第208話 プリンセス症候群(1)
約束の三日後午前。
四月も終わりが近づくその日、僕は約束通り王城のフレデリック王子のお部屋を訪れるべく、サンメープル城の廊下を急いでいた。朝に幾つかの執務を済ませて、これから王都に飛ぶためだ。
最善とはいかないまでも、すべてのことが順調に、恐いほど順調に上手くいきつつあった。
たとえば兄さんとアレクシスのことがそうだ。アレクシスは正気がなく、意識の覚醒が危うくて、夢とうつつをたゆたうような生活を送っている。彼女が人生を取り戻すことは、現状難しいだろうと言っていい。誰か男の存在を察知しただけで怯えて震えてしまうのも、見ていられないほど不憫だった。
でも穏やかな気持ちでいるとき、彼女の心は暴行をされる以前の十代前半の少女に戻っているように僕には思えた。何故ならルイーズのことをお姉さんと呼んで慕っているし、まるで母親の庇護を求める幼い娘のように甘えているからだ。ルイーズはその期待に応えて完全に母親役をやっていた。ティファニーは娘たちに特に厳しかったそうで、だから姉さんは甘えることが必要なのだと言って。頭を撫でて貰ったり、髪を梳いて貰うのが、とても好きなようだった。
そして僕のことと言えば、やっぱり姿を見せるだけで泣いて恐がった。男性に関しては、その全般が本当に見ていられないほどの恐怖の対象になってしまっていて、これは非常にデリケートで繊細な配慮が欠かせないことだった。
でも不思議と兄さんのことだけはそうではなくて、彼女は起きているときでも兄さんの気配だけは恐がろうとしなかった。兄さんがベッドのすぐ傍にいて、アレクシスの手を握っていることに気がついても、彼女は幼い子供のような顔をして、夢を見ているみたいに微笑むのだった。
魂が結ばれている相手は分かるのだろうと、ルイーズが言っていたが、僕もその通りだろうと思う。ハッピーエンドとはいかないが、アレクシスが虐殺されてしまう未来があったことを知っている僕としては、こうして兄さんのところに帰って来て、少女の頃に過ごしていた親しみのある安らかな環境で、微笑みを浮かべていられる現在は、かなりましな未来なのではないかと思う。
つらい出来事から自分を守るためにああなってしまったのだとするなら、そのことは一生有耶無耶なまま、子供の心のままで過ごしていても、いいのではないかと僕は思っていた。わざわざ現実に立ち返る必要なんてない。そんな現実には何の価値もないだろう。それで僕のことが誰だか分からなかったとしても、寝室周りをうろうろしている得体の知れないお兄さんだとしても、たぶんそれはそれでよかったのだ。
そしてたとえば小生意気なハリエットとの関係がそうだ。
「きっと分かってくれると思ってた」
ハリエットが僕を見上げて微笑んでいた。
彼女がこんなふうに僕に親しみを向けてくれるのは初めてのことだった。
「信じていたわ。貴方はきっと分かってくれるって。タティのために、動いてくれるって。
貴方とタティはね、本当に、特別だから」
「特別?」
ハリエットは頷いた。小さな両手を広げ、一生懸命なほど僕に語りかけた。
「そうよ。二人はお互いを夫と妻として惹かれる相性なの。貴方とタティは天空の星々に、この世に生を受けたその瞬間から、伴侶だと祝福されている……、そういう星を持っているの。
これって、そうあることじゃないのよ。タティなんて、早産になってでもその日その時間に生まれたんだから。半端じゃなく貴方を愛してる。
そんな二人が人生の最初から出会ったのよ。運命に決まっているじゃない。
それなのに、結婚もしないうちに病気なんかで隔てられる関係じゃないって、わたし、星読みは得意っていうほどじゃないけど、そう読んでいたの。
タティは生命力が強くないわ。だから、何度か生命は危うくなるけど……、きっと死が約束されているわけじゃなかったのよ。だからわたし、貴方に動いて欲しかった」
「ハリエット、でも……」
僕が言いかけたことを察したようにハリエットは言った。
「ルイーズ様が、たぶん変な言い方をしたんじゃないかと思ってた。だって貴方、ある時点からわたしのこと妙に避けてたでしょ?
でもそうじゃないのよ。わたしは一方的に貴方を慕う星。貴方から見れば、わたしは妻でも何でもない。わたしが勝手に、一方的に妻の座標を持っているだけ。これは、典型的な片想いの配置なの。だからタティに対するように、貴方がわたしに強く惹かれるものなんてないはずよ。
運命って用意周到って言うか、残酷って言うか。貴方の魔術師になったことも、つまりわたしはタティの代替品ということ。最初からそういう運命なの。生まれたときから」
ハリエットはうつむき、それから僕を見た。
「魔術師は結婚も難しいの、分かっていてこのお役目についたの。それは、タティがお手紙に書いているアレックス様って方のことが、どんな人なのか興味があったなんてことじゃないのよ。
わたしね、世界に立ち会いたいと思ったのよ。
適当な相手と結婚して、終わって行くだけの人生なんて……、ヴァレリアのことは嫌いだけど、彼女が言ってることには内心共感しているところもあるの。女だからって道具みたいにされて、意思もなく夢もなく生きるなんて、悔しすぎるじゃない。
貴方にくっついて歩けば、世界の中心に導かれるって、星を読んだの。当たってたわ、薔薇君様から御声がかかった」
「そんなことも分かるのか」
「今のところ、まだ精度は悪いけどね。でもわたしは田舎のお嬢様で終わりたくなかったの。
わたしにも、わたしだからこそ必要とされる居場所が欲しくて。それは必ずしも運命の恋人とは限らないでしょう。お役目だって構わないのよ。
だから、何処まで行けるか分からないけど、これからも貴方の部下として全力を尽くすつもり」
そして僕らは廊下を歩いた。カイトとオニールが後ろをついて来ている。いつもの通りくだらない軽口を叩きあっている。僕はカイトが一方的な階級差別の被害者だろうと思っていたのだが、意外やオニールと渡り合っているから、ちょっと戸惑ってもいた。
まあ確かにカイトは全然内気な性格じゃないし、図太いっていう意味でもかなりのものだ。でもそれでもヴァレリアとの関係を見ていると、いつも一方的にこれでもかと侮辱されているわけだから、オニールみたいな貴族出の苛めっ子が恐くないのかって、前にちょっと聞いてみたのだが、カイトはそれほどでもないと答えた。
「そんな酷いのは閣下が貴方の側近に採用しませんって。オニールはまあ、今どきの若者と言うか、尊大さが見えるところはありますが、彼は何つうか可愛げがあるほうですよ。ジャスティン様みたいな兄もいるわけですから、成長過程でそれなりに踏み潰されて来たってのが分かると思います。
閣下はたぶん、アレックス様に普通の友だちを作らせたいんですよ。俺みたいなのじゃなくて、血統がよくて、きちんとした家庭で育って、貴族階級にちゃんと属している、同じ価値観や思想観で世界や将来を語れるような、そういう同年代の友だちをね。互いに子供時代を知っているなら、ゼロからの他人じゃないわけでしょう。きっといい関係を作れるはず」
「友だちはカイトで間に合ってる」
「それは嬉しいな。でも、彼が貴方に対して昔どんなだったかは知りませんが、アレックス様もそろそろコミュニケーションを図られてもよろしいかと。例えばオニールの朝の挨拶に応じるとか。挨拶は人間関係の構築に欠かせないですよ」
「嫌だよ。僕はデリケートなんだ」
「ですよな。分かります」




