第22話 伯爵の魔女(3)
兄さんはそう言うと、僕の相手をするのを持て余したように、そのとき傍らに控えていたルイーズに視線を送った。そしていつまでも僕が食い下がっていることにたぶんもう面倒臭くなったのだろう、ご自身は革張りのソファに身を沈め、うんざりしたように眉間を摘んで息を吐き出していた。
その様子を見て、連日のご公務にお疲れのところを申し訳ないとは思ったが、しかし僕には引き下がる気持ちはなかった。
美貌のルイーズは兄さんに一礼して微笑み、それから相変わらず露出の激しい黒いドレスの裾を揺らして僕に近づいて来た。より厄介な相手に発言権を渡された予感がして、僕は内心でたじろいでいた。
その日の彼女のドレスは腹部が覗くほどに胸が大きく開いていて、豊かで形のいい胸が、そうであることが目視できるほど露わになっていた。それにスカートの丈は一見脛の辺りまであるのだが、しかしそれはよく見てみると左側だけだった。従って、彼女がその見事な白い太股を半分以上も覗かせていることを恥じる様子もなく歩く様はとんでもなく艶っぽく、その腰つきは魅力に満ちていて、僕はにわかに緊張して、目をどこにやっていいか分からずにとうとう視線を宙に泳がせた。
「それ、さ、寒くないのかい?」
僕は近づいて来たルイーズにどう接していいか分からず、彼女に関心がないことを示すためにわざと無関心な言い方でそう言った。
「寒い? ああ……、もしかしてドレスのことですの」
「う、うん、そう。脚が……丸出し」
「あら……うふふ、気になります? 男の子ですものね」
「そっ、そういうことじゃないよ」
「ええ、承知しておりますわ。お気遣いを有難うございます。
でも季節はまだ夏の終わり。それに私は魔術師ですので、いざというときには魔術を用いて体温調節をすることができますのよ」
「あ、ああ、そう」
つまらないやり取りを経て、気がつくと、呼吸をするのを忘れるくらい美しい顔が目の前にあった。長い睫毛に縁取られた、ルイーズのスカイブルーの魅惑の眼差しが、僕の心の奥までも見透かしているように僕を捉えていて、僕はもうこのことを認めざるを得ないと思った。
つまり、ルイーズはその容貌がどうしようもなく僕の好みの女性だということを。
「アレックス様、タティを抱いておやりなさいませ」
ルイーズは、まさかそんな僕の心情に気づく様子もなく、僕を見上げてそう言った。
彼女も兄さんやジェシカ同様、未だに僕のことを半人前と考えている節があるようで、僕をまるで子供のように侮る意識が言葉や表情の端々から窺えた。それがとても不快で、僕は彼女に自分が大人の男であることを思い知らせてやりたい気持ちに駆られたが、兄さんの御前であることを思って何とか気持ちを落ち着かせた。
「あの娘は子供の頃から、貴方を慕っておりましたのよ。タティは本当に小さな頃から、ずっと貴方のことだけを愛していましたの。あら、驚いていらっしゃる? もしかして、そのことをちっともお気づきでなかったとか?」
「……何を言っても、僕はおまえの言うことなんか信じない。
タティが僕のことを好きだと言うなら嬉しいけど、妾の身分のままにしておかなければならないというなら僕は抱かない。そんな扱いをされて、彼女の家族がどれほど悲しむか、タティがどんなに悲しいか、おまえは女でありながらそんなことも分からないのか?」
「真面目すぎる」
すると後ろの革張りのソファで、兄さんが唸り声をあげた。
「もう少し楽にしろ、アレックス」
その兄さんを見据えて、僕ははっきりと自分の考えを口にした。
「ではタティを妻にすることを認め、彼女の身の安全を保障してください。そうでなければ僕は彼女と関係を持つようなことはしない。
これまで築いてきたタティとの友好的で家族のような関係を犠牲にしてまで、彼女の気持ちを踏み躙ってまで自分の欲望を満たしたいとは思いません。
兄さん、僕は貴方とは違う。女の人を品物のようにしか思っていない貴方とは」
僕の言葉に、不意にルイーズが吹き出した。まるで兄さんの御前にあるということを弁えていないかのように、彼女の笑い声は高らかで楽しそうだった。一方、ソファにいる兄さんはそれを叱るでもなく、髪を掻きあげ憮然としていた。
「うふふふっ、言われてしまいましたわね、ギルバート様。
確かに私もアレックス様のご意見には同意ですわ。ギルバート様はあんまり自分勝手が過ぎますよ。貴方というのは普段から、邪魔になった女の排除ひとつにしたって、私や哀れなジェシカ様にさせて、ご自分では手を汚すということをなさらないんですもの。
でもそれは、無責任な卑怯者と言うよりは、女を手にかけるということが、貴方はおできにならない方なんですよね。圧倒的な弱者を自分の都合で害する罪悪感に飲まれて死にそうになるから。
だったら、もうそろそろ真剣にご自分の人生に向き合ってみたらよろしいのよ。初恋の女を忘れられずに殻にこもってなんかいないで、適当な火遊びで満たされない心を慰める日々を送るくらいなら、もう一度本気で恋のひとつもなさってみたら?
貴方を真実の恋人と信じたまま死んでいった、死してもなお貴方を求めて城内を彷徨う女の魂を、私が何度天国へ送ってやったかお分かりになって? あの可哀想な女たちの中の誰かひとりでも、本気で愛してやればよろしかったものを」
「黙れルイーズ、おまえはいったい誰の部下なのだ。
いかにおまえであろうとも、この私に対し無礼は許さぬ。生意気に、女がきいたような口を聞くものではない」
「あら、それはまた随分なおっしゃり様ですこと。ご自分だって、その生意気な女の腹から生まれていらしたくせにね。それに乳母に乳を含ませて貰い、たっぷり面倒を見させてお育ちになって、大人になってからだって、貴方は相変わらず女が大好きなくせに。強がっちゃって」
「ルイーズ、ルイーズ」
「いいえ、私は黙らないわ。だって貴方が私にアレックス様にお話しするようにおっしゃったのじゃありませんか。
アレックス様、貴方のお兄様はこう見えて、実はとても臆病で傷つきやすいの。それと言うのもね、愛する者がいなくなるということが、この方は何よりも恐くていらっしゃるの。
最愛のお母様がお亡くなりになったときの悲しみを思い出されてしまうと言ったら、そのお気持ちがアレックス様にもお分かりになるかしら?
だから……弱虫の彼は、未だに妃を娶らないの。彼女がいなくなってしまうことが耐えられないから。愛する者が自分の人生から否が応にも消失していく、その恐怖を味わいたくないからなのよ。
アレックス様、彼は貴方に望んでいらっしゃるわ。意地でも結婚したくないご自分の代わりに、このアディンセル伯爵家を繋いでいって貰いたいということをよ。
タティのことを、確かにこの方は貴方の妻には相応しくないと考えていらっしゃるわ。せいぜいで、アレックス様の夜伽の練習台にするのが相応しいと思っていらっしゃるの。でも誠実な貴方は関係を持つからにはタティを妻にしたいとおっしゃっている。
それなら、貴方はただご自分を通せばよろしいのよ。貴方の根幹を揺るがすような問題においてまで、お兄様の言いなりになって主義主張を曲げる必要なんかない、貴方はただ、伯爵様にこうおっしゃればいいだけだわ。もし貴方がタティを排除するようなことをすれば、自分も死ぬと。それでもう、この方は何もおできにならない。
だってギルバート様にとって、この世でアレックス様ほど大切な者はいないんですもの。それがどれほどの脅しになるかを、私はこの際貴方に教えて差し上げるわね。
もしこの聞き分けの悪いお兄様が、今後何か貴方に理不尽な要求を突きつけるようなことがあれば、貴方は澄ました顔でそうおっしゃって。それだけでこの方は、きっと黙っておしまいになるから」
僕はルイーズという女が分からずに、彼女を黙って見ていた。兄さんは、弟の僕にご自分の弱さに関する打ち明け話をされたことを、受け入れたくないかのように頬杖をついてよそ見をしていた。
「兄さん」
僕は名前を呼ばれても一向にこちらを見ようとはなさらない兄さんに向かって、はっきりとこう告げた。
「僕はタティを妻にします。いいですよね」