第228話 恋しい君のために(6)
敷地内で一個小隊が高いびきを掻いているのをすり抜け、バンナード公子を加えた僕ら五人は、タティのいる離宮内に足を踏み入れた。
ここはかつて母上が死ぬまで暮らした隔離施設……、内部は玄関の扉口を入った途端に、ごく小さめの住宅のような内装だった。玄関が吹き抜けていて、一階にも二階にも幾つかの部屋があるようだ。廊下には花が飾られ、常時二名の侍女が常駐して病床のタティの世話をしていた。タティと同室で暮らすわけではないだろうが、看病を命令された以上、彼女たちとしても感染は覚悟の上だったろう。医者も何日かに一度ここへ往診に来ていたようだ。
かつては伯爵夫人が暮らした場所だから、内装も調度品も大抵の物は上等で、日当たりも風通しもいい建物ではあったが、僕の気持ちは何となく塞いだ。
母上はここから生きて出られることはなかったのだ。結局母上は僕の存在を知らず、僕も母上を知らないのだが、それでも自分の母親だと思ってお慕いしていた方が、何年もお住まいになっていた場所だったのだ。実際は母上は僕の祖母だったというだけで、僕の家族には違いない。
タティの部屋は小さな離宮内の木製階段を上がった二階にあった。当番の侍女が何事かと慌てていたが、僕は彼女を掴まえて、感傷に浸る間もなくさっそくタティの部屋に案内させた。
タティの部屋の扉の前で、バンナード公子は僕らを振り返り、魔法の内容は公開できないと言った。僕は納得し、公子は僕らが立ち会うのを重ねて拒否した上で、部屋の中に入ると扉を閉ざした。
僕は扉の前でひたすらその時を待った。
フレデリック王子が治せるとおっしゃった以上、もうだいたいすべてが上手くいくことは分かっていたのだが、それでも祈るような気持ちで……。
半刻ほどしてドアが開き、バンナード公子がよろめくように部屋から出てきた。彼は部屋の前で待ち構えていた僕を見ると、精根尽き果てたではないが、非常に疲労した顔をしていたが、それでも愛想もなくタティは治ったと言った。
「本当に!?」
公子は頷いた。
「タティが、元気に?」
「そうです」
「あの、ありがとうございます。貴方にはなんてお礼を申し上げたらいいのか……」
「僕がアディンセル殿に申し上げられることは、此度の事、フレデリック王子殿下に対する大恩を忘れず、なおいっそうの忠義心をもって殿下に御奉仕するようにということです」
僕が感謝の意を伝えようとする声に、まさに被せる形で、バンナード公子は冷やかに言った。彼は僕の礼を受け取るつもりなどないというように、無愛想な表情のままだった。
公子は続けた。
「それがたとえどのような代償を支払うことであろうと、貴方自身の生命を削ることであろうと。貴方はフレデリック様の御為にすべてを差し出すことを心しなさい。
我らがフレデリック様は貴方にそれだけを期待しておいででしょう……、勉強の助けなどではなくね。
輝けるフレデリック王子殿下の尊き御生命の前には、貴方程度の人間は、そんな価値しかないということです。
貴方の女をお救いくださった我らが慈悲深きフレデリック様のために、貴方ごときが、身を惜しむようなことをしては許されないのです」
「何か、比喩表現ではなさそうですが……」
カイトが呟いた。
するとバンナード公子が、神経に障ったという顔でカイトを睨みつけた。たかが従者が公爵家の人間に口を聞くとはどういうつもりだというわけだった。
「何ですか貴方は。無礼な男ですね。見たところ、この僕に意見を言えるだけの身分的背景を持つ者ではないように見受けられますが。階級制度を分からないとは……。
アディンセル殿自身といい、先程の小隊長といい、アディンセル伯爵家は全般的に教育不行き届きであるとフレデリック様に報告します」
カイトがひれ伏し、公子はマントを翻してそのまま立ち去った。
「何だあいつ。嫌な野郎だな」
その背中に向かって、オニールが悪態をつく。
「本当にそうね。わたしたちを馬鹿にしているんだわ。タティを助けてくれたから、あんまり言いたくないけど、最初からアレックス様を目の仇にして嫌な感じ。
カイトさんも気にすることないわよ。ああいう上流育ちは、嫌な奴なのが相場なのよ。だって育ちがいいって、裏を返せば皆に可愛がられてばかりの苦労知らずってことでもあるんだから。ほらよく上流の姫君ほど純粋で清らかだと思われるものだけど、それって大間違いだからね。実際は清貧育ちの町娘のほうが、よっぽど心が清らかで愛情深かったりするのよ。でもああいう人種は、所詮薄っぺら。本当の意味での人の痛みなんて分からないの。
女のシエラですらああなんだから、男なんて、よっぽど周りに持ち上げられて、傲慢になってるに決まってるんだから。どうせ親の権力を自分の力だと勘違いしているバカよ」
「お嬢ちゃんも、大概ややこしい性格だな。まあ成育環境の複雑さからして、その性格は理解はできるが、可愛げはないぞ。ティーンの女の子が」
「馬鹿ね、魔術師に可愛げは要らないわよ。調べたわけ?」
「それが僕ちんのお仕事よ。でも上流育ちって言えばそれ、お坊ちゃま君にも言えることだよな」
「だったら何!?」
「いや、事実確認をだね……」
「あのねえ、前から言おう言おうとは思っていたんだけど、アレックス様はわたしと貴方の主人でしょ!? 貴方は何にしても彼の味方につかなくてどうするのよ!
貴方ってすぐアレックス様をからかったり、批判的なことばっかり言ってる気がするけど、それがもしわたしの気のせいじゃないなら、あまりにも常識がなってなさすぎ!
口を開けばお坊ちゃま君お坊ちゃま君って、馬鹿じゃないの!?
そもそもアレックス様は目下の人間にああいう対応は取らないわ。弱者虐めもしないし、威張り散らさない。びっくりするくらいまともよ。貴族として、そこは立派なところ」
「そうかもしれないけどさ」
「そう思うなら、貴方はそろそろ輪を乱すような発言は慎んで。アレックス様を世間知らずのお坊ちゃまだなんて、貴方は絶対言えないわよ! 貴方どう見ても同類同族のお坊ちゃまなんだから!」
「うそーん、マジでー!?」
「自分で気づきなさいよ!」
僕はこの先のことを思い、フレデリック様への申し開きはどうすればいいか、それにどうしてもバンナード公子とは上手くやれない気がして、気持ちが落ち込みかけていた。
でもタティが治ったというのだから、今は気を取り直すことにした。




