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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第12章 佳客
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第236話 模範的倒錯(1)

「どうぞ」


夜更けに約束もなしにいきなり訪問されたのでは、普通なら追い返したくなるだろうが、身分制度というものは実に結構なものだ。カイトは僕をもてなす以外の選択肢がない。扉は開かれ、僕は大きな顔で彼の部屋の中に入った。

この部屋に前に来たのは、確か去年、エステルとのときだったろうか。その後の顛末の後味の悪さを思うと、あれはろくな思い出じゃない。彼女にはすまないことをしたと思う気持ちもあるが、向こうも僕に対するそれなりの薄情をひそめていたのだから、あれはなるべくしてなった結果であるとも言える。若気の至りとしては、随分な結末ではあったが。

あの晩は酔っていたのであんまり部屋の中なんて物色しなかったのだが、今日の僕は冴えている。

見まわすまでもなく、カイトの部屋はとにかく狭かった。テーブルの上のランプひとつで室内の灯りが事足りる。天上には蜘蛛の巣が張っているし、一言で言うと人間が暮らす部屋じゃない。ベッドがひとつと、テーブル兼机のようなもの、椅子は二つあるようだが、折りたたみ式の椅子で、ひとつは壁に立てかけてある。部屋が狭いから、椅子を二つも置くと邪魔になるようだ。

ここで食事を取ることもあるだろうに、洋服棚らしきものまで一緒くたにひとつの部屋に置いてあるのは、部屋が一部屋しかないからだろう。はっきり言って僕の衣裳部屋より狭い。部屋の中の物はどれもが安物で、あまりの質素な生活ぶりには人間としての尊厳があるように思えず、目を覆わんばかりだ。一言で言えば、住所が牢獄じゃないというだけで、ほとんど囚人の独房だ。有機ごみはないから、変な臭いとかはしなかったが。

だが感心すべきこともあった。ひとつしかない本棚には、本がぎっしり詰まっている。入り切らない本がうずたかく床に積んであるのはいただけないが、彼は思ったより勉強をしているらしい。ほとんど古本みたいだが、ときどき部屋に不釣り合いの立派な装丁の本もある。兄さんに読めと課されたものかもしれない。経済学の基礎的な本、それに都市計画概論とか、明らかに兄さんに読まされた本だと分かるようなのが。

ウェブスター家から兄さんのところに引っ張り出されるまでは、初歩的な算術すら学ばせて貰えなかったような奴が、こういう本を読むようになるまでには、相当の努力がいったんじゃないかと思う。

そして思うことは、この通りカイトは驚くほど努力を惜しまないということだ。どんなに境遇に恵まれなくても、不平を言って拗ねたり、投げたりしない性根と言うか、魂の根底部分にある誠実さは、彼の優れた美徳と言ってもいいのではないだろうか。


「なんかお気に召さないようで」


居心地悪くカイトが言った。


「すみませんね、本が乱雑になってて。アレックス様は整理整頓が上手いですから、雑然とした部屋は苦手でしょう」

「いや、そうじゃないんだけど……。勉強頑張ってるんだなって感心したんだ。

それに君は剣の稽古だって絶対欠かしてないだろう。身体動かした後で、よく頭に入るよね。僕は剣の稽古をやったら、その後なんてベッドに直行だよ」

「慣れです、慣れ。俺に言わせれば、何ヶ国もの外国語の本を読める貴方のほうが、ずっとすごいと思いますけどもね」

「まあね。でも一流の教師を金に物を言わせて雇ったからだよ」

「それだって、やる気と素養がなけりゃ、到底身につきませんって。俺もできればもっと早くから勉強がしたかった」

「そうなんだ」

「貴方やオニールの会話にね、ときどきついていけない。俺には文学だとか哲学だとか、芸術だとか、そういう贅沢な学科を身につける時間はなかったですからね。必要最低限に絞り込んで、遅れた分を集中講義って感じでしたので」

「じゃあ僕が先生をしてあげようか? でも芸術関係は……、絵を習いたいなら先生を雇おうか。せっかく王都に住むんだし」

「いや、年齢的に言って、新しく勉強を始めるにはもう遅いでしょうね。もう二十三ですよ。そんな暇もないし」

「そんなこと言うなって」


僕は呟いた。


「それより最近、調子はどう?」

「今日だってさっき会ったばかりでしょ。実にいつも通りですよ」


カイトは笑った。


「それはいいね」

「タティの様子はいかがです?」

「うん、元気だよ」


僕は頷いた。


「君のおかげでタティが元気になった。また怒らせちゃったけど、僕はタティが生きていてくれるだけで嬉しい。怒ってても。だから君には感謝してる」

「俺は何もしてないですよ。タティを救ったのは王子様と、あのお偉いさんでしょ」

「でもカイトが言ってくれなかったら、思いつかなかった。殿下にお願いしろなんて、そんなの僕には思いつかなかったと思うから」

「やあ、貴方に面と向かって感謝して貰うなんて、気恥ずかしいですねえ」


カイトは後ろ頭に手をやって、照れ隠しのように明るく微笑んだ。


「きっといいことあるよ。巡り巡ってカイトのところにいいことが戻って来る。因果応報って言ってね、世界を支配している見えない法則があるんだよ。

天は人間の行いを必ず見ている。だから、君はタティの生命を救うための一連の流れを作ったんだから、きっと特大のいいことがあるはずさ」

「本当に? だったらいいなあ。でも、バンナード・トワイニング様でしたっけね。あのお偉いさんの魔法で、不治の病が治っちまうんだから、世の中には奇跡ってものがある……と言いたいところですが、実際は王侯貴族による知識の独占ってのが、まごうことなき事実だって見せつけられたってのがねえ。

いろいろと政治的軍事的理由があるんでしょうけど、俺はあのての癒しの魔法は、一般に開放されるべきだと思いましたよ。本当なら救える生命が見殺しにされるっていうのは、どうにも気分がよくない。タティのことは、本当によかったと思いますけど」

「それには同感だけど、どうしようもないよ。それを決められるのは国王だけなんだ。フレデリック様の時代になったら、少しは規制が緩くなるといいけど」

「あの王子様は、出来た御仁ですね。終始笑顔で感じもよかったですし。外見の先入観で想像していたのとは、やっぱりだいぶ違っていましたけど」

「確かにね。僕も正直、最初は戸惑ったよ。でも意外とシャイな感じもあったりして。シエラと話しただけで赤くなっちゃってさ。絶世の美少年ときて、中身まで完璧超人だったらどうしようかと思ってたんだけど、そんなこともなさそうでよかったよ」

「そら、十七歳ですからねえ。そこら辺はまあ、十七歳なりの反応と言いますか」

「それより厄介なのはバンナード公子だよ。打ち解けようって気がないだけじゃなくて、確かに僕のこと目障りって思ってる感じなんだよね」


僕はバンナード公子の、何処か僕を馬鹿にしたような態度を思い出して言った。僕は何か彼の気に障るようなことをしたんだろうかと思わされるのだ。おまけに公爵家の男子である彼ほうがやはり社会的地位が高いし、しかも殿下に幾らでも話ができるという彼の立場は掛け値なしに強いから、僕はどうしても弱気な気持ちになってしまう。


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