第207話 聖女の愛しい伯爵
結局兄さんは強情を張って、アレクシスを迎えに行こうとしないので、翌日僕とルイーズでアレクシスを迎えに行った。
ルイーズが主張するアレクシスの安全面への配慮、また兄さんの乳姉妹である彼女たちが育ったのは、実質実家ではなくこの居城内だったということから、アレクシスは当分は別荘ではなくサンメープル城内に置くべきだということになった。
昔アレクシスがこの城に住んでいたときの部屋を、彼女の好きな花や人形で飾って、アレクシスのために兄さんづきの古株の召使いたちが改めて配置されることにもなった。できるだけアレクシスの居心地がいいようにという兄さんの特段の配慮だというルイーズの言葉を信じるなら、昔のアレクシスを知っている人々のうち、まだここに仕えていた人々が彼女のために掻き集められたわけだ。
だがその昔、中庭で無邪気に花摘みをしていたアレクシスはもういない。
僕は憧れのお母さんを手に入れたい気持ちもあって、最初、彼女は単なる一時的な記憶喪失なのではないかと、そんなことを期待していた部分もあった。彼女の部屋をうろうろしていたら、やがてアレクシスが僕をみつけて、微笑っておいでおいでをしてくれやしないかと……、しかし現実はそこまで都合よくはいかなかった。長年の虐待によってアレクシスの精神は思っていたよりずっと衰弱し、大袈裟な表現などでは決してなく、完全に気がふれていた。
彼女は一日の大半を意識も保てないような状態で、起きているときには室内に誰か男がいるというだけで悲鳴をあげたが、それは僕に対しても例外ではなく、彼女は僕が誰であるかを、認識することができなかった。
もし二十年前に赤ん坊を生んだことを記憶の何処かにとどめていたとしても、それと目の前の二十歳の男とが同一人物だなんてことを、結びつけることは今のアレクシスには無理なのだ……。
彼女の心がせめて安らぎを取り戻すためには、虐待を受けた年月と同じ年月か、それ以上の年月がかかるだろうと医師たちは説明してくれた。それでも心が癒されることはないかもしれないということだった。
兄さんがどのようなお考えでいらっしゃるにしても、僕が一生貴方の面倒を見るから、安心してと、僕は深い眠りにつくアレクシスに誓った。
思えば彼女の人生とは、惨憺たる裏切りの人生だったのだ。幼くして父親に切り捨てられ、恋人であるはずの男からは一度ならず二度までも、切り捨てられた。ゴーシュが救いの手を差し伸べてくれなかったら、あれは今となっては僕の見た夢だったのか、自分でもよく判断がつかないところだが――、アレクシスは今頃報われるということがないままに、その人生の終幕を迎えているところだった。
だからせめて息子である僕だけは、彼女を切り捨てるようなことをしてはならないし、しないということを……、本当は起きているときに言いたいのだが、起きているときに僕の姿なんて見ようものなら、絶叫を上げられてしまって僕もいたたまれないので、寝ているときにこっそり寝室に行って、そんなことを心の中で呟くのだった。
不義の娘という理由からルイーズ、アレクシス姉妹を支えてくれる親族はおらず、アレクシスの帰還を聞いて駆けつけて来たのは結局二人の実母であるティファニーだけだった。
ティファニーは若い頃にしでかしたことで、彼女の実家からは縁切りをされているそうだ。と言って、婚家であるディアス家の面々としても、単なる後妻の連れ子に過ぎない姉妹のことを親身に思う者はいないようだった。
ルイーズとアレクシスには義理の父親の他に、五十過ぎの義理の兄がいたのだが、老いた義父に代わって家の実権を持つこの男がまた曲者だった。後日、体裁のために形だけ義妹の見舞いにやって来た彼は、所詮ダグラスの下で働く三下に過ぎないくせに、ルイーズやアレクシスに対する態度があまりにも高圧的で、売春婦と罵らんばかりだったのだ。
眠っているアレクシスの顔を見ながら、忌々しそうに彼は吐き捨てた。
「まったく汚らわしい。男になぶられた肉体をまあ、おめおめとどの面下げて……。生きて戻るとは、おまえもしぶといことだ。この売女。血は争えんものだよ。
ウィシャート公の肉奴隷にされた女が我が一族の名を名乗っているとは、こんな恥辱もないものだ」
「義兄様、どうかそんな言い方をされないで。事情をお分かりでしょう。アレクシスはそんな女ではありません。誹りなら私が受けるわ」
「当然だルイーズ。おまえも所詮は伯爵閣下の肉奴隷ではないか。この盛りのついた淫乱姉妹が。
ギルバート様とおまえが只の主従関係と思っている者など界隈に誰もおらん。女の魔術師が主人と性的関係を結んでいることは、そう珍しいことでもない。ましてやおまえはあの淫乱情婦を母親に持っているわけだからな。
未婚の身で男と通じ、結婚はおろか認知すらも貰えぬ子を産んだ筋金入りの売女の血筋だ――、母と姉が売春婦であるからには、おまえとて素質は十分。おまえももっと積極的に伯爵様を悦ばせ、せっせとお慰めすることだ。おまえたち母娘はそれが得意だろう。見事あの方の子を孕んでくれたなら、こちらとしても大金星だ」
それから彼は部屋に僕がいることに気がついた。睨んでやると、弟君様におかれましてはご機嫌麗しゅうなんて、一転して美辞麗句を並べ立て、慌てて逃げて行ったのだが。
彼は自分よりも年の若い後妻のティファニーを今でも憎く思っているし、また易々と当主専属となったルイーズの才能に嫉妬をして、何かとつらく当たるというような、何だか非常に荒んだディアス家の内情を垣間見たのだった。
ルイーズは女子だから今後も彼の立場を脅かすようなことはないのだが、連れ子であるルイーズは、常にディアス家の面々に無視され、居場所がなかったことを、アレクシスの見舞客が他に誰もいないこととあわせて、彼女は居心地悪そうに僕に打ち明けた。だから年末年始にも、いつもサンメープル城にいたのだと。
「恥ずかしいところを見られちゃったわね」
特別にしつらえた、花畑のような寝台で寝息を立てるアレクシスの側で、僕らは話をした。
「そういう身上だから、お見舞いはないのよ……、ディアス家の一族も、お友だちも……、私生児とは、まともなお嬢様たちはつきあわないの。仕方がないことだけど、悪い友だちを持つと、評判が下がってしまうから。女の場合、結婚にすら影響してしまうものね。
だからこれは、姉さんがということじゃなくて、私が敬遠されているということなのよ」
「君を慕う人は、君が思ってるよりいると思うよ」
僕は慰めた。
「僕もいるし。あいつとっちめる?」
「いいわね」
ルイーズが笑った。
「天の王国では、生まれとか性別とかの差別もないんだって」
僕はふと窓から見える雲を指差して言った。
「共和制を敷いている、平和で立派な社会だそうだ。まあ僕は血統主義を完全に無くしてしまう必要はないって思うけど。
結構、いいところみたいだよ。聞いたところでは、理想郷みたいな印象を受けたんだ。神様の御膝元だからかな。
でもそこは、その社会の水準にあう人々しか住めないようなことを言ってた。良識やモラルのない人間は、はなからお断りってことなんだろう。君は天の王国の存在を信じてる?」
「さあ、どうかしら」
ルイーズは優しく微笑んだ。
「でも、すごく興味深いお話ね。どなたがそんなことを言っていらしたの?」
「それは言えない。しゃべらない約束だから」
「そう。あるなら是非行ってみたいものね。旅行でもいいから」
「そうだね」
「そういうことなら、私では、住めるかどうか分からないし。そんな理想郷があるなら是非とも観光だけでも」
「君は住めそうな気がするけどね」
「あら嬉しいわね。でも、もしそんな場所に行ける人間がいるとするなら、それは真っ先に姉さんだと思うわ。彼女は本当に、天使みたいだったのよ。性格がいいどころのお話じゃなかったの。純粋で、人の言うことを簡単に信じてしまって。
人を疑ったり、ましてや攻撃するなんて思いつきもしない。自分が傷つけられても、相手を傷つけるということができないの。誰かに私生児だなんて意地悪言われても、笑顔でいてね、でも微笑みながら、ぽろぽろ泣くの。だからそういうときは私が騎士になって、いつもそういう奴らから姉さんを守ってた。純粋で、優しくて、おっとりしてて、妹ながら、いつも目が離せなかった。
でもいつの間にかその役目を、ギルバート様に取られちゃってたわ……。でも私に守られるより、ずっと安心している姉さんを見ているとね、私も見惚れてしまうくらい綺麗だったの。妬ましいなんて気持ちは湧いて来ないくらい、本当に美しかった。
アレクシスは彼に恋していたの。
アレクシスの魂が誰よりも清らかなこと、ギルバート様もちゃんと嗅ぎつけてた。二人は間違いなく運命の恋人だった。二人は幸福になるはずだったの。
それなのに、こんな可哀想なことになってしまった……」
ルイーズは言って、アレクシスの髪に手を伸ばし、それを優しく整えて額にキスした。
「結局私が姉さんに守って貰っていたのよね。いつも、私が内気な姉さんを守ってあげている気になっていたけれど、でも本当のところでは、いつも私のほうこそ……、いつでもアレクシスに守られていたの……」
そのときノックもなしにいきなり部屋の扉が開いたので、僕はまたあの義兄の奴が戻って来たのかと、警戒して振り向いた。
しかし扉のところには兄さんが立っていた。只でさえ威圧感のある大柄な身体の上に、黒い衣装にブーツにマントまで全部黒い。しかもマントの裏地は赤いという、悪役もさながらの出で立ちだった。
僕は今頃やって来た兄さんを、当然冷めた目で睨む。何せそのときはアレクシスがサンメープル城に帰って来て、二日も経っていたその夕方だったからだ。
「さしずめ聖女アレクシスを狙う悪魔伯爵のご登場というところですね。いいご身分だ」
「……起きているか?」
兄さんは僕の嫌味を意に介さず、ルイーズに言った。さすがに幾らかは、気まずそうに。
「いいえ、眠っているところよ」
兄さんは安堵したように頷き、部屋の中に入って来た。
「今日も忙しかった」
言い訳がましく言いながら、兄さんはずかずかと女の寝室を闊歩し、ベッドの前までやって来た。そしてアレクシスの横にいた僕の前に、ずいっと割り込む。
「退きなさい。邪魔だよ」
「何だよ、今頃来てその態度なのか」
「煩いぞアレックス。静かにしなさい。病人を起こすつもりか」
「なんで僕が怒られるんだ」
僕は文句を言おうとしたが、それ以上はルイーズに諫められた。主君に向ける口のきき方ではないというわけだ。
「やっと逢いにいらしたの」
僕らが見守る中、兄さんはアレクシスの眠る寝台に寄り、片膝をついた。そして少し躊躇った後、恐る恐るという表現がぴったりの動作で、右手を彼女の額に伸ばした。さっきルイーズが整えてくれた髪にそっと手を置き、大きな手で、いたわるように優しく撫でた。
夕方の染まりかかった光が窓辺のレース越しに柔らかく差し込んでいた。
しばらくそうしていると、深い眠りについているはずの閉じられたアレクシスの目から、涙の粒があふれてきた。それは後から後から、あふれてはつたっていった。たとえ意識がなくても、正気がなくても、やっと兄さんが逢いに来て、彼が傍にいることを感じて、アレクシスが涙をこぼしたのだ。
あまりのことに僕は思わず目の前がにじんだ。こんな姿になってしまってなお、彼女は兄さんを愛している。自分を二度も見殺しにした兄さんのことを、恨んだって許されるだけのことをされているのに、アレクシスは……!
僕の横で、ルイーズも涙を拭っているのが見えた。
それなのに、兄さんはそんなアレクシスのことを尻目に、無表情のまま立ちあがって、そのまま何事もなかったように寝室を出て行こうとした。
この哀しい女性の涙を見てなお一片の揺らぎもないとは何という冷酷かと、今度という今度は思ったが、兄さんは突然踵を返し、一度は取り残されたアレクシスに取り縋り、彼女のことを胸に掻き抱いた。
戻って来たその表情は苦悩と悲しみにかき曇っていた。ほどなく兄さんの赤褐色の目に大粒の涙が浮かび、堪えていた感情を吐き出すように声を上げて泣いた。
「すまなかった……、アレクシス……、アレクシス……!」
まさか兄さんがそんなふうに泣くなんて、僕はどうしていいか分からなかったが、取り敢えず、そのときは気分に飲まれて僕も盛大に大泣きをした。と、肘をルイーズに引っ張られて、即座にその場を強制退場となった。




