家の第一公子である、ルイス公子だと紹介があったので、僕は思わずちょっと声を出しそうになった。
しかし僕が兄さんの顔を見ると、兄さんは僕を一瞥するだけだった。
兄さんはいつも通り、特に表情も動かさないのだが、それから読み取れたことは、兄さんはこの公爵様に心を許してなどいないということだ。
「とうとう侯爵様になられるとは、ギルバート卿はお若い頃から本当に頑張っていて、ご立派ですね。僕は感心します」
やや太めのルイス公子が兄さんに言った。
トワイニング公もバンナード公子も長身で、少なくとも容姿はかなり整っているのに、彼は何だってこんなに落差があるのかというくらい、見るからに大したことがなかった。背も低めだし、顔つきからして愚鈍そうで、腹が出ている。
だから背が高くて見栄えがよくて服装にも隙がない兄さんと並ぶと、悲惨なくらいだった。
「お褒めに預かり光栄に存じます、公子」
「ギルバート卿は、そのように堅苦しくしないでください。僕らは年も近いですし、きっといいお友だちになれるって思うんですよ。ピーナッツみたいに。
僕にアレクシスっていうお姉さんがいるって聞いたときは驚きました。トワイニング家では、この話でいま持ち切りなんです」
「左様ですか」
「トバイア公は本当に、実に鬼畜です。彼は僕のこともよく馬鹿にする嫌な男でした。このウスノロって言って、会う度に馬鹿にするんです……。でも貴方は僕を馬鹿扱いしないから好きですよ」
ルイス公子は、おっとりと言うよりは、随分間延びしたような話し方で、暢気に兄さんを褒めていた。それから僕を見た。
「彼が弟君のアレックスですか? 僕にもバンナードっていう弟がいるんですけどね。誰に似たのか、すごく優秀で頑張り屋の弟なんですけど……。
彼は何処となくバンナードに……、いやそれより父上だ、彼は僕の父上の若い頃に、似ているような、いないような……?」
ルイス公子がこれが意外に鋭く、僕の顔を不思議そうに見だしたので、僕はどうしていいか分からずまごまごした。
「公子、それは貴方様の気のせいでしょう」
兄さんがそれを遮って言った。
「申し上げました通りアレックスは、これの母親に顔が似ているともっぱらなのです。これを生んですぐに死んだ、我々の母にです」
「そうですか……、それはお気の毒に。でも肖像画にある父上がお若い頃って、本当にこんな感じだったんですよ。人畜無害そうな、ちょっとほっとけない感じの若者。
それでお祖母様がそんな父上を手放したがらなくて、父上はずっと彼女の操り人形だったんですって。ほら、何だかこう、あれっ、見てくださいアレックスの目の色が父上に。ほらここの光彩の」
「貴方も細かい方だ。気のせいですよ」
兄さんは僕の肩を押して公子から引き離すと、説明するのが面倒臭くなったのか、自分がルイス公子に顔を近づけ念を押した。




