第21話 伯爵の魔女(2)
それからタティの立ち位置に関するしばしの問答が、兄さんと僕との間で行われていた。
その数日前、居城の正面玄関にてタティを妾にすることを兄さんに重ねて宣告されたとき、僕は何しろ呆気に取られていたし、まっとうな平常心を失っていて、彼にきちんとそれが受け入れられないことだということを伝えることができていなかった。勿論考えを伝えたところで簡単に兄さんがお考えを翻されることはないけど、僕はまだその努力をしていなかったんだ。
だからそのときの僕は兄さんに向き合って、やっと自分が何を考えているかということを兄さんに訴えていた。僕はタティを妾にするつもりがないことを、兄さんに主張していた。
僕はこの問題に関して絶対に引き下がるつもりはなかったし、だから兄さんの弁舌の巧みさに幾ら言い含められかけても気にしないで要求をし続けた。つまりタティを妾にするのではなくて、彼女ときちんと結婚をしたいということを。
「またしても結婚か……、やれやれまったく、何故おまえはそうも単細胞なのか」
兄さんは始め、僕の言うことにただ頭を抱えていらした。
「アレックス、性欲と愛情を履き違えることは、若いうちには特にありがちなことなのだぞ。性急に事を決め、後から我に返って後悔しても遅いということが何故分からんのか。
女と寝るのにいちいち結婚をしなければならないという考え方は、まさしく狂気の沙汰だ。相手が王女とでも言うならおまえの言い分はもっともなことだが、小娘を妾にしておくことのいったい何が不満なのだ。どうせおまえの手元に置くことに変わりはないだろう。これはおまえにとって、まったく悪い話ではないはずだ」
だけど僕があんまり真剣に、どれほどタティが僕にとって大切で必要な人であるかを訴え続けていると、恐らくは煩い僕を部屋から追い払いたかったのだろう、とうとう兄さんの口からそれを許すような含みを持った言葉が出始めた。上手い具合に、その日の彼の機嫌は良好で、少しは聞く耳を持ってくださっていたわけだ。それで僕は、せっかく兄さんから引き出した譲歩の言葉を、少しも逃すまいとして更に何度も追求し続けた。
とにかく僕は、タティを妾なんていう不名誉で日陰の存在にしたくなかったんだ。姦淫は男女双方の罪であるにも係わらず、いつの時代も女性ばかりが罪人のように扱われて後ろ指をさされている現実があった。実際女性の不義だけを吊るし上げるための偏執的な姦通罪が、我が国には存在していた。
勿論アディンセル家のような貴族の妾となれば裕福で気ままな生活が約束されるが、それでもふしだらな女であるという世間の誹謗を免れることはできないのだ。ある種の慎重で良心的な人々はそれを表面には出さないだろうが、それでも潜在的には他の人々と同じようにそうした女性のことを軽蔑するだろうし、少なくとも二度と彼女をそれまでのように尊重することはなくなるだろう。気の弱いタティが、そんな世の中のレッテルを気にしないで生きられるとは思えなかった。
だから僕はタティと結婚をしなくてはいけなかった。本当は妾にするのを兄さんに撤回させるだけでいいのだが、結婚に持ち込もうとしているのは僕が彼女を手放したくないからだった。
その僕の姿勢に、兄さんはやがて大柄に脚を組み、左手を迷惑そうに額に添えた上で、諦めたようにこう答えた。
「ああ、まったく煩い奴だ。……分かった分かった。分かったからそう噛みつくな。
アレックス、近頃のおまえは何故斯くも私に逆らおうとするのだ。まるで私を非難すること自体が、おまえの趣味と化してはいないか。
あの程度の女が妻だろうと妾だろうと、いずれ大差のないように思うのは私だけか。
だがまあ……、そうまで言うなら場合によってはそうしてやらんでもない。そんなにおまえが望むのであればな」
「本当ですか? では、僕はタティと結婚しても構わないとおっしゃるんですね?」
「まあ、な。まったく……。未だに小娘に手をつけてないことを叱ってやろうと思えば、逆に私が責められるとは思いもよらなかった。
なかなか女に声をかけられない内気なおまえのために、わざわざ手近に専用の女を用意してやったというのに、おまえというのは何という恩知らずな奴だ。しかしなアレックス」
「何ですか」
「タティ、あの娘は少し目が悪いようだな……。話によれば、眼鏡がなくては新聞を読むにも事欠くというではないか。それが本当なら、それを子孫に遺伝させて貰っては困るのだがね。
我が家系が、本来戦場を駆ける騎士であることを考慮すれば視力のよさは重要だ。劣悪な身体条件を、わざわざ子供に付加してやることもあるまい?」
「……何がおっしゃりたいんです?」
「楽しむ分には、あの身体はなかなか具合がよさそうだということだ。
それに性格は温柔で純情、良識は備えているが策謀を巡らす頭脳はない。若い娘らしく性的知識に乏しく、控えめで、いかにも御しやすそうなところがいい。私をあからさまに恐がる話しぶりと態度からしても、あれはもう正真正銘の処女だろうしな。処女はいいぞアレックス。女は処女に限る」
そして兄さんは、革張りのソファに腰かけている彼の目の前に用意されていたハーブティーのカップに手を伸ばし、上品に唇をつけた。
彼がいちいち人目を惹きつけることには、長身で身体が大きいということや、美貌という以外にも、彼の動作それ自体に同性の僕でさえ魅了される何かが備わっていることも大きかった。それが威厳か、威圧か、威嚇か分からないが、とにかく見るものに貴族としての品位と彼の性格の強さや攻撃性を同時に納得させる何かだ。
僕は兄さんとつかみ合いの喧嘩をしたことはなかったが、成人をし、幾ら背格好が兄さんのそれに近づいたとはいっても、本気のやりあいとなれば僕はまだまだ彼に勝ることはできないだろう。
しかしだからと言って、このまま兄さんの思うがままに、何もかもを押しつけられることを甘受するわけにはいかなかった。僕の人生は、僕のものであって、兄さんの思惑通りに動かされてはたまらなかった。
僕は兄さんが言わんとしている言葉の残酷な意図を感じ、彼のことを睨みつけた。僕にはまだ何時間でも兄さんと議論する用意があり、しかも幾ら論破されても引き下がらないだけの熱意があった。
いずれ議論でなく、自分の意志を主張するだけの怒鳴りあいになるだろうが、それでも構わなかった。僕が兄さんに口論で勝てないことは今に始まったことではないし、年の離れた兄である彼に言い負かされることで僕の自尊心が傷つくことはないからだ。ここは要求さえ通せれば何でもよかった。
「兄さん、貴方は結婚を許すようなことを言って僕を安心させておいて、結局はこの話をなかったことになさりたいんですね。でなければ、いずれ難癖をつけて彼女を始末しようという腹なんでしょう」
「……、まあ、そう露骨なことは言っていないだろう。アレックス、まったくおまえはこの兄を疑うつもりなのかね?」
「そうです」
「いい加減、しつこいぞアレックス」
「兄さんの日頃の行いから、最悪の事態を想定したまでです」
「ははは、これは手強いな。そうだ、男たるもの相手の言葉をそのまま信用するようではいかん。いつでも疑ってかかり、自分の頭で情報を判断し、最悪の裏切りに備える。アレックス、これはよい傾向だ。
が、主君にあからさまな猜疑心を向けることはやりすぎだぞ。覚えておきなさい、物事には、程度というものがあるということをな」




