第230話 恋しい君のために(8)
それから日が暮れて、兄さんが居城に戻って来た。
勿論僕は喜び勇んで伯爵執務室に飛び込み、タティが元気になったこの素晴らしい朗報を報告する。が、兄さんはタティなんて、そんなことはどうでもいいとばかりに僕を遮って、勝手に殿下に謁見した僕のスタンドプレイにまず釘を刺した。どうやら何処からかその情報が、もう兄さんの耳に入ってしまっていたらしい。
仏頂面の彼が僕に言う。
「しかも先刻、フレデリック王子より直接の書簡が届いた」
声色は音楽的だが、顔がどうしたって不機嫌だ。
「愛人の件でな。御叱りの内容だった。前からシエラを献上したいという話は通していたのだが、どうしたことか、それを今になって殿下側から断って来たよ」
兄さんはご自分の思惑通りに事が運ばなかったのが面白くないのかもしれない、結構イライラしていたので、僕は下を向いた。
しかもいつもジェシカがいるポジションには、そんなときに限ってジェシカがおらず、助け船も期待できない。
「兄さん、ジェシカはどうしたんですか?」
僕は言った。
「ジェシカは欠勤だよ」
「休んでいるんですか?」
「風邪をこじらせたそうだ。日頃這ってでも出て来るジェシカが休むなど、これはめずらしいことだが、まあそんなときもあるだろう。寝込んで起き上がれんそうだ。
クライドがそこにいるが、用事があるのか?」
そして兄さんは執務室のずっと端の書類棚のところにいる数人を示した。只の文官たちかと思っていたら、そこにクライドらしい背中がある。彼は中肉で体格にそれほど特徴はないが、何となく洒落た衣装なのでそうだろう。
「彼は使える?」
「ふっ、子供が偉そうに。そうだな、おまえよりはね」
「そうだ、ルイーズは何してるの?」
「さあな」
「兄さんは最近、調子はどう?」
「ここにいる子供を叱ろうとしているよ」
「アレクシスの調子はどう?」
「アレックス。おまえは私が話しているのを誤魔化そうとしても駄目だ」
兄さんが僕を睨んだので、仕方なく僕は話を戻し、自分で兄さんに聞いた。
「……つまりそれは、やっぱりシエラと結婚しろってことなんでしょうか?
フレデリック様は、僕にそれを命じていらっしゃるということですか?」
兄さんが軽く手を叩くと、クライドを含む室内にいた何人かの部下たちが、一斉に一礼をして出口に向かっていった。人払いをしたのだ。兄さんは機嫌悪く応えた。
「暗にはそう言いたいのかもしれんが、彼の立場で州領主の家の結婚を強制はできんよ。その権限は殿下にはない。もしあったとしても、そうはいかん。
シエラの扱いについては、殿下が何をおっしゃろうと、当面様子見とするだけだ。馬鹿馬鹿しい、こんなことで何も変わらん。おまえは何と言われようと、引き続き手はつけるな。
シエラをアレックスの傍に置いてやって欲しいなどと、支配階級の訳の分からん感傷を鵜呑みにはするなよ。後になって気まぐれに撤回されるのがおちだ。
今回の件で収穫があったとすれば只一つ。それは殿下に、シエラのためにこうして即日手紙を寄越すほど執着があるということが、判明したということだよ。これはシエラがカードとして有効であるということを意味している」
兄さんは厳しい実務口調で言った。
「カード……」
どんなに年が若くても、それが小さな子供でも、人を愛する気持ちが軽いとは限らない。フレデリック王子のシエラへの気持ちは、そんなに簡単なものではなかったような印象があったのだが、何処までも合理的な考えをする兄さんにとっては、所詮政治材料になるかならないかという視点からのものでしかないのだろう。
「それにしてもアレックス、あの王子は意外とつまらん男だよ」
兄さんは殿下から受け取ったらしい手紙を指の間に挟んで、それを振って見せた。
「この殿下よりの手紙曰く、卿にはもっと女を品物としてではなく、人格として意識するよう希望するなどと書き添えてあった。
ふっ、アレックス聞いたかね。この私が十七の子供に説教をされるとは」
「兄さん、フレデリック様は……、誰も愛人になどなさらないと仰せでした。これは、シエラだけのお話ではなくて、他の誰のこともそうはしないと、殿下は直接僕にそう仰せになられたんです。
だから各方面から、最近若い女を周りに配置されていることにも、ちょっと戸惑っていらっしゃると。殿下は、あんまりそういうことがお好きではないみたいです。誠実な方なのだと思います」
「女の肉体の味を知った後も、そのように高尚な生き方を実践おできになれるのであれば、多少は信じても構わないのだがね」
兄さんは言った。
「私としても、フレデリック殿下が胸中を忖度しているつもりだよ。若き王子は確かに本心をおっしゃっているのだろう。妾の子だと嘲笑われ、散々苦しい思いをなさった殿下のことだ。妾を持つということ自体をよく思われていないというのは、想像がつく。それは純真な少年の本心だろう。だが結局のところ、殿下は母親の血が悪い……」
兄さんは目を細めた。
「おまえは、あの王子に淫靡な色気があることを感じたか? それまで愛妻家と名高かったあの老王陛下を籠絡しおおせた稀代の淫売の血を引いている以上、一度女の肌を知れば、現在の潔癖な誓いを守り通せる可能性は低かろうよ。血とはそういうものだ。
或いは巷に囁かれる低俗な噂通り、快楽の館で女どもを飼育していたかの外道某の子であるというのが仮に真相であるとするなら、なおさらのことそんな誠意は小指の爪の先ほども期待できなかろうし」
「兄さん、そんなご発言は……」
その日フレデリック王子のことを、いろいろと言っていた兄さんだったが、口では皮肉めいたことを言っていながら、僕が目にしていたその態度には、いつものアディンセル伯爵らしい余裕がなかった。
だから実際のところ、殿下のおっしゃっていた脅かしというのが、少なからず兄さんに対して効果があったということではないだろうかと、兄さんの話を聞きながら僕は思った。
妾腹生まれの未成年であれ、世継ぎの王子の権力はやはり強かったのだ。
さしもの兄さんも、シエラを献上する件を王子殿下に直々に差し止められてしまったのでは、当面はこの話を保留にする以外なかったようだ。
だがそれは同時に、紆余曲折を経てようやく取り戻した僕とタティの平穏な日常生活に、決定的な混乱を招くということでもあった。
世継ぎの王子という絶大な支援役を得てしまったシエラは、これまでの「ウィスラーナ候の妹姫」という立場に加えて、「次期国王の客人」という身分を手に入れたことになる。
国王が寵愛する女には、内心はどうあれ我々臣下は最高の礼と待遇をもって接しなくてはならないわけだが、まだその段階ではないとしたって殿下がシエラに好意を持っているのが明らかな以上、兄さんも僕も、それまで以上にシエラを丁重に扱わなければならなくなったということは、もはや議論の余地がない。
シエラがこういう政治的な事情を勘案した上で、利益になると踏んでああした行動に出たかどうかについては、彼女の無邪気な性格や世間知らずっぷりからして、ほぼ何も考えずに動いてしまっただけだろうという想像はつく。言ってはあれだがシエラはよく言えば純真無垢、悪く言えばあまり深く物事を考察するということはない女だろう。それが彼女の可愛いところであり、お姫様育ち特有の迷惑さとも言える部分だ。
しかしフレデリック様が二人を祝福するなんて保証してしまったせいで、僕は表向きシエラを拒絶することができないのだ。
でもアディンセル家としては、絶対にシエラに手をつけるわけにはいかない。王子の女を傷物にしたら、アディンセル家の浮沈に係わってしまうからだ。
だからここのところの僕は、あちらを立てればこちらが立たず、感情から政略から、いろいろなしがらみを一度に突きつけられて、なんと言うか、ちょっと困っていた……。




