第217話 優等生スタープリンス(3)
それから僕は、殿下に僕の部下たちの紹介を一通り済ませた。
そして部屋の中央部分にある、低いテーブルを囲むようにして四方に配置された樫の飾りつきのソファにはさすがに僕だけが招かれ、フレデリック王子殿下の間近でしばらく時間を過ごした。
「殿下はその、青がお好きだそうですね。シエラが言っていました……」
ソファに腰かけ、二人きりのような形で向かい合うフレデリック様の顔を、正視できないまま僕は言った。
フレデリック様の容姿が妙に気になるのを除外して考えても、僕はこれまでの人生で、自分より年下の奴と関わったことなんてなかったので、ましてや王子様相手にどうしていいのか、適切な対応の仕方がよく分からなかったのだ。
そこへ召使いが紅茶を持って来たので、僕はしばらく救われたような気持ちで彼女の作法を眺める。薔薇の刺繍の入った衣装。十七、八歳の若い侍女だ。世継ぎの王子に配置されているからには、実家はかなりいいところのお嬢様のはずだ。
彼女が殿下に憧れて、ちらちらと王子様の顔を盗み見ているのが分かる。フレデリック様はそれに気がつくと、迷うことなく彼女に微笑みかけた。ありがとうなんて、爽やかに声までかけている。白い歯が、今にも光るんじゃないかと僕は思った。
するとたちまち侍女の背中がびくんとして、頬が赤らみ、それからしばらく時が止まる。たぶん、彼女の頭の中では流行の恋の歌でも流れていることだろう。
僕だってこれでも結構いい男のはずなのに、見向きもされないのは面白くない。兄さんのせいでこういう役まわりには耐性があるが、別のお菓子を持って来た召使いも、やっぱりフレデリック様の御顔を惚れ惚れと眺めるばかりだった。
やがてお茶が出来上がり、殿下と、僕にもそれが振る舞われた。
フレデリック様は気取った動作で香りを楽しみ、それを一口飲んだ。美しい所作だった。
「青はね、姉上がお好きだった。私が特別好きというわけではないが、私が姉上をお慕いしているという、ポーズを取る必要があった。妾腹の私が正妻の姫を陥れたと言いがかりをつける者がいるからね、それで……」
フレデリック様はカップを前のテーブルに置き、巻き毛を軽く撫でられた。いかにも優男らしい、気障な動作だが、美しい彼にはそれらのことが恐ろしいくらい様になっている。
「フェリア王女を慕うけなげな弟王子という、分かりやすい構図を示すという意味で……、今ではまあ、私も青は好きかな。青は姉上の色だし、私は姉上をお慕い申し上げているからね。シエラは……」
フレデリック様は一瞬言葉を切って、躊躇い、それからもう一度同じ言葉を繰り返した。
「シエラは元気にしている?」
シエラの名前が殿下の唇から紡がれたので、僕はひとつの正念場であることに気がつき、慌てて背筋を伸ばした。
「勿論、勿論でございます」
「うん、ならばいいんだ」
フレデリック様は頷いた。
「シエラはあまり気丈な娘ではないから、気にかけていた」
「アディンセル家では、不自由なく過ごしていると思います。それに兄がドレスをたくさん買い与え……いえ、プレゼントしているので、毎日着飾るのを楽しんだりもしているみたいで。
彼女は紅茶を淹れるのが上手なんですね。いえ、僕は全然親しくないんですけど」
「私はシエラを愛妾に迎える気はない」
ふと、フレデリック様はきっぱり言った。
「実はギルバート卿から、そういう打診が来ているのだが。シエラを私に差し出したいという話がね。彼がシエラの身元を引き受けることになった当初は、そういう話はなかったはずだが、昨今のアディンセル伯は私に取り入りたいことを隠さない。ある意味では潔い。
しかし私の見解はこうだ。もしシエラがアディンセル家に居場所がないのなら、彼女の身柄はこちらで引き取っても構わないとは思っている。シエラに肩身の狭い、可哀想な思いをさせたくはないからね。しかし私にそのつもりは毛頭ないことを伯爵に言ってくれ。仮にシエラを私のところに寄越すとしても、あたかも寵姫になるかのような外堀固めをしてくれるなとね。
それにつけ加えておくと、私に女を献上しようとしているのは、何もアディンセル伯ばかりではない。現在、有力諸侯から少なくとも十数件はそうした類の話が来ている」
「十数件もですか?」
「そうだ。若い王子に対して威力を発揮する、典型的な上納品というわけだ。私の王位継承の目が明らかとなった途端に、物凄いてのひら返しを何度も見たからな。今更女の献上話くらいでは驚かないが。調子に乗って全員採用したら、あっと言う間に特上の後宮が出来上がる」
そしてフレデリック様は苦笑された。
一瞬だけ間を置いて、どうやら殿下は御冗談をおっしゃったようだと気がついた僕は、慌ててそれに同調した。
「しかし青いことを言えば、私は妾という慣例自体気が知れない」
フレデリック様は僕に仰せられた。
「我が国の体質から言って、そんなことをさせれば、娘本人がそのような淫らな性質の女であるとみなされるだけではなく、その一族自体、そういう家系だとみなされることになる。以後後世にまで妾を輩出した家系だということを、忘れられることはあるまい。何代かはまともに扱われないであろうし、敬虔な者たちの怒りを買い、そうでない者たちの間では、恰好の物笑いの種となる……、これは、私の母がそうだった。たかだか侍女が国王の召し上げを拒否できるはずもなかったであろうに、誰も彼女の嘆きを理解しない。好きこのんで妾に身を落としたがる女など、いないということを理解しない。
私の母は、言われているような毒婦などではなかった。忠実で貞淑で、善良な誇るべきサンセリウス人であり、そしていつも暗い悲しみをその眼に湛えた女だった。言い訳ひとつもせず……、私に尽くしてくれた。息子の私を敬称で呼び、この私に跪いていたのだ、私の足許に額をこすりつけて……、その細い背中はいつも私に赦しを乞うているかのようだった。実際に泣いていることもあっただろう。
母を母と呼んでやれない自分が、せめてその悲しみや苦悩から助け出してやれない自分自身の無力が、幼い私はいつも本当に申し訳がなく、苦しかった……。
しかし世間というものは、どんなに母が心根の優しい女であったところで、結局のところ神聖な結婚に違反し、男に身体を許したという事実だけを見る。相手が高貴な男であろうと、本質部分の認識には大差ない。
だから陛下は私と母の関係性を希薄にし、私が王統に属する者であることを知らしめるために、私には母を下女として扱うように命じられた。侍女ではなく、下女だ。多くの人々の前で、母をひれ伏せさせ、決別を徹底させた。子供の頃の私は、陛下の思し召しが理解できず、なんと冷徹な御方かと陛下を恐れたものだった。だがそれほどのことをしてでも私から切り離さなければならぬほど、妾というものは人々の心の内側において、潜在的に見下される存在ということなのだ。
そして私の母は、陛下をたぶらかした稀代の淫乱女と袋叩きにされ、神聖なる陛下の結婚と、王妃の愛に仇なす者とされ、罵声を浴びせられて死んでいった」
フレデリック様は、僅かに眉を顰められた。
「私の母は、私のために、私を生かすために黙って犠牲になってくれたのだ。私を生んだ頃、彼女は王女に仕える、王女と同年代の少女にすぎなかった。母には恐らくいろいろな夢があっただろう。少女たちが当たり前に夢見るように、甘い恋や、幸福な結婚を夢見ていたことだろう。王宮ですれ違う若い貴公子たちに、胸をときめかせていたかもしれない。少なくとも妻のある男の性玩具にされることを望んだわけでは、なかったであろうに」
フレデリック様はしばらく沈黙した。
僕はそのお話をお聞きしている間、僕の母上、ギゼル様のことを少し思い出していた。
殿下はやがて息を吐き、彼は表情を戻した。
「すまない。話が脱線した」
「いえ、とんでもございません……」
「そういうわけで、私は妾というものに対して、まったくよい印象がないのだ。彼女たちの弱い立場を、どうしても私の母と重ねてしまうから」
「分かります」
「とは言え、前ウィスラーナ候ロベルトの妹というのは、今は何処でも扱いに困る存在ではあるだろう。
アディンセル伯爵家はランベリーを付与されるゆえに、シエラの嫁ぎ先として悪くないと思っていたが、伯爵とすればウィスラーナ家の娘を妻に迎えることで得られる利得は少ないと判断したようだな。年齢差がありすぎますなどと言って誤魔化していたが、彼は当初から自身がシエラを妻にすることには否定的だった。
確かに、ギルバートは彼自身が大変魅力的な男で、カリスマ性がある。壮年の美しい独身貴族は今もって国中の婦人たちの垂涎の的であることだろう。昨年末のことを思えば、王子であるこの私よりも女性人気が高いのは説明の必要もないな。私と伯爵とは世代が違うとはいえ、あのときは少々妬ましい気分になったものだ……、せめてあと鉛筆一本分私に身長があれば、あの黒いワルツの貴公子に張り合えただろうかとね」
フレデリック様は御自分の頭上にてのひらを添え、それから自嘲するように小さく息を吐いた。
「ともあれロベルトの失政、国境領主らしからぬ数々の振る舞いに、特にランベリーの国境付近の人々は、いつ土地が戦火に巻かれるかと怯えていたような状態での新しい領主の就任だ。もともとが人気の高いアディンセル伯は当地においても概ね歓迎すべき存在であり、わざわざ評判の失墜したウィスラーナの末姫を妻にする必要はないということだろう。
伯爵がシエラを持て余しているという状況は見て取れる。零落したとは言え、名門ウィスラーナ家の令嬢だ。まさか下働きをさせるわけにもいかないだろうからな。
だから彼には私が客人としてならいつでもシエラを引き取る意思があると伝えてくれ。本当は最初からそうしたかったのだ。ロベルトの蟄居が決まった時点で。だが妾にはしない。
シエラに限らず、私のために用立てられる娘は、どの娘も、きっと選りすぐりの美人ぞろいだろう。しかし私はどの娘も傍に置くつもりはない。
そこらに配置されている召使いの娘たちもそうだ。最近やたらと年齢の若い娘が増えているが、私を陥れるための罠か、それとも功名の手がかりのためか知らないけれども、断じてそのようにはしない。シエラにはこの話はしなくていいが、私が……、気が多いなんて思われたくはないから、でももしおまえが……」
殿下はちらっと僕を見て、視線を膝に落とした。
「話したいと思うなら……、私についての話をシエラにしたいときがあるとすれば、私が愛人を持つような男ではないことを、話をするのは悪いことではない」
「勿論です。殿下はそんな方ではないと、僕も思います。兄には戻り次第、殿下の御意向をすぐに伝えます」
「頼む」
フレデリック様は頷いた。それから言った。
「私はとてもシエラを心配している。おまえも知っているだろうと思うが、彼女はあまりに純粋で、汚れを知らない。まるで天国から降りて来たばかりの、夢見る天使のようだからな。
今度のことでは、ロベルトのことや、いろいろなことで、可哀想にどれほど動揺していることか……。
シエラはウィスラーナ家の娘として、きっと気丈に振る舞おうとしていると思うが、あれは弱い娘だ。心の中では震えて泣いているだろう。私が彼女の助けになれればいいのだが、シエラは私を拒否するかもしれない。だが現在の情勢を考えて、やはりシエラは私が引き取って、後見をしてやるのがいちばんいいと思っている……。魔法の勉強か、それとも何か好きな芸術でもやらせて、私がそれを見守ってやれたらと」




