第231話 タティとシエラ(1)
「お帰りなさいっ、アレックス様っ」
はじける笑顔――、僕が私室の居間に入るや、ドレスの裾を掴んで走って来て僕をお出迎えしてくれたのが、タティじゃないことくらいは見たら分かる。
乳茶色の長い髪を揺らして僕の前にやって来た美しい少女に対し、僕は思わず苦笑いを浮かべる。
「……ただいま、シエラ」
服装は主にピンクだ。スカートの丈が膝より上だ。でも衣装にはシックな赤や茶色も使ってあるのでそれほど品がない印象はない。良家のお姫様のお転婆スタイルといった感じだ。スカートからは白い太股が覗いている。脚には、膝が隠れる長いブーツをはいている。長い髪がおろされていて、シエラの髪色と衣装の色がよくあっていた。
特に飾らなくても無条件に可愛いのがこの年代の女の子だが、更に周囲の目を惹くような美少女が、僕に甘えているかのような態度を取っているわけだから、最初は苦笑いだった僕の気分は、当然よくなる。
「それ、すごく可愛い服だね。すごく似合ってる」
「嬉しい! 私、この後ろの赤いリボンが気に入っているのよ。大きめに結んで、ひらひらさせると可愛いの」
「青はやめたの? 青い服」
「それはフレデリック様のカラーだから。今はあまり着たくないわ。私、アレックス様の好きなお色を伺っていなかったわ」
「好きな色? うーん、特には……」
先日の謁見の日から、一週間が経過していた。僕はもう一週間後から王都で暮らすことになるため、今は兄さんの下請け的な仕事――、まあもとからそうだったが、あまり長期にかからない事務仕事を淡々とこなしつつ、割と時間的には余裕を持って暮らしていた。すぐに必要ない荷物ももうあらかた伯爵邸に送ってある。独立先の物件はまだ決めていないが、決めたらすぐ運び出せるように、向こうの召使いには荷物を開けないように言いつけてもいる。だから日が暮れたら特にすることはないのだが、それが問題だった。
僕には今、何でもいいから非常にするべきことが欲しかった。さもないと、こうして自分の部屋に戻らなくてはならないはめになるからだ。
僕は何の気なしを装って、ゆっくりと自分の居間に視線を巡らせる。僕の目の前で可愛くしているシエラのずっと向こう、窓辺の辺りに、しょんぼりしているタティがいる。
タティも僕にお帰りなさいと言いたかったのかもしれないが、いまいち機敏な動作という物に縁遠い運動音痴のタティは、シエラに先を越されてしまったのだろうか。
それともさすがに生まれながらの上流階級、侯爵令嬢と張り合おうなんて気概は、身分的な負い目もあって、タティには持てないのかもしれない。
そして僕はタティとシエラの板挟みになって、喘いでいた。
言っておきたいのが、心情的には断然タティだ。シエラみたいに容姿のいい女は確かに魅力的だし連れて歩けば気分がいい、しかも彼女は僕にすごく好意を寄せてくれるからそりゃあ本音を言えば僕としてもシエラのことは可愛いと思う。美人が嫌いな男はいないだろうが、彼女が自分を好きならそれはもっとだ。
でも、気心の知れた幼なじみというのもまた、僕にはかけがえのない特別さなのだ。だから僕はタティが好きだし、だからタティと結婚するつもりでいるし、タティが大事じゃなかったらわざわざ御不興を買うリスクを負って王子様に助けを求めたりなんかしない。
しかし今の僕は現実問題としてシエラを邪険にすることができないのだ。別にシエラの見た目の可愛さについついいい顔をしてしまうからじゃなく。シエラの後ろ盾が強大すぎて。兄さんですら手紙ひとつで脅かされていた相手なのだからもうどうしようもない。誰もが先日の事態をはっきり言葉にする度胸はないが、要するに殿下はシエラによって公衆の面前で女に振られるなんて赤っ恥を掻かされたわけで、今は相当ナーバスになっているだろうし……、だから当面は、殿下をこれ以上刺激しないためにも、シエラのことは保留として様子見するべきという兄さんの判断は、やっぱり正しいと思うのだ。
「私、いい子にしていたのよ」
シエラは僕に言った。
「うん。召使いたちはよくしてくれた?」
「ええ、とっても。だって、アレックス様の花嫁になるんですもの」
「いやっ、それは、どうだろう。つまり……」
僕は言って、褒められたがっているシエラのもうちょっと奥にいる、黒い巻き毛の娘に目をやった。すると、タティはふいっと顔を背ける。
僕は慌てて、タティの関心を引こうと彼女に向かって手を振ってみせた。
「ただいま、タティ!」
ちょっとカイトを頭の中で意識して、彼のように無節操に明るくそう言ってみたが、タティは野暮ったいスカートの両端を持って、つんとご挨拶するだけだった。
するとシエラが僕の腕に手を触れて、僕を引っ張った。
「タティさんばかりずるいわ。私にも、もっとただいまって、おっしゃってください」
「えっ、ああ、そうだね。ただいま」
「お帰りなさいっ」
そしてシエラは僕の腕にぎゅっとくっついた。
その仕草の可愛さと感触に、僕は思わず気持ちが浮かれる。周知の通り、僕は非常に誠実、歩く誠実と言って過言でないほどの男なのだが、タティが死んでしまうという自責と悲嘆の中で生きていたこれまでの精神不安がすっかり解消してしまうと、やはりどうしても、ときにはシエラも可愛いじゃないかなんて思える心の余裕が生まれるものなのだ。
これはたぶん、大人の男の余裕と言うやつだと思うのだが、タティがこれ以後もきっちり僕の手許にあると思うと、勿論シエラは殿下の物だが、こちらで預かっている限りは、別にシエラに冷たくする必要はない、まあ好きにさせておいたらいいかなという、まさしく器の大きい考えも、ちらほらと頭をもたげてきたりするものなのである。
僕はタティが大事だが、それは何もシエラを人生から完全排除する理由にはならない。たとえば何かにつけ、僕を批判したりギャーギャー文句ばかり言って来るような煩い女ならこれは男の沽券にも係わるし、とっととご退場願いたい気持ちにもなるが、シエラは別にそうじゃない。
そればかりか、シエラは前から僕に懐いてはいたのだが、それでもこれまではせいぜい後をついて歩いて来るとか、服の裾を可愛く引っ張る程度のもので、こんなに積極的にくっつくなんてことはしてこなかった。でも、なんと言うか、こうやってぎゅっと女に好かれるというのは、これは実に気分がいい……。
しかし僕ははっとする。そういうことをタティの前でやるっていうのは、タティのご機嫌がよくなくなることなので、できればやめておいて欲しいと思ったのだ。でもそれを言うと、きっとシエラのご機嫌が悪くなる。シエラのご機嫌が悪くなると、僕だけじゃなくアディンセル家自体にとって問題なので、僕は上手く言い出せなかった。
だが僕はすぐに新たな問題に気がつく。あろうことか、シエラの胸が僕の腕に当たっている! でももしそれを言うと、胸が腕に当たっているっていうことを、過剰に意識している女に不慣れな情けない奴と思われそうで、やっぱり僕は何も言えなかった。
だって僕は大人の男だからだ。大人の男は女をはべらかしても余裕なのだ。だから女の胸の感触くらいで動揺しない。でも困ったことに、本当はシエラの胸が当たっているのが、気になってしょうがない。




